メロンダウト

メロンについて考えるよ

誹謗中傷訴訟について

テラスハウスの出演者が自死されてからメンタリストのDaigoやはるかぜちゃんがネット上の誹謗中傷にたいして訴訟を起こしている。迷惑系Youtuberなるものが出てきたり、イソジンはコロナに効くと言った吉村大阪知事を嘲笑するのは誹謗中傷として扱うみたいな話しも出てきてもう完全にネットは逆に振れたのだなという印象を強くする。

 

便所の落書きで済んでいたころはまだ良かったと思い返す。当時もスマイリー菊池さんの件やらでフェイクニュースとしての害はあったけれど一般的なレベルでの風評というまでには広まっていなかった。誰もまともにネットの意見なんか見ようと思わなかったし現実とは別のコミュニティーとして認識していた人のほうが多かったのではないだろうか。自分も長いこと旧2ちゃんねるのニュース系の板をROMっていたけどゴミ溜めとしか認識していなかった。コミュニティーとして麻雀板や地域ごとのスレは書き込んで使っていたけどニュース系の板はもう「そういうもの」としてしか見ていなかった。単に人間の感情をストレートに書き込む場所として興味深かった。

 

社会性や対面性を取り払って直情的に殴り書きする言葉の便所であってまあみんなうんこはするよな程度にしか思っていなかった。自分だって書いてしまおうと思えば誹謗中傷めいた気持ちを持っていなくはないしまあそれを書いちゃう人がいるのは別に不思議ではなかった。誰にでも偏執めいたものはあるし多くの人間に嫉妬感情はあるし他人の不幸を望む気持ちもある。みんなうんこはするしまあ便所でうんこするならいいんじゃないというのが当時の認識だった。

便所に行ってくさいのは当たり前ぐらいの認識だったけれど最近の騒動を見ているとどうやら便所はもう便所ではなくなってきたようだ。

巨大掲示板に書かれていることは悪口ばかりでそれは絶対に正しくないわけだが正しくない言葉が正しくないなんて果たしてそんな単純な問題なのだろうかと思う。

いわゆるゾーニングの問題につながると思うが掲示板に書かれているものなんて当事者が見たらどんな意見も誹謗中傷に見えるものではないだろうか。R制限のある作品を子供に見せてはいけないのと同じようにあんな数の意見があったら当事者はそれを見るだけで参ってしまうだろう。それは誹謗中傷とかいうレベルではなく他者の冷徹な視線という意味においてそう言うことができる。誰の味方もしないのがニュース系の板の特徴であるがそこから発せられる言葉は基本的に「冷たい言葉」であふれかえっている。実際に見てみると直接的な誹謗中傷はきわめて少ない。しかし全体の雰囲気として冷たい。

それを当事者が見ればこのスレは自分を攻撃していると感じるのも当然でそれで精神が参ってしまう。そしてそのスレで特別つめたい誹謗中傷にグサリとやられてしまう。

しかし思うに訓練していない人間がそんなものに触れることができるのがそもそもの間違いではないだろうか。あるいはそれが昔みたいに便所として認識されていれば良かった。誰も便所でうんこするのは悪いことだなんて言わないし用も足さないのに便所に行く人もいない点で今よりかはゾーニングできていたのだろう。

昔の便所は以前よりくさかった。今よりかはるかにひどいことも書かれていたしはるかに無法地帯だったがそれが世界と接続していなかったので問題として現実に噴出してこなかった。そしてそちらのほうが健全だったのだろう。

言葉のひどさで言えば以前のほうがひどかったが現実におよぼす影響としてのひどさは今のほうがはるかにひどい。

それが今般の誹謗中傷問題につながっているのだろうしそれにたいして訴訟するのは正当なことだけど果たしてそうやって世界を良くすることで本当に世界は良くなっていくのだろうか。便所を壊したら野糞するようになるだけであって当事者の目の前でうんこできる機能であるリプライがついているツイッターで誹謗中傷が行われるようになっただけではないか。

どこにいてもうんこのにおいがする。便所がない、うんこできない、発言には注意しなくちゃ、正しくなくちゃダメだ、でもうんこしたい、お腹いたい。正露丸飲まなきゃ。とやっていても何も解決しないように見える。

なぜハラスメントは存在しないのか

ハラスメントについて自分の考えをまとめておこうと思う。

p-shirokuma.hatenadiary.com

面白かった。本読了したので今度なんか書きます

anond.hatelabo.jp

たたかれすぎ笑

 

・なぜセクハラは存在しないのか

ハラスメント全般について言えることだけどなんでこんなダブルバインドな議論になってるのかは過程を問題視しているようで結果しか問題になっていないからに見える。

最近、キングダムの作者である原泰久さんと小島瑠璃子さんが交際しているというニュースがあったけれどこれも形式的に見ればキャスティング権を握る原作者とタレントの交際でセクハラと言えなくもない。年齢差も20歳ほどある。仕事上の取引関係でもある以上、形式的に見ればセクハラだと言えてしまうが問題にはなっていない。原さんは直前に離婚していて交際をはじめたため不倫スキャンダルにもなっていない。

キャスティング権を実際に持っているかは別にして原作者が女優を口説くのはこれまでの議論からすればセクハラと定義されるものである。しかしもちろん二人の関係はセクハラではない。なぜなら恋愛関係が「結果的に」成功したからである。セクハラがダメだ、取引関係にある女性を口説く過程そのものがダメだというのであればこの二人の関係は糾弾されていなければならない。しかしそんなことはもちろん誰も言わない。

結果的に恋愛関係が成立すればそれはセクハラではない。失敗すればその過程もなにもかもがまるごとセクハラだと認定される。これが話をややこしくしている。過程を問題視しているように見えて結果しか問題にしていない。つまりセクハラは結果的にしか存在しない。恋愛関係が成功したか失敗したか。単にそれだけではないか。

 

 

・女性から男性への「パワハラ」(鍵かっこつき)について

40歳が新入社員を口説くのにはどうしたらいいのかといった増田があって案の定、気持ち悪いと言われていた。上下関係にある女性を口説いてはいけないはもはや世界のルールになりつつあるがでは同年代で同期の相手ならば言いよってもいいのだろうか。

たとえば次のようなケースを想定してみる。周囲のみんなに好かれているAさん(女性)がいました。AさんはBさん(男性)に告白しました。Bさんは断りました。周囲のみんなはAさんの告白を断るなんてBさんは最低だと言いました。Bさんは耐えかねて仕事をやめてしまいましたとさ。Bさんは告白にYESと答えなければいけなかった。なぜならAさんは周囲の人間に好かれているという権力を持っていたから。

このような事態は権力を駆使して断れない環境にあったとして今の世界のルールではハラスメントにあたる。そう言わなければいけない。パワーバランスとは上司と部下の関係だけではない。つまりAさんはBさんに告白してはいけなかった。

Aさんは周囲のみんなから好かれているという権力がありBさんは告白を断りにくい。同期でもハラスメントは成立しうる一例はすこし考えるだけでも無数に出てくる。権力とは仕事上の上下関係だけではない。

他にも環境的な権力もある。たとえばフラッシュモブなんかがそうだ。フラッシュモブも周囲を巻き込んでみんなこの瞬間のために練習してきたんだという全員の労苦を考えたら断りにくい。あれも環境的な権力の行使と言えてしまう。

 

ということを徹底的に考えるとハラスメントになりうるシチュエーションは無限に存在していてハラスメントという言葉でそのすべてを射程にとらえるのは根本的に無理がある。だから僕はハラスメントは存在しないと書いている。現実に存在しないのではない。言葉の定義上ハラスメントはこういうものだと「言うこと」は不可能であるという意味である。

フラッシュモブもお互い好意を寄せていればいい思い出になるがしかし上述したようにそれも結果論に過ぎない。40歳が新入社員を口説いてはいけないという過程そのものを否定するのであれば結果が出ている成功例も否定しなければならない。そしてそれは完璧な地獄だろう。なぜなら人間関係なんてほとんど偶然でしかないが偶然と気の迷いを肯定する権利を僕達は持っているからだ。

 

・ハラスメントという言葉の害悪

ハラスメントと言うとなにか社会的な言説のように聞こえる。社会問題かのようにすら聞こえる。実際、ハラスメントは社会問題として認識している人が多い。僕は全然そうは思わない。

一般に言われているハラスメントの例としてはおじさんが若い女性に言い寄るのが代表的なものだがこれもノブレスオブリージュ的な思考として権力が高い人間はその義務を課されているみたいな話なのだろう。それはその通りだと思うし実際そういった類のハラスメントは存在する。単純な腕力もそうだし仕事上の上下関係でもそうだしそういった関係がある以上、上位者であるおじさんがデュープロセスを踏む必要がある。しかしデュープロセスというのは上述したように過程の話で結果だけが問題視される以上、おじさんは若い女性に言い寄らないのが最適解となる。つまりハラスメント問題が社会的な言説になった瞬間にその言葉がおじさんの自由を阻害しているという「見方」もできる。

あとはよく言われることだけどハラスメントという言葉はその射程が限定されている。最近もカオスラウンジの人が問題になっていたけど中小企業の役員なんてハラスメントどこ吹く風である。実際守っているのはコンプライアンスを意識している大企業の部長課長であとはもともとハラスメントなどしない繊細な人に届いている。ハラスメントをする人間がハラスメントだと言われてハラスメントをしなくなるか?が実効的な問いであるがその意味においてハラスメントというカタカナ語を使うのは悪手だとしか言いようがない。ハラスメント駄目と言ってもわかる人しかわからない。そしてわかる人はそういうことはもともとしない人が多い。単に「多くの女性はおじさんのことを気持ち悪いと思ってるよ」といったほうがまだマシなのではないか。気持ち悪いというと差別的な表現になるので新語としてハラスメントを持ってきたのだろうけど相手を否定するのに新語だろうとなんだろうと差別は差別でしかない。そして相手を選択する以上、恋愛は原理的に差別的なものなのだから差別していいのだよ。

※いちおうだけどここでの差別の意味は人種差別なりの意味とは異なります。

ハラスメントも差別も結局のところ同じである。私の差別は良い差別問題とさして違いはない。私はあなたを選択しない。その意味であなたを差別しているかもしれないけどそれが恋愛だという当たり前の「否定」すらもしたくないからハラスメントを持ち出してその歪曲ゆえに本来ターゲットにしている層に届かないのだろう。その点でハラスメントという言葉を使うのはズレている。あるのは当たり前の動物的な感情(おじさんとは恋愛したくない)だけである。その意味でもハラスメントは存在しない。

 

・まとめ

つまるところハラスメントが意味するところのハラスメントは存在しない。問いの立て方もそうであるし過程をターゲットにしている射程もそうだしハラスメントがハラスメントとして機能しない以上ハラスメントはその言葉の定義上存在しないと言うことができる。

結果としてのハラスメントおよび立場が上の人間をぶっ飛ばす告発のカードとしては存在するしそれは炎上装置としてのインターネットとすこぶる相性が良いけどそれだけでしかない。恋愛関係が失敗して人間関係がもつれるのは当たり前の人間模様であってそのイザコザの末、その人の人間性があぶりだされてそれが結果としてセクハラであって被害者が嫌な気持ちになったり鬱になったり加害者が周囲から見放されることになるなんてそんなことは昔からあるよねと。

当たり前にあって当たり前に大問題であってそして当たり前に無くなりはしない。

けどまあそうやってハラスメントだ個人主義ゾーニングだと関係を断絶することでみんなバラバラになってそのうち無くなるんのではないだろうか。そしたら生きる意味のほうが無くなりそうではあるが・・・