メロンダウト

メロンについて考えるよ

ジェンダーギャップ指数に思うこと

あけましておめでとうございます

 

ところでジェンダーギャップ指数が日本は110位らしい。ジェンダーギャップ指数はほとんどイコールで女性差別の問題として語られるけれど・・・

ジェンダーギャップ指数を論拠にした女性差別批判を読んでいるとどうも実地的な感覚とずれがある。国会議員や企業の役職の数を男性と同数にして女性差別を「形式的」になくせば本当によくなるのだろうか。

同数にした場合、瞬間的には政策が女性に配慮したものになるけれど日本の女性差別問題って自由やロールモデルの問題であって平等の問題ではないように見える。というか平等とはどういうものか考える必要がある。

 

前回の記事ともすこしかぶる部分があるけれど日本社会の特徴として何か役割を演じキャラクターとしてふるまうことを要求される傾向がある。男女限らず。芸人みたいに。ボケかツッコミか。男か女か。家事か仕事か。とてもくだらないと思う。

女性は家にはいって家事をして旦那を支えるのが右よりの人が考える女性の代表的なロールモデルだけど男性も同様に社会階級によって評価、差別される。自分もモラトリアム的にニートというかフリーランスというかグダグダと生きていたことがあるけれど無職と口に出した瞬間に見る目が変わる人達と遭遇することがあった。そういうくだらない人間を見る目を養えて良かったと今は思う。

男性への社会階級による差別、女性への昇進に関する差別。どちらも同様に形式的な評価に依存していることがおかしい。仮に現在言われている国会議員の数などの女性差別が解消されたとしたら今度は女性が社会階級による差別を受けることになるのは自明だ。

前回の記事ともかぶるけれど属性によって人を認識するのをやめなければこんどはこれが差別だ、次はあれだ、じゃあこれも差別だとなってしまう。

つまりこの世界にルールがある限り敗者が生まれ、ルールという「平等性」により差別が生まれる。あいつは頑張ったんだから金を持って裕福な生活をしているのは当然だという思考はあいつは頑張んなかったから貧困で当然だという差別と表裏一体なんですよね。だから平等という理念は機能しない・・・のに男女平等は良いことと思われていることに違和感がある。だからなにかを批判する時に男女平等やジェンダーギャップ指数が背景に見え隠れすると違和感を持ってしまう。

 

差別を生むのは先入観ではなくルールである。女性差別で言えば資本主義というルールに女性は合わなかった。現在のようなサービス業や事務作業、金融、ITなどが出てくる前は産業資本がメインだった。その中で女性は産業資本主義のルールにマッチしなかったのだろう。大量生産の工場で肉体労働をするのは身体的な理由で男性が多い。マッチョイムズに染まった男性を女性が統括するとなめられたりして管理できない可能性が高いというのは自明な資本の論理である。

それは産業を成長させ金を稼ぐ資本主義という「平等のルール」に乗っ取ったものだろう。

その名残でいまでも女性の評価を軽んじたりする人が多いが個人的にはこれはすぐ逆転するんじゃないかと思っている。工場などではオートメイションによって人手がどんどんいらなくなり人が従事するのはサービス業がメインになるはずだ。その時、容姿に優れた女性労働者のほうが重宝されその女性を統括するのも女性のほうが優位になる。実際に携帯販売店や旅行代理店の窓口、カフェなどでは女性のほうが採用されやすい。それはいま女性差別と批判が起きている同じ理由から男性差別と言っていいものになる。サービス業がメインになり男性が採用されなくなった時、僕達男性は女性にたいしてその平等な資本主義のルールにそった女性主体の社会にたいして「NO」と言っていいのだろうか。と引き付けて考えることができる。

 

と考えると資本主義という平等のルールによって評価する思考様式そのものがおかしいはずだと気づくはずだ。平等は機能しない。それは資本主義も、もちろん男女平等も。あるいは民主主義も。これらはすべて形式でありルールである。

 

じゃあ男性差別女性差別をなくすにはどうしたらいいのかというとそれがおそらく「自由」と「文学」であると思う。

突然、文学なんて書いたので驚かれたかもしれない。しかし文学と差別は密接にリンクしていると考えている。なぜ文学というエンタメが学問になったのかというそもそも論に帰る必要がある。ゲームや漫画などはまだ生まれてから日が浅いので学問にはなっていないが文学が学問になり社会一般の教育に必要だと考えられていた理由があるはずである。

それがおそらく上述したようなルールとは別の視点で人を見ることが必要だからだろう。前回記事に書いたように人を属性やキャラクターでカテゴライズし平たく、平等に見ると差別につながる。ゆえに文学的、物語的に人間を見ることは社会全体へ教育するに足ると考えられたのでしょう。

自由はいわずもがな多様性と連動しているので差別を解消する機能を持つ理念である。

 

結論としては男女差別は平等なルールがあるから起きる問題と言うことができる。

オリンピックの競技が100mだけであれば黒人ばかりが勝つように誰にとっても平等なルールはないのであらゆるルールの競技を行い、身体障碍者用のパラリンピックを用意する。あるいは身体的な能力だけで評価するのはダメなのでコミュニケーション能力によって評価する。もちろんそれもダメなので知的能力で評価する。のもダメというかすべてのルールにのっとった評価システムはダメなのだ。それらは資本のルールであり社会のルールでありスポーツのルールであり法律というルールであっても、人のルールではない。

 

だから文学が必要であり自由とはどういうことか考える必要があると思う。それが最も「人間的」な見方だからだ。

人に物語を見なくなった世界で

コードが違う。それがシロクマさんの記事を読んだ感想だった。スタンスとしては清潔感や正しさの敷設への疑義という点で僕もシロクマさんと同様の感想を持っている。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

コミュニケーションをしなければ人のことなど何もわからないという人間社会の大前提を忘れているような気さえしてきた。結婚している人間は幸せで非モテは不幸という至極単純化された論争がちょっと前のインターネットにあった。あの時にも思ったがそんな単純化できるほど人間は簡単に規定できるものではない。みんなそんな幸せにだけ生きてるわけではないし不幸だけで生きてきたわけでもないだろう。というか非モテであろうとモテていようと本質を別のところに求めようとしなければどうして人を人として見ることができようか。非モテかどうかなんてどうでもいいだろそんなことと当時は思ったものだ。

 

どうでもいいんだよ。タバコを吸っていようが、吸ってなかろうが、男だろうが、女だろうが、日本人だろうがアメリカ人だろうがケニア人だろうが。人をカテゴライズし個別的コミュニケーションを放棄してその人間をメタで認識することはすべからくヘイトなんだよ。中国人だろうが韓国人だろうが非モテだろうが喫煙者だろうが人を判別する要素としては些末すぎる。どうでもいいよそんなこと。人を嫌うなら人と話してその個人を嫌えというだけの話をなぜ属性分けして物事を語りたがるのか。

 

ある属性で人間をカテゴライズしそれを躊躇いなく言ってしまえる人はコミュニケーションを放棄している。こうこうこういう人間はこうであるといった単純化された世界観でしか人を認識しなくなり言語が通信手段でしかなくなった人達がわりといるのだろう。ネトウヨ嫌韓はてな嫌煙はそういう意味で同相である。それがシロクマさんが地下茎でつながっていると書いた理由であろう。

 

しかしまあ嫌煙家が出てくるのもわからなくはない。自分は喫煙者だから上述したようなわりと寛容な感想を喫煙問題に見るが、非喫煙者と接する喫煙者は非喫煙者の前でタバコを吸う喫煙者しかいないからであろう。自分は仕事中はまったく吸わないし、非喫煙者がいる空間でも吸わないし、喫煙所で吸うタバコはうまくないうえに煙が充満していて服に匂いがつくのでほとんど入らない。自宅か車の窓をあけて吸うか開けた場所でしか吸わない。つまり現状、マナーの悪い喫煙者しか非喫煙者の前に残っていない。つまり嫌煙によって分煙がすすみ分煙によってさらに嫌煙がすすむという構造になっている。パワハラおじさんだけを集めた会社が地獄みたいな話で分煙によってスクリーニングされて嫌煙がすすんでいる。ので嫌煙家がでてくるのもわからないではない。

 

しかしそれと道徳的視点、ヘイトかそうでないかは完全に別である。自分の主観的な経験だけで人をカテゴライズして侮蔑していいということにはならない。

ネトウヨの問題などもそうであるがこれらの問題の根底にあるのがコミュニケーションせずに人を認識すること、つまり人に個別の物語を見なくなったことだと言えるだろう。例えば女子高生は女子高生でしかなく、きもくて金のないおじさんはきもいでしかない。タバコをすっている女子高生もいるだろうしきもくて金もないが闊達なおじさんもいるだろう。個別で認識すべき人間にたいしてメタでカテゴライズして認識するのは必ず浅薄な世界観を形成してしまう。

そういった単純化された世界観で人を認識する人間をタバコは抽出してくれる。タバコは過去、物語の産物だった。宇多田ヒカルのファーストラブの歌詞しかり紫煙に人生を見たものだ。別にそんな人生などと大仰なことでタバコを吸っているわけではない人もいるだろう。しかし非言語コミュニケーションとして言葉を介さずともなにがしかを共有する媒体としてタバコは存在できていた。科学的にくさい以上のものを媒介するものだったがしかしまあそんなことは幻想と言えば幻想だった。しかし非言語的幻想、不確かなものだからこそ人はそこに人を見ることができたし見ようとしたのだろう。

別にタバコを吸っていなくとも吸っていようとも人とコミュニケーションをとりその人の中に物語を見ようとすることは当たり前のことだ。

コミュニケーションを取り、人の物語を聞き、人の中に物語を見て仲良くなる。そんな当たり前のコミュニケーションをとれというそれだけの話でしかない。喫煙者であろうと仲良くなれる人もいるだろう。ゆえにコミュニケーションを取る前から属性によってヘイトするのは間違っている。この意味でシロクマさんはタバコ問題にたいして「道徳」という言葉を使ったのでしょう。

しかしまあ仲良くなるなんて言葉も最近はハラスメントだったりするのかね・・・

なにが許せないかよりなにを許せるかで自分を語れよ

消滅主義とでも言えばいいのか。2つ前の記事と内容としてはかぶるけれどもはや何かを消滅させることが主張として成り立っていることに違和感を持つようになってきた。

小池都知事都知事選、都議選の時に10のゼロと掲げ花粉症ゼロなど意味不明なことを言っていたことを思い出す。なにか能動的なビジョンを掲げるよりも現存する事物を消滅させることのほうが政治的求心力があるということなのだろう。エビデンスがない概念的価値のみに依拠した事物(タバコや伝統など)は政治的に否定勢力のほうが強くなる。思慮しない正論屋が概念を駆逐する。なんというかつまり日本的な無宗教の価値観がな信仰や概念を認めないのだろう。

歴史の消滅。文学の消滅。概念の消滅。愛の消滅である。

愛することが可能なものだけが可愛く、可愛いと考えられないものは愛することが不可能な社会。それを全体主義と呼ぶのだ。

 

ポピュリズムによる社会の無化、消滅主義は日本では特に際立って顕著だ。最近はてブにあがってきた記事にもリスクゼロという言葉があったがゼロリスク信仰はいまや個人の思想だけではなく政治的、社会的な趨勢としてすら害を及ぼすようになってきた。何もしたくない、何も認めない、何らの客観性を持たない価値観は認めない人が多い。宗教が生活に根付いていなく信仰を意識する機会がないのが主たる原因だろうけれど、この科学的に正しいもののみが力を持ち概念を消滅させていく無信仰的民主主義は日本特有のものだと言っていいだろう。

この意味で僕は文学は政治上死んだと思っている。日本の概念を支えていたのは昭和後期以前は文学であった。文学によって信仰「めいた」ものを見ることができたのだろう。それは人に余白を見る視線だったり劣情を認める態度だったりしたはずだ。今でも坂口安吾志賀直哉の作品を見ればそれがいかに概念的な価値があるかはわかるはずである。文学が売れなくなり衰退したあとには音楽がそれにとって代わった。失恋ソングばかり売れた時代、僕達は人は悲しむ生き物だと思って生きてきた。タバコの紫煙に悲しみを見たり酒に酔う人間に物語を見たものだ。

いまや文学も死に、音楽はテクノやイメージソングなどの音楽的音楽が強くなり文学的音楽はファンによって支持されているだけである。概念を支える音楽も文学もそれらが普遍化されることはない。すべては虚構化された。アニメを見ることは現実とは「別」であり、音楽もツールであり、文学は趣味と化した。

結果として音楽や文学によって支えられていた信仰めいた概念、文学的態度は消滅し、エビデンスだけが残るようになった。タバコは科学的にダメだからダメ、以上終了であるという社会がどれだけやばいのか考えるべきである。概念のない社会、主観的で無根拠な意味づけを許さない余白のない社会は、間違っている。

 

主観的価値は客観性によって規定されエビデンシャリズムやゼロリスク信仰によって収斂されていき、結局、主観的価値は客観的価値と同一化していくだろう。みんなが可愛いと考えるものだけが可愛く、みんなが醜いと思うものは恥でしかなくなる。

コミュニケーションはコミュニケイティブに行わなければコミュニカティブではなく社会人も社会人的でなければ社会では認められない。すべてが一様化、全体化していき、個人の自由が許されるのは個人の環境においてのみである。現実がどうでもよい場所となり金やツールを調達する場所でしかなくなる。飲み会は余計であり事務的な連絡以外はすべてセクハラと呼べるのである。個人の欲望をかなえるのはネットや虚構化されたゲーム、アニメなどになる。虚構のほうが現実と化し、社会のほうが仮想と化す。仮想化した現実はどうでもいい場所なので非出来事性(ゼロリスク)に支配されていく。アニメ的に何が可愛いか、ネット的に何が正しいかで現実を切り分ける今の世相は現実のほうが下位であり、二次的に捉えているふしがある。 

 なんというかリベラルの単純化ネトウヨ嫌煙少子化などあらゆる問題の最も根本的な原因として以上のようなことがあるように思える。

かなり速足でとっちらかった文章なのでいつかまとめて書きたいと思います。