メロンダウト

メロンについて考えるよ

フェミニズム≒ポピュリズム

ある概念を考えるのではなく自らの主張を通すために武器化した瞬間にその思想は一切の説得力を失うんですよね。

ネトウヨもそうだしリベラルも保守もそうだが際立ってインターネットでその傾向が強いのがフェミニズムだと思っている。

そしてこの概念の武器化を促進する装置としてインターネットが機能しているふしがある。特にツイッターフェミニズムの議論が起きているのはその相関性の高さにあるように思える。

ツイッターの反射的投稿とフェミニズムの簡素化が相乗してなにか巨大なものを生んでいる。

 

140字で書くツイッターは短文でクリティカルに物事の本質をついている(ように見える)投稿がリツイートされシェアされやすいが、一方でフェミニズムはかなり複雑な議論であることはこちらの記事を読んでもらえればわかる。

 

d.hatena.ne.jp

複雑な理解が必要なフェミニズムの議論だがフェミニズムは簡単に語ってしまえることがフェミニズムの議論を混乱させている。

たとえば男女平等は絶対正しいと言ってみたり女性の権利拡大や女性保護、管理職や政治家の女性比率などは誰でも簡単に言えてしかもそれが理念的に正しいように思えるが細分化して議論していくとかなり複雑な生理学的条件だったり歴史的背景だったりがあることがわかる。一概に男女平等が正しいとは言えず躊躇する。

しかし男女平等が絶対正しいと考えるラディフェミなどはこの「躊躇」がないんですよね。あるいはフェミニズムに反対する強権的な保守のほうも躊躇のなさゆえに問題がある。

 

ツイッターなどインターネットの即レス短文議論においてフェミニズムを語ると拡散性の高い短絡的で一見正しいように見える結論だけが独り歩きしてそれが常識化する。どのフェミニズムが正しいかではなくこの構造自体をなんとかしないとフェミニズムポピュリズムに飲み込まれていくことになる。

この点でフェミニズムポピュリズムであると考えることができる。

 

もちろんこのポピュリズムの議論はあらゆる論点にたいして言えることであるが必ずしもそうではない。たとえば簡素化できないが複雑な議論のひとつに「死」がある。

死について語る時に人は言葉の選び方に躊躇するしそれゆえ死に関して議論するときに沈黙を呼び静謐をつくる。

あるいはテロリズム、戦争、少子化、経済政策などに関しても簡素化して語る人はそれほど多くはない。

 

フェミニズムは日常と直結しているゆえに誰でも議論に参加可能でそれぞれの主観的な経験を持ち出して議論することでポピュライズドされることが多いように見える。

あるいは逆にフェミニズムはマクロすぎる理念が横行しているので個々人の生活の実態と合致しない点が多い。それゆえ認知的不協和としてフェミニズムを真っ向から否定する人も出てくる。

 

複雑な議論を簡素化するときに起こるずれ、マクロな正義とミクロな生活のずれ、そしてインターネットとリアルのずれ、またはもっと大きく言えば性と社会のずれ。

これらが混ざり合ってフェミニズムは立ち行かなくなっているように見える。

 

メタな視点ばかり書くのもあれなので立場を表明すれば僕はフェミニズムは「運動として正しい」と思っている。

完全な男女平等が正しいか正しくないか自分の知見では判断しかねるのだがこれまでの社会で女性が冷遇されてきたのは明らかであり、それに抗する存在は必要だ。

フェミニズムは経済的格差を家父長制の家庭で埋めていた機能や恋愛が始まる男性の能動性を毀損している点で少子化を促進しているなど男女平等は功利的には考えるべき問題が多々ある。

男性の暴力的なまでの性欲が人口を拡大し人類繁栄につながっているのだと考えることも充分に可能であり、人類繁栄という大義の前にはmetooなどのセクハラ問題は至極些末なようにも見える。これらも実証的にはどうかわからないしこれから女性主体の恋愛が始まって少子化が止まるかもしれない。

 

考えれば男女平等は問題があると言うことはできるがしかしフェミニズは理念として正しいことは間違いない。

 

理念に耐えうる現実をつくるのが理想ではあるがそのためにはあまりにも男性と女性は決定的に違う体を持ち決定的に違う性愛を持っている。そして糾弾されている男性の時に暴力的なまでの性欲は必要悪とも言えるのかもしれない。しかしその暴力を向けられた女性が声をあげられない社会もおかしい。

フェミニズムが理念として正しいのであればそれに漸進していくしかない。

そのためにフェミニズムの運動は存在するべき理想であり、いっぽうで男性の能動性は存在するべき暴力なのかもしれないと考え安易に結論づけることは躊躇する。

それがおそらくは妥当な態度なのかもしれない。