メロンダウト

メロンについて考えるよ

AKBは夢の代議制なんだろうなあと総選挙を見て考えた

一人の人間に承認を委託するのは無理があると思うんだよね。当たり前だけどアイドルも普通の人間である。

 

ひさしぶりにブログを書きます。

 

AKB総選挙を始めて生放送で見たんだけどみんな泣いていてなんだこれはと、少女が泣いている姿は背景がよくわからなくとも見てしまうし、時々うるっときてしまった。いや、僕自身はAKB商法はまったく支持していないのだけど画像の破壊力がすごくてね、おぎのゆかさんのスピーチとかなんかすごい良かった。苦労したんだねえとかなんかすごいおっさん目線で見るほどに僕も歳をとったんだな、なんて。

 

それはそうと結婚を発表した女性がいたということで炎上しているみたいだけど、まずは以前あったアイドル刺傷事件みたいなことにならないといいです。ここまで挑発的な形でやってしまうと本当に恨む人間が出てきてもおかしくはないと思います。

それと、結婚は単純におめでたいですね。

 

初めてAKBの選挙を見たのだけどAKBって結局は政治なんだなというのが僕の感想だった。恥ずかしながら今まではけっこう単純にAKBの選挙はアホがバカに投票するみたいなひどく俗っぽい捉え方しかしてなかった。

しかしAKBの選挙は承認の代議制だと考えればすごくしっくり来るような気がする。一般的に庶民は芸能人のように世間からの承認を得ることは不可能であって、容姿端麗、口舌達者、高潔無比のうえ幸運と努力が重なった限られた人間にだけ可能な職業である。

おそらくは若いころみな夢という形でアイドルになったりプロ野球選手になることを夢見る。そして通常はかなわない。別に絶望というほどのことでもない。ごく当たり前に叶わない。

そして世間からの承認を得るという夢想はやめ慎ましやかに回りの人を幸せにでもするかなんて、そうして家族でも持って暮らし始める。それが一般的な大人を構成する要素であると思う。

 

それにはある程度の絶望感と諦観がつきまとってくる。一般人はその点においてみな敗北者、である。だからよく芸能人はオーラがあるといわれるがそれは人生の完全性によってのみ発されるものではないかと僕は感じる。通常、人間は子供のころに見た夢を追い続けるとかできるものではない。条件的に、である。

 

そんな世間からの承認を調達、委託できる存在がAKBなのではないかと思う。よくAKBは歌もダンスもうまくないし可愛くもないと言われることがある。しかし承認の代議制においてそれはメリットとなる。

秀でた個人が個人の能力によって登っていくのであればそれは当人の能力であってそこに委託できる余地は存在しない。承認を委託するには当人が無能であればあるほどいい。投票や推しによってメディアに出たりすると当人が無能であるゆえにその承認を自らの推し努力なるものに転嫁可能となる。投票した人間は超安全地帯に居ながら委託した承認欲求が満たされることになる。愉悦である。これにはたぶん中毒性があり結果、何百枚もCDを買うという結論になる。

 

アイドルは無能というよりかは無謬といったほうがいいかもしれない。人形のように漂白され自己存在を委託するキャラクターとして扱う。それには幼ければ幼いほど投票者にとって「好都合」である。可愛いは「愛することが可能」と書くが別に愛してもいなく委託可能なんだろうなと。

 

しかし当たり前であるがアイドルだって人間である。セックスするしうんこするしひょっとしたらタバコだって吸うかもしれない。西新宿の路上でべろんべろんに酔っ払って奇声をあげているかもしれない。

構造的には夢をアイドルに託すのには道理があり同情可能だ。わからないわけではないが、それとは別に普通に考えて一人の人間に複数の人が承認を委託することはどう考えても不可能であると思う。

 

通常の意味の政治であればシステムや社会制度のあり方を問うものであり議員の行動そのものに関しての制限は特別ない。公人や権威なんて言葉もあるけど代議士としての仕事とプライベートは通常区別される。

しかしアイドルは公的空間と私的空間の両方においてその行動や言動すべてに制限が存在している。これはもはや偏狭の村に近い。日本に生きててできるわけがない。結婚することも外部から見たらおかしなことだとは思わない。その神経の図太さには恐れ入ったとしかいいようがないが本のタイトル通り危険に晒したということなのかもしれない。

人生を危険にさらせ! (幻冬舎文庫)

 

結婚するアイドルにショックを受けるのは夢や自己存在を委託した人間の末路なんだろうと、例えるなら高校野球地区予選決勝で負けたようなそんな心境に近いのかもしれない。そりゃめちゃくちゃ悔しいし泣きもするよ。

そう考えるとなんともアイドルとは業が深いなあと、泣きじゃくる少女の涙を画面越しに見ながら考えていた僕にも特段特殊な夢はない。

孤独は恥である

ハフィントンポストが特集企画「#だから一人が好き」をやっている。

projects.huffingtonpost.jp

インターネットでよく取り沙汰される非リアだとか孤独の美学にオタクもそうなのかもしれないが孤独感情について書いていきます。

 

「一人が好き」とわりと聞く。インターネットだけではなくて普通の会話においてもインドア派ですとか内向的とかそういう類の言葉はよく耳にする。

 

この言葉ははっきり言って僕は確信して嘘だと思って聞いている。「一人が好き」なのではなく「集団が嫌い」なんだろうなと。「一人が好き」という言葉は単元的ではなく逆説的なものである。社会全体で過剰なポジティブとか過剰なキャラクター化が存在していて、そういう設定にたいするカウンターなんじゃないかなと感じる。

内向的な性格を吐露した文章は100%と言っていいほど「みんなはポジティブで適応できてすごい」という社会の雰囲気と対比して自己の内向さを書く。対比なのに単元的に一人という言葉をポジティブに「好き」と形容するから肯定感があるが、はっきり言ってしまえば本質的には他人が嫌いだから一人が好きということなんだろうなといつも思う。

 僕自身がそうだからである。

 

僕も個人的に一人が好きな人間だ。家で一人で風来のシレンでマゼルンに草投げてるほうが好きだ。ビートルズでも聞きながら。休みに何も予定入れないで筋トレ行って帰ってきてテレビでも見てビール飲んで部族アース見ながらナスDバカスwwwwwとか一人で気持ち悪く笑ってる。

 

だから一人が好きというのはたいへんよくわかる。おそらくそこらへんの人よりもはるかに共感するほうである。

 

しかし僕自身なんで内向的なのかと自問すればはっきり言ってしまえば気の合わない他人が嫌いだからなんだろうなと、まことに幼稚なことを暴露してしまえば、そういうことなんだろうと自分で思い嫌になることがある。だから僕は僕の孤独を肯定するつもりはないし、一人が好きというのもあまり積極的に言うほうでもない。

 

孤独とは本来、他人が嫌いという絶対的なネガティブ精神に立つ以上は後ろめたいものだ。僕はずっとそう考えてきた。後ろめたくて暗くじめじめしてて他人に話したらその場が凍り付くような社会とは相いれない代物だと今でもそう思ってる。

だからカジュアルに、なんの後ろ暗さもなく、笑顔で「内向的でオタクです」とか言う人間を見るたびにただの「戦略」に見えてしまう。

 

一人でいるから寂しい人間として見られたり、内向的な感覚が理解できる人間と認知される。そういうキャラクターを自分に設定し相手に同情を買う。

僕はそんなものを孤独とは呼ばない。そんなものはコミュニケーション戦略であり、もっとはっきり言ってしまえば他人をコントロールするための嘘でしかない。

孤独は象徴的な例であるが僕はそういう偽善が嫌いでありポーズが嫌いだから孤独なのであって

 

孤独は後ろ暗い。気の合わない他人がすこぶる嫌いであり、時に怖くさえある。またひどく気分的なものであり恒常的なものではなく突然襲ってくる。突如反転して寂しくなったりする。めんどくさく幼稚であり社会性など本来ない。恥である。ポジティブなものなどない。

それをカジュアルに内向的なのもいいよねとかふわふわっとしたもので包摂しないでいただきたい。

 

ここまでほとんど意味のないメタ論であるが、孤独に関して一つだけはっきり言えることがある。

大切なことはどれだけ一人が好きであっても人に重力を与えるのは他人しかいないことだけは忘れてはいけない。

 

お題目のような言葉で占めるのであればどれだけ一人が好きであっても人は一人では生きられないと、めんどくないなあと呟きながらでもいいから、それだけは忘れてはいけない。おそらくは、絶対に。

きもくて金のないおじさんと慰めのプラグマティズム

はてブのトップエントリーにあがってきたきもくて金のないおじさんと多妻制に関する記事を読んでいました。

koshian.hateblo.jp

当該記事の中できもくて金のないおじさんでも慰みがあれば犯罪者予備軍にはならないということが書かれており、すこし、めずらしく、記事を読んで考えていました。

 

論理としては記事内で書かれているように秋葉原の連続刺傷事件も鬱屈を爆発させた人間の犯罪だから慰みで鬱屈を麻痺させ、犯罪に手を出させないようにしようというのはよくわかります。

しかしそれって誰にたいしての慰めなんだろう・・・その人物が望む人生の本懐(こっ恥ずかしい表現であるが)ではない慰みを与えることによって一時的に鬱屈を忘れ静かになるその静かさは社会が求める静かさでしかないように思う。

アニメやアイドルを批判する人の本質的な理由もここにありそうである。

人間的感情は代替物による慰めに寄ってはいけないとする人か、アニメでもAVでも見てマスターベートして静かにしてれば迷惑じゃないからいいよという人が2人いたとしたらはたしてどちらが人間にたいして「誠実」なのであろうか?

 

 

おそらく加藤氏はそんな慰みには手を出さずに永遠と自己について考え続け、携帯掲示板に綴りつづけた。あの事件を起こすまである意味現実と戦いつづけ結果として絶望してしまったのかもしれない。

そして僕はむしろ加藤氏のように現実から目を背けずに慰みに寄らず生き(結果あのような事件になってしまったが)るのはとても人間的で、自然な行いに見えます。

よく犯罪者の動機づけに関してアニメやマンガが槍玉にあがることがあるが、よほど猟奇的な人間以外は動機付けにならないのはネット界隈の皆が言う通りでしょう。逆にそれらが慰みになって犯罪を抑止することのほうが多いと推測できる。しかし犯罪を抑止するメリットに加えその感情まで抑止するデメリットに関してこそ考えるべき側面ではないだろうか?

もちろん趣味として消費していたりするのはまったく問題ない。

 

社会が静かになり一見平和に見えても慰みによって鬱屈もとい感情が殺されているならばその平穏はかりそめであってただただ既得者(自己実現済みで承認され幸福な個人)のための平和でしかないのではと疑うべきであると思う。

加藤氏のように社会にたいして怒り憎しみ暴動し人を刺すとまでいかなくても普通に怒ることすら=悪であるとする価値観こそがまさに閉塞感の根本にあるのではないだろうか?いつだったかバスの社内で誰かが怒っている動画がYoutubeにあげられ嘲笑のコメントであふれ返っていた。僕たちは人の怒りを笑うべきではない。

人のセックスを笑うな
 

 

そうして僕達はみな怒ることができないからアイドルのCDを何百枚も買うことで既得者に金を提供し同時にアイドルに慰められ平和も提供する。それがいかに馬鹿馬鹿しくてもみな許された慰めによってしか生きえないのだろうと。

 

そうして人間的感情を慰められ麻痺させられ静かに生きる。その象徴がきもくて金のないおじさんなんだろうと・・・

しかしその静けさは静謐ともいえずましてや幸福とも言えないと断言できる。

 

先進国で決定的に日本の幸福度が低いのはアニメしかりAVしかりこの慰めによる感情の欠落があるのではないかと考えることができる。同時に慰められることによって犯罪も少ない。

 

しかしそれは悪い社会でもなければ良い社会でもないのではと思うことがあるのだ。

一言で言えば日本では望まれざる自由は政治・社会・個人・家族・会社ありとあらゆるレベルにおいて許されない。

バスの中で怒ることも、何もない平日に有給を取るのも、世論と真逆の意見も、ありとあらゆる自由度のレベルが低いと感じる場面が多い。

端的に言えば日本には日常レベルでのリベラリズムなど存在していない。リベラルは卓越した集団の既得者の中でのみ存在する。またはネットにはびこるウワゴトに近い理想論でしかない。

 

この日常から自由へ向かうのに必要なのは慰めに依存しないためのリアリズムでありプラグマティズムである。

希望の思想 プラグマティズム入門 (筑摩選書)

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