メロンダウト

メロンについて考えるよ

シガレッツ&ポリティクス

神経症的社会もここまできたかって感じがするな。もうなんかfnoithunderさん同様にブログとかどうでもよくなってきたので殴り書きだけど

 

なんでそこまでなんでもかんでも政治化してすべてを語りたがるのかね。ある事物を政治化したら民主主義なんだから全体化するゆえに部分最適からはずれることになるって側面になんでもっと慎重にならないのか意味がわからない。

タバコの害がどうこうを置いておくとしても法律が国民のありようを定義することに反対しないのが謎だ。社会的、功利的に法律を制定する意義があるものなら制定するべきだけど例外があり憲法に反する法律は通してはいけない。法律が秩序を守るものである一方で憲法は国民が国家を縛るものなのだから憲法に反する法律は民主主義のプロセスから外れている。

健康増進法憲法の幸福追求権に反しているしタバコだって幸福追求の方法のひとつとして数えることは他人から見れば馬鹿みたいだがたしかに可能だ。健康が善かタバコが悪かという問題ではない。民主主義の大前提の話だ。

最重要なことは望ましいか望ましくないかに関わらず国民の自由そのものを守ることである。ここを侵犯しようとする法律ができた場合には民主主義者なら反対するべき。

これは理念の問題であって具体性の問題ではない。タバコが嫌いだからといって理念を捻じ曲げていい理由にはならない。

 

タバコが個人の幸福を形成するかは個人差の問題としてあるが仮にタバコが幸福追求の方法として明らかにはずれていようとも当該個人がそれを幸福だと感じているのであれば国家はそれを他人に迷惑をかからない限りにおいて尊重「しなけれなならない」。するべきかしないべきかという話ではない。しなければならない。

この点で喫煙室での喫煙や自室での喫煙を禁止しようとする東京都知事憲法の理念に違反している。

対象(タバコ)を悪とし政局的に利用しているポピュリストの話なんかまともに聞く必要がない。条例が制定されようが憲法に違反している時点で無視していい。

 

 

政治的に特定の層をとりこむために何か対象を見つけて敵化するのは共産党がよくやっているが都知事も似たようなものだろう。旧来型の自民党保守を敵として都知事選を通ったがゼロゼロゼロとか掲げあげくのはてには排除して立場をつくることに怯え保守にもリベラルにもなれなくなってしまった無謬政治家という印象しかない。

 

 

記号としてタバコはいろいろなものを顕在化して表に現してくれる。

対象がくさいという幼稚園児なみのありえない意見が通ると思っている層。

愚行権を認めない神経症的弱者

不完全性を認めない多様性

悪を排除する悪を厭わない似非民主主義者

 

 

このような傲慢で無謬な全体主義者に比べたら喫煙室で思いを煙に乗せ黙る喫煙者のほうがいかにその精神は健康的かと思うのでありました。。。

 

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女性専用車両ではなく痴漢回避特別車両と呼ぶべき

女性専用車両の解決方法を思いついたよ。

 

女性専用車両の話題だけど女性専用という名前がまずい。

女性専用車両と呼ぶからフェミニズムや差別に関する議論として話題を集める。

 

思い切って痴漢回避特別車両とでも名付ければジェンダーの問題に吸収されることもなかっただろう。

けっこうレアなケースだが自分は男性だが痴漢被害にあったことがある。ケツを触られていたかと思ったら次の瞬間には揉まれていて後ろを振り返り普通に「何してんの?」と言ったらやめて次の駅で降りていった。

 

自分は痴漢にあってもなんとも思わなかったのだがもちろん男性でも痴漢被害から身を守り電車に乗る権利はある。

そしてそれは女性であってもまったく同様である。

そして女性のほうが痴漢被害に合う確率が高く自分のケースのように一対一で解決できる対等な力関係でもない。

 

性別の区別なく痴漢から身を守る方法として痴漢回避特別車両があるのだとすればその車両の性質としての男女の差別はなくなる。入り口は男女対等としての体裁をつくる。

そして痴漢被害から身を守りたい人の多くは女性なので「結果として」痴漢回避特別車両は女性専用車両になる。

これで性質としては男女平等だが結果としては女性だけの車両ができあがる。

 

さらに車両名に痴漢回避とつけることでたとえ痴漢が紛れ込んできてもその車両には痴漢を許さない空気ができて抑止力として働く効果も期待できる。

 

最初から女性だけしかダメーーーとなるとフェミニズムに問題が吸収されていくのでプロセスや呼称を変えれば痴漢だけをスクリーニングして排除できる。悪いのは男性でもなく女性でもなく痴漢だ。

 

短いですがおやすみなさい。

 

 

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

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フェミニズム≒ポピュリズム

ある概念を考えるのではなく自らの主張を通すために武器化した瞬間にその思想は一切の説得力を失うんですよね。

ネトウヨもそうだしリベラルも保守もそうだが際立ってインターネットでその傾向が強いのがフェミニズムだと思っている。

そしてこの概念の武器化を促進する装置としてインターネットが機能しているふしがある。特にツイッターフェミニズムの議論が起きているのはその相関性の高さにあるように思える。

ツイッターの反射的投稿とフェミニズムの簡素化が相乗してなにか巨大なものを生んでいる。

 

140字で書くツイッターは短文でクリティカルに物事の本質をついている(ように見える)投稿がリツイートされシェアされやすいが、一方でフェミニズムはかなり複雑な議論であることはこちらの記事を読んでもらえればわかる。

 

d.hatena.ne.jp

複雑な理解が必要なフェミニズムの議論だがフェミニズムは簡単に語ってしまえることがフェミニズムの議論を混乱させている。

たとえば男女平等は絶対正しいと言ってみたり女性の権利拡大や女性保護、管理職や政治家の女性比率などは誰でも簡単に言えてしかもそれが理念的に正しいように思えるが細分化して議論していくとかなり複雑な生理学的条件だったり歴史的背景だったりがあることがわかる。一概に男女平等が正しいとは言えず躊躇する。

しかし男女平等が絶対正しいと考えるラディフェミなどはこの「躊躇」がないんですよね。あるいはフェミニズムに反対する強権的な保守のほうも躊躇のなさゆえに問題がある。

 

ツイッターなどインターネットの即レス短文議論においてフェミニズムを語ると拡散性の高い短絡的で一見正しいように見える結論だけが独り歩きしてそれが常識化する。どのフェミニズムが正しいかではなくこの構造自体をなんとかしないとフェミニズムポピュリズムに飲み込まれていくことになる。

この点でフェミニズムポピュリズムであると考えることができる。

 

もちろんこのポピュリズムの議論はあらゆる論点にたいして言えることであるが必ずしもそうではない。たとえば簡素化できないが複雑な議論のひとつに「死」がある。

死について語る時に人は言葉の選び方に躊躇するしそれゆえ死に関して議論するときに沈黙を呼び静謐をつくる。

あるいはテロリズム、戦争、少子化、経済政策などに関しても簡素化して語る人はそれほど多くはない。

 

フェミニズムは日常と直結しているゆえに誰でも議論に参加可能でそれぞれの主観的な経験を持ち出して議論することでポピュライズドされることが多いように見える。

あるいは逆にフェミニズムはマクロすぎる理念が横行しているので個々人の生活の実態と合致しない点が多い。それゆえ認知的不協和としてフェミニズムを真っ向から否定する人も出てくる。

 

複雑な議論を簡素化するときに起こるずれ、マクロな正義とミクロな生活のずれ、そしてインターネットとリアルのずれ、またはもっと大きく言えば性と社会のずれ。

これらが混ざり合ってフェミニズムは立ち行かなくなっているように見える。

 

メタな視点ばかり書くのもあれなので立場を表明すれば僕はフェミニズムは「運動として正しい」と思っている。

完全な男女平等が正しいか正しくないか自分の知見では判断しかねるのだがこれまでの社会で女性が冷遇されてきたのは明らかであり、それに抗する存在は必要だ。

フェミニズムは経済的格差を家父長制の家庭で埋めていた機能や恋愛が始まる男性の能動性を毀損している点で少子化を促進しているなど男女平等は功利的には考えるべき問題が多々ある。

男性の暴力的なまでの性欲が人口を拡大し人類繁栄につながっているのだと考えることも充分に可能であり、人類繁栄という大義の前にはmetooなどのセクハラ問題は至極些末なようにも見える。これらも実証的にはどうかわからないしこれから女性主体の恋愛が始まって少子化が止まるかもしれない。

 

考えれば男女平等は問題があると言うことはできるがしかしフェミニズは理念として正しいことは間違いない。

 

理念に耐えうる現実をつくるのが理想ではあるがそのためにはあまりにも男性と女性は決定的に違う体を持ち決定的に違う性愛を持っている。そして糾弾されている男性の時に暴力的なまでの性欲は必要悪とも言えるのかもしれない。しかしその暴力を向けられた女性が声をあげられない社会もおかしい。

フェミニズムが理念として正しいのであればそれに漸進していくしかない。

そのためにフェミニズムの運動は存在するべき理想であり、いっぽうで男性の能動性は存在するべき暴力なのかもしれないと考え安易に結論づけることは躊躇する。

それがおそらくは妥当な態度なのかもしれない。