メロンダウト

メロンについて考えるよ

世界のすみ分けという以前に日本人はテクノロジーにたいする警戒心がなさすぎる嫌いがある

荻上さんの記事を読んでいたら今年はじめに自裁した故・西部邁さんがアンチテクノロジーをたびたび唱えていたことを思い出した。

「世界のすみ分けが露骨にネット上で可視化されている」荻上チキ氏に聞く 分断するネット社会のいま

インターネットはもちろん自動車ですら反対だと言っていた。自動車までも反対というとあまりにも極端に響くが西部さんの言っていたことは単に保守というわけではなく充分に論理的なものだった。人間のセンチメントに根差した論理を保守と考えていたのだと思う。その意味でテクノロジー全般に関しては人間の人間的活動を侵食していくという立場から反対だと言っていた。

印象的な言葉がありこのブログでも引用したことがあるが西部さんは

「テクノロジーは原理的に不可逆である。核兵器が世界中からなくなった時が最も危ない。核兵器が消えても核に関する知識が消えることはないからだ。もし核が消える日がきたら核を最初に持った人が権力を握ることができる」といったようなものだった。言葉そのものが正確かは覚えていないがかなり核心をつく内容だと思う。

大きな話にすれば人文科学から自然科学への警鐘だということも言える。

それはインターネットも同様のことがいえるだろう。インターネットの存在を消すことは不可能だがインターネットを定量的に見た場合、どんどん弊害があらわれてきた。政治的には荻上さんの記事もその一端をとらえていると思う。あるいは経済的に言えば格差拡大の弊害のほうが大きくなっているようにも見える。1・2次産業の生活はそれほど楽にはなっていないのにネットが需要のほうだけを操作している。ランサーズに代表されるような資本主義にライドした中間マージン業者。タイムバンクやバリューのような無実存の市場化。ヤフオクやアマゾンはすべての小売業者をフランチャイズ化し事実上格差を拡大させている。

 インターネットはたしかに革命的なものだと今でもそう思う。しかしちょうど原子力発電よりも核兵器の弊害のほうが多く語られ、警戒されている現在の原子力技術も発明された当時は希望として語られていたのかもしれない。そしてそれはインターネットも同様である。テクノロジーは不可逆な原罪を抱えている。

 

僕はこの意味でテクノロジーに関しては保守的な立場だと思う。実際、インターネットが世界を良くしているという実感があまりない。買い物ひとつとっても今アマゾンなどを利用して買っているけれど原宿や下北の古着屋を散策して買い物していた大学生の時のほうがあるいは幸福だったのではと思うことがある。自分のことながらよくわからない。ネットの利便性はたしかに便利で楽だが半強制的に大学生なりのファッションをめんどくさいと思いながらアルバイトの給料でそれなりの服を探していたほうがなんというか人生の代謝みたいなものを感じたような気がする。

 

さて

上述した僕の立場から荻上さんの記事を考えるにインターネットで世界のすみ分けが可視化された、というが政治的または社会的なレベルで考えるならばすみ分けるべきは保守対リベラルではなくネット対現実のほうだと思う。

というのも以前、スマイリー菊池さんがネット上の虚偽のデマで芸能の仕事をなくしてしまったということがあった。あの件を見た時に思ったのがインターネットの反応を大衆の反応ととらえてスマイリーさんを起用しなかったテレビやラジオの対応はどうだったのかと思ったのだ。あの事件もネット上ではかなり大きな事件だったと思うが実際に炎上に加担していたのはごく少数の人達だった。すべての炎上がそうであるがごく少数の神経質な暇人の意見を逐一聞くのはいいがそれを実際の運用方針として採用するとどんどん間違った方向へ現実が傾いていく。だからラディフェミやネトウヨなどの極論などもすべて現実と切り離して無視すべき。それがたとえヘイトであっても。ヘイトはヘイトとして炎上させることでむしろヘイトが増殖していくような傾向がよく見られる。ヘイトやネトウヨのような短絡的なイデオロギーはその安易さゆえに論理がわかりやすい。わかりやすいゆえに批判するのが簡単だから炎上するしわかりやすいゆえに「理解」して納得する人が出てくる。ちょうどスマイリーさんの事件で「反殺人」という理解しやすいテーゼが転がっていて暇人が蹴っ飛ばしていたのと同じようなものである。

 

もちろんあるていど定量的な倫理でもって反社会的だと判断されうる人が制裁を受けるのは間違ってはいないと思う。それはインターネットの良い面だ。しかしそれもエビデンスをもっておこなわれるべきではある。

つまりインターネットの反応は理解しやすいものほど批判されやすく納得されやすい。ゆえにすべてが極端なものに先鋭化していく。インターネットというテクノロジーが持つ不可逆な機能としてある。普通の人はそんな極端な論理で物事は回らないだろうという現実的な戦慄をもって生きている。しかし企業活動として考えた場合にその極端なものを世論として認識してしまう現実がある。現実のほうがインターネットにたいしてもっと警戒するべきだ。インターネットで得る感覚的世論は世論ではないしそれらは良識でもなんでもない。

ネット上でどれだけ啓蒙してもこの機能は変わらないだろう。インターネットには明らかに弊害がある。そしてそれはテクノロジーが持つ原罪だと言っていいと思う。ネットを変えられないなら現実のほうを変えればいい。

インターネットというテクノロジーが持つ悪性にたいして距離をとる現実のほうを構築するほうが早いと思う。ネットをインストールしない現実というとあまりにも難しい気がするがビジョンとしてはそう考えたほうが良いと僕は思っている。

 

ラディフェミ、ネトウヨヘイトスピーカーはネット上で勝手にやってればいい。それを僕達は完璧に無視すべき。まず無視してから考えよう。

僕がポリティカル・コレクトネスに懐疑的な理由は価値観と一言で言っていい価値観など存在しないから

ポリコレもといフェミニズム文化左翼と呼ばれるような人達にたいして僕は若干距離をとって見ている。感覚的にもポリコレや似非リベには違和感がある。しかし感覚的な違和感とだけ書くとしょうもない個人の感想に過ぎないのですこし頑張って言語化してみたい。あ、この記事への言及です。

yossense.com

『ドラえもん』でLGBT差別な表現が……この時代にまだ「同性愛はキモい」と発信するか?! | ヨッセンス

自分はもとからポリコレには懐疑的だからこういう神経質な記事自体を否定するよ。あとでブログでも書くかも。

2018/08/12 17:10

b.hatena.ne.jp

 

まずおおざっぱに言うならば最近のポリティカルコレクトネスの議論を見ていると真面目がゆえに危険だと思っている。真面目さそのものが疑問視されることは少ないが真面目さは多くの場合において悪徳と言える。原理主義者が危険なのと同じだ。オウムがインドの仏典の翻訳に尽力していたのもイスラム原理主義者も真面目に宗教をとらえすぎるからおかしなことになる。真面目な人はいい人だという価値観が日本には根強いが僕はこれは単に真面目で危険な人を社会に組み込むための方言だと思っている。いいかげんな人のほうがいいやつに決まっている。詳しくは以前書いた記事があるので貼っておきます。

 

plagmaticjam.hatenablog.com

 

また、ポリコレなどの価値の議論において真面目さを伴って周知するとその価値観は必ず「形式」を帯びることになる。

価値観は周知する段階において(大規模になればなるほど)ワンフレーズ化し単純で短絡的なものになっていく。反アベや原発反対、差別反対などがいい例だろう。しかし価値観と一言で言っていい価値観など存在しない。ちょうどひとつ前の記事で言及した宮台真司氏がクソフェミなどを称して「言葉の自動機械」と呼んでいるがそれに近い。自動反射的に大義を持ち出して個別事案それぞれを考えない人間は以前は自動反射的にゲイは気持ち悪いと言っていたであろうことは確信を持って言える。つまり価値観の正しさなんてのは大した問題ではなく短絡的な思考に走るその様式こそが問題なのだ。最近のポリコレ界隈を見ていると明らかにその問題があると確認できる。

 

ポリコレを肯定するのであればおおいにすればいいと思う。ポリコレは価値としての正しさの側面で言えば正しいことのほうが多い。しかしそれを大義として持ち出すとなると話は別となる。個別事案には個別に思考する必要があってその思考の結果としてこれはポリコレ案件だなということは言える。個別で考える際にはそこになにがしかの現実の論理と価値観の余白(不真面目さ)が必要であって言及記事のように

「ポリコレは正しい、LGBT差別反対」という形式的なワンフレーズポリティクスを御旗にして外れているものを批判するような方法は支持できない。なぜならそれは原理主義者と本質的に同じ思考様式を取っているからだ。

逆にこれがこうこうこういう理由で僕は差別だと思うという記事であれば有用である。ポリコレという大義にあてはめて対象を批判するというのは価値観が間違っているのではなく方法として間違っている。

以前、男性はみんなフェミニストになるべきという漫画がばずって炎上していたことがあるがあれも同じことが言える。

またイスラム教もひとつの正しさとしては正しい、けれど使用用途を間違え他の価値を排除するほどに正しいと考える思考は正しくない。

 

まとめると真面目さによって疑義がなくなって周知の段階において形式的になった価値観を「使用すること」はその価値観がいかに正しかろうが正しくないということである。

問題は常に個々人の思考プロセスの中にあって短絡的な価値観に飛びつきそれを発信する人は瞬間的には承認を得るが正しさに酔い必ず間違うことになる

ニャートさんのラジオと宮台真司氏の記事から自己責任とクズについて考える

はてなブログのニャートさんがラジオに出演するというので聴いてみました。ロスジェネの格差と実態、勝ち組が唱える自己責任論への批判がメインのテーマだった。

nyaaat.hatenablog.com

 

と同じ日に宮台真司さんの記事を読んだ。

originalnews.nico

 

いわゆる近代社会では難しくなった「聖域」の話をされている。損得を超えた隣人愛こそがすべての突破口になるという論。

 両者ともに同意するのだけどもうすこし考えてみたいと思った。

 

 

 

ロスジェネ世代の自己責任論と損得に奔走する近代人というのは資本主義による個人主義という点で明らかに同相である。

お二人が言う自己責任や損得ばかりに躍起になる人はクズだという批判は同意できるのだけど僕が個人的に思うのはクズがクズになる回路はどこにあるのだろうかということだった。つまりこれらは個人の病理なのか社会の病理なのかという話だが僕は社会の構造が「そうしてしか生きていけない」人を造っているのではないかと思う。

 

確信して言えることだけど資本の運動に身を任せ形式的な社会性を成功と捉え自己を固めると今の社会の環境では自己責任論者になりやすい。資本主義の元々の構造としてそういうバイアスが存在するのは間違いない。そこで人間が人間らしくいられる関係が家族だったり友人だったりの資本とは切り離された関係、つまり「本当の意味の他者」がいる聖域なのだけど、しかしいま家族すらもその社会性に縛られていたりする。おもてだっては表れてこない場合が多いけど兄弟同士でも社会階級の差によって優劣が暗黙的につけられることもある。

家族や友人、それらが重要なのは宮台さんの言った通りだ。しかし多くの人がそういう生き方を「したいにもかかわらずできない」ということにこそ注目すべきだと思う。

損得を超えて愛でつながり人間関係が超自然的に或る場所に所属して穏やかに呼吸して生きていきたいということ。そんなことはみんな知っていると思うんですよね。人間の生理的な希求として安全欲求があるけど安心できる場所は誰しもが求めている。だからおそらくはみんなそんなに頑健な資本主義者ではないはずだということは確信をもって言える。しかし資本主義的に生きなければいけない構造に人々は設定されていく運命にある。一生懸命働かなければ社会についていけないから一生懸命働くけど一生懸命っていうのは言い方を変えれば盲目とも言える。周りが見えなくなった時に目にうつっている目の前の損得をとりあえず手に取る、そういうことを繰り返しているうちに自己がどこにあるのかよくわからなくなる。

リストカットのように自傷行為としての損得の獲得がやめられなくなる。それを解除するのが友人や家族なのだけど家族をつくる関係の入り口にも社会的立場が関係してくる。家族をつくるためにさえ損得にはしらなければいけない。あるいは社会人になれば友人でさえ社会的、経済的立場からはじまることが多い。

 

つまりクズが損得を追うというのは僕は正しくないと思っていてこの世界では意志を持たないで自然に生きていると損得の獲得から解除される術を持ちようがないのですよね。因果関係ではなく相関関係によって袋小路になっている。クズはクズだから家庭を持てない、ゆえにクズのままだから損得に走るゆえにクズというのはこれは蔑視の対象ではなくむしろ悲劇とみるべきだと僕は思う。なぜなら僕自身そういうクズになる思考というのはものすごくよくわかるからだ。

もちろん個人の選択は無限にひろがっているので個人が行動を起こせばその人の世界は変えられるけれどそれはミクロの話でしかなくて社会全体の病理として厳然として「何かがいる」んですよね。

 

この話は自己責任を言う人の心理にも関係してくると思っている。自己責任論者はなぜ自己責任を説くのかというと家族も友人も仕事も成功もすべて損得が関係してくる世界(資本主義社会)ではすべての関係性は自己の達成物以上のものではないからだ。

他者とは本来、理解不能であって損得競争で獲得するものでもない。しかし資本主義社会では他者を競争によって獲得できるようにになった。家族も友人さえも。その意味において獲得した他者の存在は資本主義における自己努力と密接に結びついてしまったので他者と自己は切り離されていない関係となっている。

自分が努力すれば人は寄ってくる。金の切れ目が縁の切れ目ということが骨の髄まで染みついてしまった人が何を言うかといえば愛とはつまり努力であり他者とは自己である。ゆえにすべては自己責任だ。

資本主義という定量化された価値基準の世界においては価値が下がれば人は離れていくしあがれば人はついてくる。すべてだ。他者や家族さえも自分の努力によってひもづけられた世界において自己責任という言葉は非常に重く残酷だ。言葉としての残酷さではない。自己責任が支配する世界に生きてきてそれを話す人間の過去を考えるに残酷だ。

ゆえに自己責任は現実を鋭くとらえた言動にすら見えてくるのだ。

 

 

しかしもちろん資本主義の別の側面から言えば勝つ人がいれば負ける人もいる。負けている人からすれば自己責任という言葉はひどい言葉に聞こえることは間違いない。しかしこの世界が自己責任だということは僕は一定程度事実だと思っている。というか事実だから質が悪い。 

 

自己責任は生存バイアスというふうに語られがちだが僕はむしろ自己と社会的自己が同質化した資本主義社会における残酷で非情なリアリズムを吐露するため息のようにすら聞こえる。終。