メロンダウト

メロンについて考えるよ

ネットリテラシー教育なんて不可能では

小中学校にスマホを持ち込むかどうかが議論になっているみたいだけれど見てるといまのところ3つの意見があるみたい

スマホを持ち込むのに賛成・反対・条件付きで賛成の3つ

www.tokyo-sports.co.jp

条件付きで賛成の人はスマホを小中学生に持たせるならネットリテラシー教育も同時に行うべきと言う。

具体的には知らない人と連絡を取らない、依存しないように節度を持って使う、セキュリティー対策など多岐にわたるけれどネットを使って何か問題が起きないように注意を払うということだろう。

 

以前からこのネットリテラシーという言葉に疑問があるのだがネットリテラシーがある状態とはどういう人たちのことを言っているのだろうか。

たとえば出会い目的でインターネットを使う人はリテラシーがないのだろうか。

匿名掲示板に書き込んで不意に人を傷つけてしまうような人はリテラシーがないのだろうか。

セキュリティーソフトをいれていない人はリテラシーがないのだろうか。

アダルトサイトを見る人はリテラシーがないのだろうか。

様々具体的なことは上げられるけれど条件付きで賛成の人がいうネットリテラシーとは何のことを言っているのかいまいちよくわからない。というかインターネットで起きている諸々のことは教育して注意するだけでどうにかなる性質のものではないと思うのだが・・・

 

一年ほど前に500億円分の仮想通貨が流出する事件があった。あの時もはてなブックマークツイッターの外野からはそんなセキュリティーが低いところにお金を預けているなんて「リテラシーが低い」等の意見が見られた。

しかし流出する以前のコインチェックは業界シェアでもトップだったしここで取引をすれば間違いない、大丈夫、だからここを使うのが金融リテラシーが高いという意見もあったほどだ。

 

あの時、だれがそんな事件が起きると予想していたのか。セキュリティーの面でいえばビットコインなどの仮想通貨はブロックチェーンを使用しているから偽造不可能で通貨としての信用性は円やドルよりも技術的には高いという意見のほうがむしろ強かったように記憶している。

 

しかし盗まれた。

 

 

仮想通貨の件からリテラシーとは本当のところなんのことを言っているかよくわからなくなっている。ややもすればネットリテラシーとは外野からマウンティングで使われるためだけの言葉であり実効的な意味を持たない言葉なのではないか。もしくは自分は間違わないと信じ切っている人の幻想ですらある。

 

どんな物事にしろ自分自身がコントロールできることなんてほとんどない。ネットでは特にそれが顕著だ。炎上ひとつとってもだれかが失言したとすれば謝る余地すらなく罵倒され批判されスクショや魚拓をとられ自らの手でコントロールできる状態ではなくなる。

セキュリティーやウィルスにしろ技術的には悪意ある個人が特定個人を攻撃しようとすれば容易にできてしまうみたいだ。

小中学生がスマホで知らない人と会わないようにしようなんてのもけっこう疑問だ。たとえば現実には知らない人がいる塾のもとに通わせたり家庭教師と部屋で2人きりにしている。信用関係があるから大丈夫だというのであればインターネットでも信用がある人とならあってもいいということになるけれど悪人が悪意を見せながら近づくことのほうが稀だ。それは現実においてもネットにおいても同じだ。

みんな善人のふりをして飴玉をあげたりスプラトゥーンで一緒に遊んだりしたはてにそういう事件に出くわすことになる。

閉鎖された場所、関係において子供が大人を悪い大人と判断できることなんてそうはない。だから公共空間にいることが子供にとって実効的なセキュリティーになる。その意味で子供が自らの身を守るのはインターネットで知り合った人と会わないということしかない。

その点で冒頭のスマホを持たせないと条件付き賛成は使わないという意味で実質同じことだ。

 

 

ネットリテラシーとは実効的なレベルにおいてなんなのかというとそもそもそんなものに関わらないことしかない。

炎上もひとたびなにか発すればそれは自分の手には負えなくなるのでリテラシー的に教育すればどうこうなるものではない。だいたいにしてすべての炎上は失言や失態など謝ってもどうにかなることではない。ささいな間違いのすえに起きる。そしてそれは回避しようがないだろう。あれだけ有権者の目に晒されている政治家が度々炎上してなぜ自分だけは間違わない、リテラシーがあると信じられるのかがわからない。自分は多くの政治家より無能だと思う。そしてそれは多くの大人もそうだろう。大人でもそうであれば子供はなおさらだ。

炎上は常に炎上させるほうが炎上させる。そこをコントロールできるリテラシーを僕たちは持てるんだなんてことは、明らかに幻想だ。そもそも関わらないことがリテラシーである。

 

 

あとそもそも関わらないほうがいいと言うのにはとりわけ依存問題が大きい。ソシャゲにしろSNSにしろYoutubeにしろインターネットは市場装置であるぶん消費者心理をよくついたものが表にでてきやすくその多くに依存性がある。

お酒との付き合い方を教育すれば子供はお酒を飲んでも大丈夫になるのかというとそんなことにはならないだろう。

ティージョブズも自分の子供にiPadやiPhoneを使わせなかったみたいだしデジタルネイティブなんて言葉で美化してるうちに子供がネット依存になってしまったなんてことは確実に起きるはずだ。

 

 

依存、炎上、セキュリティー、金融、出会いとインターネットで起きる問題はいろいろある。けれどそれらはコントロール不可能でありリテラシーとして教育できる性質のものではない。すこしは効果があるかもしれないが実効的な効果は期待できないと考えるほうが妥当だと僕は考える。

 

これらの問題から回避する方法はインターネットの当事者にならず、はてなブックマーカーツイッターのように外野から手斧を飛ばし顕名匿名で無責任に嘲笑することにのみインターネットを使うことである。

リテラシーという言葉はその傍観者達がよく使う無実な言葉である。

体罰と権威の失墜と正しさの恣意性について

最近、まるで金言のように「対等なコミュニケーション」と聞くことが増えた。恋愛における男女関係でも店員と客の関係でもあるいは上司と部下の関係でさえも。

対等、平等といえば全てを喝破できると考えている人は認識が甘いと思う。最近ニュースになっている体罰事件にしても同様の感想を持った。生徒と先生は同様に人間でその一切に力関係があってはならないというのは崇高すぎる理想である。

そのような形では社会は回らない。逆に平等や対等という言葉を振りかざした側が今度は権威になり対等ではなくなる。正しさや政治はパワーゲームであり、その結果起きるのは政治においてはどの政党が政権を運営するかであり社会においては「どちらに恣意性を認めるか」という選択である。

 

 

現在、体罰は絶対に許さないという意見が強い。それが今の社会において支配的な正しさである。しかしこの正しさが厄介だ。平等という金言で教師と子供の関係をたいらに敷設した結果として力関係が逆転して親と子供のほうに恣意性、「選択」が与えられている。

件のニュースでもその力関係が見て取れる。

www.youtube.com

 

この動画における体罰は以前考えられていた体罰とはその構造が違う。今までの体罰は教師という権威が暴走したものであり、それは教師の短絡的な手段という側面が強い。けれどこの動画における体罰は子供が持つ権威が増長した結果としてのカウンターに見える。どちらも罰ということは変わりはないがどちらが力を持っているか考えると既成の論理(体罰絶対反対)においてこの事件を批判することはできない。

 

 

この事件は体罰問題ではないように見える。体罰問題が問題化して教師と生徒の力関係が逆転した結果として起きたカウンターであり、秩序とは何か、政治とは何か、正しさがなんたるかを原理的に考えるべき事件であるように見えた。

 

そもそもなぜ、体罰は起きていたのだろうか?体罰が容認されていた以前の学校でも教師が体罰を行使するには理由があったはずだ。体罰は短絡的だとワンフレーズで批判することは簡単だけれど事はそれほど簡単ではない。教師に権威を与えなければ学校の秩序が維持できなく、その権威が暴走した結果が以前の体罰だ。体罰なんてものは常に間違っている。昔も間違った行動だったのだろう。権威を正しく行使するにはそれ相応の能力を持つべきで体罰を使うのは間違っている。

しかし今起きているのは体罰を禁止した結果、その権威までなくなろうとしていることだろう。

個人的な見聞で言えば教師になるなんて人はだいたいいいやつだ。子供の好奇の目にさらされ教鞭をふるう社会的責任がある一方で給料も頭打ちのうえ激務で子供には時に軽んじられる。ある意味これほど報われない仕事はない。教師は善い人だ。教師を目指すという時点でその善性にはふるいがかけられてスクリーニングされた善人が教師になりやすい。なんとなくなる人ももちろんいるだろうけれど割合としては善人が多いことは間違いないだろう。

以前の学校内における力関係では教師のほうに権威が預けられその善性に恣意性が与えられていた。その結果、一部体罰という手段に依存する教師もいた。それは批判されるべきである。しかし以前の学校でも体罰を行う教師というのは割合としてはかなり少なかったはずだ。

この体罰問題が拡大解釈されて別の問題が出てきた。それが学校内の力関係の逆転。つまり子供+親の増長である。その結果として子供のほうに恣意性が与えられることになった。

 

いままで教師の善性によって運用していた学内秩序が壊れ無邪気な子供に恣意性を与えた結果、勘違いした子供が暴走した。それが今回の事件の構造的および政治的な問題だと言える。

体罰がダメだというのはなるほど正しい。しかし体罰を禁止して教師の権威を善悪判断ができない子供に与えていいのだろうか。体罰がダメという金言の副次的な結果にたいしてはどう考えているのだろうか。

 

秩序が無秩序だと批判した結果できた秩序らしきものが別の無秩序を生むということが現実には往々にしてある。民主党が政権をとってどうなったかもう覚えていないのだろうか。資本主義も民主主義もベストではなくベターなだけである。それを批判することは簡単だが常に選択は残る。そしてその選択の結果どうなるかは結果としてだけしか知りようがない。マルクスレーニンが正しさを持っていた時代、共産主義が成功していたら世界の主流は共産主義になっていたかもしれない。その政治的決断は常に後世の人間がジャッジするだけである。ちょうどいま僕達が体罰を批判しているように。

 

国という大きな単位ではなくとも人間が集団として生きるには政治的にベターな状態がどういうものか考えるべきである。それは学校も仕事でも同じことだろう。こうこうこういう理念が正しいと机上で考えた結果、そのわりを食うのは常に現場の人間である。

 

学校における教師の善性に依存した権威構造はベターな政治的決断だと僕は考える。それが体罰という形で行われることがあってはならないが子供が権威を実感するぐらいには体罰的空気もまた必要なものだ。に僕は投票したい。

男らしさと理性と適応

男らしさについて語る時に僕達は適応の話をしなくてはいけないのだと思う。

以前の男らしさはジェンダーロールによる適応の産物だった。そしてその男らしさには理性的なニュアンスが存在していたように思える。男は男らしくいるほうがいいからそうすることは自律しているということでそれは理性によって成る。

 

今考えられている男らしさ、あるいは正しさというのは以前の男らしさとは違うものになっていることは間違いない。いま男性に求められているのは清潔でコミュニカティブで金を稼ぐビジネスマン的な意味合いが強い。以前のように人間像として語られていた男らしさは存在しない。男らしさの定義自体が変わった。

 

昔:女性をリードし、家父長的で子供には規律を教え、大黒柱となる存在

今:清潔で社会性があり家事も分担し女性に理解を示す

 

変わったのはわかる。そしてそれは一見いいことのように思える。男女ともに個人の役割に納まらず自由に仕事や生活を営むのは間違いなくいいことだ。しかしこの男らしさの記事を読んだときに疑問に思ったのがこれは結局、適応の問題なのではないかということだ。

以前の家父長的男性社会で生きていた男性の中にもその男らしさに適応できなかった人もいただろう。

もちろんいまの社会においても昔のジェンダーロールが壊れてその変化に戸惑いを覚える人もいる。

 

結局、定義が変わっても理性によって男らしさを変化させ適応できる人間だけが適応できる。適応できた人間だけが適応でき、適応できない人間は適応できないのであれば何も変わっていないではないかと思う。

ただそれは「変化」しただけで社会全体においてどの集団のどの思想がどの程度政治化されたのかというパワーゲームに過ぎないのではないのかと思う。

 

今、僕達は以前の男らしさを捨ててもいいと思っている。実際に最近のニュースやmetooなどを見ても以前の男らしい慣習のまま生きている男性は訴えられ蔑まれ侮蔑される。なぜならそれはいま僕達が考えている男らしさとは「違う」からだ。

しかし一方で以前はたとえばオタクや口先だけの男性、芸人など男らしくない男が蔑まれ軽んじていた。たとえば出川哲郎などがそうだ。抱かれたくない芸能人ランキング一位をずっと取っていた。彼のような常に笑いおどけてみせる突出したコミュニケーション能力で生きている人間は見下されていた。

 

今の男らしさから外れている人間を忌避し昔も昔の男らしさから外れている人間は忌避していたのであれば何も変わっていない。というか男らしさが変わったことしか変わっていないではないかと思う。政権が民主党から自民党に変わったみたいな話でそれを良かったと考える人がいる一方でそんな安易に考えない人もいるだろう。

 

主に出川哲郎に抱かれたくないと考え、投票していたのは女性であり彼を笑っていたのも女性だ。今、出川哲郎を好きなのも女性が多いらしい。つまり出川哲郎は変わっていないのに彼を見る女性の視線がただ一方的に変わっただけである。結局、その時代の趨勢にあった人が表になりその一方で裏となる人がいる。世界はどうしようもなく勝手である。

そしてその変化に常に適応できる人だけがこれからも生き残っていくのだろう。男らしさという言葉はなくなっても、常に或る形式を持って。