メロンダウト

メロンについて考えるよ

ツイフェミと政治について

ツイフェミも民主主義と資本主義の悪性みたいなものなのかもしれないな。

結局、どんなイデオロギーも民主主義社会においては拡散性の高い考え=浅く広いもののほうが広まっていく。哲学が軽視され自己啓発本ばかりが売れるみたいなそんな感じを見ていて受ける。

フェミニズムやそれに伴うアファーマティブアクションなどはきちんとした理解のうえに暫定的な措置として行えば充分正しいものだと思うけれど、資本主義的なものに取り込まれた瞬間に商業性が付与され金になるものへと変わっていく。

なんか同じようなことあったなと思っていたけれど、シールズがそうだった。リベラルの意味が「安倍やめろ」に変換された点ですごく象徴的な出来事だった。自由と進歩を理念にしたリベラリズムだけど、実際に拡散されたのは安倍やめろのほうだった。当時、シールズの奥田さんが憲法改正などについて議論する番組に出ていたのを見たけれど「リベラル的」な物言いはしているもののどうにも突っ込まれた質問をされると歯切れが悪くなる瞬間がよくあった。

その安倍やめろに当時のリベラル政党だった民主党も乗っかってしまっていた。

 

ツイフェミも「フェミニズム的」でありフェミニズムのそれとは違ってきている。宇崎ちゃんもそうだった。鬼滅の刃の恋柱につっこんでいたツイフェミもそうだが、ジェンダー的な話題で批判可能なものがあればなんでも批判してしまえばいいとなっている。そこに正しさや理念など関係ない。むしろフェミニズムの理念からは遠いもののほうが都合がよかったりする。いわゆる炎上原理のそれであり誰にでも批判可能な愚かな言説のほうが炎上しやすく炎上しやすいとはつまり拡散性があり金になるということだろう。宇崎ちゃん問題を提起した人も勝てば影響力を得て負ければ議論がふかまったろうで終わらせられる無敵の人のそれと同じだからまあ問題は個人の名誉を棄損しないかぎり言論で何を言おうが刑務所にぶちこまれることがないことで。つまり表現の自由万歳というやつだろう。

 

フェミニズム的なものは利用価値がある。男女のことほどみなが関心を示す政治的話題も他にない。それに民主主義と資本主義をふりかけて混ぜ合わせればこうなることはシールズのころから繰り返されてきたことである。

インターネットによるイデオロギー民主化は世界中で起きていていわゆるポピュリズムと呼ばれるものだけれど、日本では幸か不幸か安倍政権が長期化しているので政治の現場にはあらわれていない。現状、ネットでの勢力争いで済んでいるのでマシだという見方もできるけれどいずれこういう浅く広く大衆向けにパッケージ化されたツイフェミのような考えが本来のフェミニズムにとってかわるのもそう遠くないだろう。

リベラルがポリコレにかわり形式的なものになってしまったようにフェミニズムも政治的な利用価値のあるものに変化することは間違いない。

 

ネットにおけるイデオロギーの先鋭化、タコツボ化、クラスタ化はよく言われることだけれどなぜ先鋭化するのかその動機のほうを考えたほうがいい気がしている。これほど同じことが繰り返されているともはや結果論で語れるレベルではない。これはこちらが勝ったからこうなったとかこっちは負けたからこうなったという結果ではなくむしろ構造の問題ではないだろうか。

結論から言ってしまうとSNSの功罪だと思うが、ツイッターのように140字でなにかを言うかぎり言葉をフレーズ化しなければリツイートされない。このフレーズ化がまずい。本来はどういう論理があってその理念が建っているのか理解することが肝要だけれどフレーズにすると「安倍やめろ」「環境型セクハラ」などにおさまってしまう。

ツイッターが出てくる前は政治について議論するのはまだブログや掲示板などの文章によるものがほとんどであったけれど今はフレーズで政治ができる時代になっている。それは民主主義とことさら相性が良い。資本主義とも良い。

短いフレーズで動員をかけることができるのはコストパフォーマンスが良いからだ。一方、こうして文章を書いても結局何が言いたいのみたいな、ようするにフレーズ化しろと言われてしまう。

のでそろそろ要約すると民主主義は(これまでもそう言われてきたけれど)そろそろ機能不全なんじゃないか、と。