メロンダウト

メロンについて考えるよ

保育士という仕事は需要価格の上限が設定されているので経済的矛盾を抱えている

たとえば医者が代表的であるが生存にかかわってくるような重要な仕事にたいしてはその必要性にたいしてみな高額のお金を支払って治療をお願いする。

弁護士に訴訟を依頼するのも絶対に許せない相手にたいする闘争のため、その必要性のために高額のお金を支払う。

これらの仕事は当然、誰にでもできる仕事ではなく膨大な知識と経験が必要になってくる。そのスキルに応じて彼らは高給を得ている・・・のだろうか?

 

難しい仕事には良い給料が与えられるのは間違いないがそんな単純な話ではない。彼らが高い給料を得ているのはその仕事が金銭には代え難いから需要の上限が設定されないところにある。神の見えざる手といえば有名ですが一般に市場原理にまかせると財やサービスの価格は需要曲線と供給曲線がまじわる価格になると言われます。

医者や弁護士が高給なのはそのスキル以上に需要曲線によるところが大きいと考えることができます。ドラマなどによく出てくる「愛する人のためならいくらでも払う」が象徴的です。

 

いっぽう保育士ですが保育に支払う価格は親が子供を預けて働いたことで得る金額を超えることがない。子供を預けて働いて損益がマイナスなら専業主婦(主夫)になり育児をしたほうがいいとなります。

医者や弁護士は需要の上限がないのだが保育士の需要は親の収入によって上限が設定される。これが保育士の給料が上がらない経済的要因だと言えるでしょう。

すこし小難しい言葉を使えば2つの財(保育と所得)は代替財と言うことができます。

 

ホリエモンイノベーションによって仕事を効率化することで給料をあげることができると書いていましたが、いくらイノベーションをおこしても需要の上限が設定されている以上は必ず、その上限で保育士の給料は高止まりすることになります。工場やITでのイノベーションのように機械化できる仕事でももちろんない。

 

だから国や地方自治体の補助金は絶対に必要だと言えます。または保育と所得を「完全」代替財にさせないために第3の選択肢として地域や共同体での保育が必要になる。

 

個人的には保育士の仕事が誰にでもできる仕事だとは思えません。少なくとも自分のような背がちょっと高い一重の男性には務まらないと思いました。純粋な子供を相手にする保育士ほどまず容姿が重要な仕事はないですし子供に共感したりする感受性だったり愛情だったりも人間的に成熟した人ではないと務まらないのは容易に推測できます。

 

いま保育で問題となっているのはイノベーションなどではない。保育士という仕事が抱える市場原理では決して救えないその経済的矛盾をまず救うことだと感じました。

短いですが以上です。

 

余談ですが自民に入れると記事を書きましたが期日前投票で比例は立憲民主党に入れてきました。終

ネットで私刑する市民≒覚醒剤使用者を叩くテレビ≒互助会を叩くブックマーカー

ちょっと気になったので。プリズンブレイク5の息抜きにでもブログ書きます。

 

デマかそうでないかに関わらず、ネット私刑は法整備して取り締まるべき: 不倒城

ネットでの私刑、炎上などで正義感がよく使用されますが劣等感のほうが心理構造としてはしっくりくるような感じを受けます。

劣等感でいえば互助会をたたくのも石橋容疑者の会社に電凸するのも同じ構造をもって行われていると考えることができます。

 

はてなではたまにブックマーカーによる互助会叩きなるものを見ることがあります。特定界隈の事情なのでわからない方は改行まで読み飛ばしてくださって結構です。つまらない記事をはてなブックマークで上位表示させることを良しとせず互助会は叩かれますが、そこにはブックマーカーがブログ主にたいして「当然そんなことをしているんだから劣等感を持っているよね?」といった暗黙の決定主義が働いているように見えてならない時があります。

互助記事を書いた人間にたいして勝手に罪悪感をなすりつけて叩きますがブログを書いた当人はそんな罪悪感などまさに知らぬ存ぜぬでしかない。そこに甚大な過謬がある。

 

 覚せい剤使用者などを叩くのも同じ構造(劣等感の押し付け)を持っていると感じます。端的にいって覚醒剤は道徳的罪とは言い難いものです。社会的に規制を設け罰を課すことで全体的、功利的に社会の利益が損なわれないようにしていますが使用した人間が「悪」であると言い切れる性質の罪ではない。飲酒運転や傷害事件のように他害があるものは道徳的罪であるが覚醒剤使用は「社会的罪」のほうに分類され社会的罪を叩くのはいかがなものかと思う。自分を自分で傷つけているだけでありそれをもって叩くのであれば自殺した人間を悪人と認識、断罪しなければ明らかなダブルスタンダードである。叩くべきは悪人であり罪人ではない。

これは清原氏が逮捕された時に思ったことで増田(はてな匿名ダイアリー)に書いた記事があるので興味のある方は参照してください。

anond.hatelabo.jp

 

 

石橋容疑者の(嘘かどうかは本論と関係ないが嘘の)勤務先として拡散されていた会社に電凸するのも正義感ではなく劣等感の押し付けでしかないと捉えています。

あなたの会社の人事は石橋容疑者ほどの危険人物を勤務させていたがその人事はどうなっているのかと・・・あなたの会社はうんたらかんたらと押し付けることは正義感ゆえではなく劣等感、もしくは事後的責任の押し付けといったほうが正鵠を射るような気がしています。

 

これはアメリカと対比するとすこしわかりやすくなる。最近あったラスベガスの銃乱射事件ですが加害者の家族がテレビに出演し容疑者の生活などを語っていましたがそこには日本では当然あるような「加害者家族としての劣等感」のような表情を読み取ることは全くできませんでした。

たいして日本での加害者家族の心情といえば秋葉原通り魔事件がありますが事件を起こした加藤被告の弟はその後、劣等感に耐えられなくなり自殺してしまったようです。ご冥福をお祈りいたします。

 

当然見て取れるべき劣等感。反省の色、社会が悪「とした」ものにたいするこの強烈さは日本では異常だと言っていい。別にネット私刑だけの話ではなく覚醒剤を見ればわかるようにみな無意識のレベルでは日本的罪悪史観によって判断しています。

 

その点では石橋容疑者の会社に電凸するのもワイドショーで清原を悪人だとするテレビ出演者も互助会を叩くはてなブックマーカー

 

全て等しく同じだと言って差し支えない。

 

 

だからネット私刑だけを叩く話をしてもしょうがなく明確に原理の話をしなければ何も解決しないと思うのですよね。

原理によって差別するでもなく区別するでもなく厳しく峻別するその晴眼こそが求められているのではとまったく身の丈に会わない高邁な思想を書くことが許されるのであればそんな風に思ったよ。

あとプリズンブレイク面白いよ( ,,・ิω・ิ,, )

日本\(^o^)/オワタあ~たたたたた!!(  ̄口 ̄)三★)゚◇゚)三★))゚□゚)

日本オワタ論について書いていきます。ちょっと長いです。あ、タイトルの顔文字にいっさいの意味はないです。

日本がオワタと感じることがある理由をとりあえずあげていきます。

デフレ、トリクルダウンの失敗、格差、派遣法、グローバル化、人口集中、少子化、ネット、SNS、嫉妬、自己愛、焦燥感、閉塞感、ピュエリリズム、ニヒリズム無宗教、多様性、信頼の不況下などなど

 

序論

日本オワタ論へのメジャーな反論に先にこたえておきます。日本が終わったというと戦後の米もまともに食べられない時代と比較してといった反論が来ますが歴史と比較して現在の状況を無理に肯定するのは本質的に意味がないと捉えています。

比較論で幸福を論じるならばすべての人間は「比較して幸福」だと言うことができます。戦時中には戦時中の辛さが、そしていまこの瞬間にはいまの時代だからこそ感じる辛さがある。状況が別であるならば問題もまた別だと考えなければ何も始まらない。

 

たこの比較論による思考の強制が閉塞感の理由と数えることもできます。つまり現状、日々の生活に苦しんでいたり閉塞感を感じていたりする人間(私のような)にたいしてこの比較による幸福論は「絶望するな」と言っているんですよね。日々の生活に希望もない、経済的にも縮小していくのが自明であり将来に展望も見えない人間にたいして絶望するなと比較論は言うのです。これが閉塞感という問題を人々に直視させないようにしている。

 

閉塞感、この言葉は希望がないとほぼ同じ意味で使われますが希望がないのと同じかそれ以上にこの国では絶望がないのでしょう。希望を持たず絶望することすら許されない漫然たる生がただ蠢いているとまったく不躾な物言いをするならばそう言うことができます。希望という出口も閉まっていて絶望という出口も塞がれていることをもって「閉塞感」と呼ぶのでしょう。

 

 

経済的閉塞感

デフレと格差、そしてグローバル化でほとんど説明できるように思えます。

デフレについてですがアベノミクスにより株価上では回復したように見えますが実体経済のうえでデフレをインフレに転じる最大の起爆剤は消費者の楽観性にある

日本は20年以上にわたってデフレのまま経済をまわしてきたので給料はあがらず金は貯金するものだという観念が心にこびりついているのですよね。

たとえばバブル期は借金しまくって不動産を買いまくる楽観性によって経済が支えられていました。借金して手あたり次第に不動産を買い投資する。

その楽観性を取り戻さない限りは実体経済がインフレになることはありえないのですが日本人がそこまで楽観的になれるかどうかといえばかなり難しいと言わざるを得ないと感じます。

日本でも格差がだいぶ広がってきました。この一因として考えられるのがフェミニズムによる男女同権と言えます。女性の活躍などを否定する気はまったくないし多少の格差が生じようとも平等は維持されるべきだと考えていますが事実としてフェミニズムは格差という側面から見ると問題を生んでいます。

家父長的な家族では男性が年収500万のサラリーマンに専業主婦の妻がいて世帯収入が500万となりますが男女同権による社会が実現すると

キャリアのある女性(年収500万)がキャリアのある男性(年収500万)と結婚することで結婚という制度によって埋められていた格差が埋まらなくなります。女性がキャリアも年収もない非正規の男性と結婚すればいいのですが一般に女性は男性よりパートナーとして年収がある異性を選ぶ傾向が強いみたいです。これはフェミニズムによる弊害と言うことができるでしょう。

 

派遣法による非正規の拡大ももちろんそうですしフェミニズムによる結婚の経済的(家計簿的)バランシングの崩壊、そしてグローバル化による資本の海外移動、労働の底辺への競争とすべての条件をもって格差拡大の理由と位置づけることができます。

 

 

 

インターネット

インターネットは嫉妬の装置として機能している側面があります。

炎上によって書き込まれるものもほとんどは嫉妬によって動かされている人のものが多くそれによって安い正義が量産され公共性が破壊されていく。嫉妬を買わないように、謙虚にと当たり前のように言われますがそれによって死んでいく主体性がある。

また嫉妬は人口が東京に一極集中する理由とも考えることができます。情報化により都市の彩られた生活が地方出身者の目にとまり東京に出てくる人が多くそれにより地方が過疎化していく。地方でネットを見ないで主体的な人生を生きることがある種、盲目的であるが閉塞感に縛られない幸福な生き方であるとも思うのだがそういう生を送ることは条件的に難しくなっている。それ自体を別の閉塞感と言うこともできますが「足るを知る」ことが幸福の条件であるのと同じように「足らないを知らない」のも幸福であると言うことができます。

 

 

信頼の不況下

これは持論なのですが上述した理由というのは実はどれもたいして理由ではないと思っていて、日本で起きている最大の問題は信頼の不況下なのではと考えています。

過去記事のリンクです

 

20年来、ずっと経済的には不況だと言われてきましたがものすごく感覚的な話をすれば同時に信頼の不況化も進行していたのではないかと思う。つまり他人を信頼するというのがどんどん難しくなってきているように感じる。

一般に他者への信頼は治安が悪くなって悪人ばかりになれば当然、失われていきますが日本の犯罪率はどんどん減少しています。むしろ善人ばかりになって良い社会になってきているようにも統計的には見えます。しかしそれと反比例して感覚的には他人を信じるという行為が難しくなってきているのは(子供を預けることができる他人がいないという)保育園の問題からも明らかです。

 

 

人間には生きるうえで2つの不安(経済的な貧窮と自己存在の不安)があるという文章を読んだことがあります。資本主義は経済的な貧窮を解決してくれますが上述した理由により個人主義になり自己存在の不安を増大させてしまう。こっちをたてればあちらがたたずと。トレードオフの関係性にある。明治、戦後、昭和と生存環境が幸福の前提として求められていたなかでは資本の運動に身を任せることは生存戦略としてそれでよかったのかもしれませんが、最近になりなにか分水嶺を越えてきたと感じるのです。

つまり本来は切り離されているべき自己存在の不安を埋めてくれる聖域にまで資本が流れ込んできたのではと。

聖域のなさ。特に近代、そして特に日本においてそれはとても顕著に出てきているのではないかと感じるのです。

 

 近代日本人は聖域を見つけるのが難しくなった。近代どころか全世界でも史上初めてといっていいほど聖域の少ない社会に日本だけが近づいていっているのではと怖くなることがあるのです。

 

 

終論:プリテンディング

日本オワタとそこかしこで見たり聞いたりしますがその言葉とは裏腹にみんな平気なフリをしているように感じます。30代の平均年収など200万近く下がっているのにみんな平気なフリをして働く。いや平気なフリをしていないと働けないと言ったほうが適当かもしれませんが明らかに格差に押しやられ個人主義によって繋がりも希薄化しているのに平気な顔して笑っていなければいけないような空気がある。

つまり外部の条件は戦時中のほうが明らかに悲惨ではあるのだちゃんと悲しめてちゃんと笑えてちゃんと腹がへってちゃんと眠れてちゃんと怒れて自分の感情に素直に生きることは現代のほうが下手したら難しいのではないのかという感じがある。もちろん比較できる話ではないが閉塞感とは言い換えればどこまで心、感情に素直に生きられるかで外部の条件はほとんど関係ないのではと・・

 

暗黙的な感情の強制。平気なフリをし笑いポジティブに振る舞う。その不自然な社会規律が自然な人間感情に浸食する。おそらくはそれが閉塞感の正体である。それを現実で打破できれば

 

経済は楽観性が復活しインフレになり、他者を信頼できるようになり、インターネットに嫉妬をまき散らすこともなくなるのではないのかとまこと楽観的に語るならばそう確信している。

 

最後になりますが言及先リンクです。

www.byosoku100.com

 

フロム・ヘル (字幕版)