メロンダウト

メロンについて考えるよ

実践フェミニズム批判

基本的に、現代社会を生きる上において2つの不安があると思っている。経済的な貧窮と存在の不安である。

存在の不安というとわかりにくいかもしれないが承認と言い換えればわかりやすい。誰かと自然に居ること、誰かから無条件の承認を得ること、誰かとフラットに対話すること、それらが存在の不安を和らげる。これ自体は特別、なんということはない。みんなそれぞれ対話して悩みを聞き分かち合えばいいだけの話だ。気の合う友人でもいればそれほど特別な能力ではない。

 

問題は男性、特に社会人男性においてこの存在の不安を和らげる場所にいることができなくなることだ。そうなれば孤独になり下手をすれば鬱屈することになってしまう。ではなぜ弱者男性はこのような承認構造に乗れないのかだが

 

いろいろなところですでに言われているように社会人男性の存在価値は経済力と密接に結びついているからである。女性はその限りではない。女性は女性であることだけで社会的には存在できうる。存在の仕方については改善すべきということでフェミニズムが台頭している。しかしフェミニズムがとらえているのは存在の不安ではなく女性の経済力とそれに付随する地位についてだと言える。地位がないから権力がない。権力がないから自由が利かない。社会が男性的であるから女性が生きにくいというのは社会的、経済的条件であってそれらがすぐさま存在の不安に直結するわけではない。女性の在り様を変化させるべきであることは明白だがそれと男性の生きづらさは異なるものである。

男性的な存在の不安は生そのもの、生きることそのものが前提からして成立しえない状態のことを言うと思っている。女性より男性の自殺率が高いことからも男性のほうが「生きることをやめようと思うほど存在を否定された状態になる」確率が高いことは明白だ。

男性の存在価値は経済力や社会的地位と結びついているのでそれらがない状態(ひきこもりやモラトリアムではない無職)になると存在そのものを脅かされるような焦燥感を感じるようになる。詳しくは書かないが自分も社会的地位によって人の目が変わったと感じた経験は多々ある。多くの男性もそうだろう。女性でいうとやせたらモテるようになった、太ったらフラれたみたいな話は男性になるともっとピーキーなものになる。時に差別的だとすら感じるほどに。

よく昔のホームドラマかなにかで夫が会社に解雇され一家離散みたいなストーリーが出てくる。会社に解雇されたぐらいで離婚までいくほど男性にとって経済力と社会的地位と存在価値は直列に繋がれているものという証左にはなるだろう。それほど無職になることは家父長的な社会において大ごとなのである。すくなくとも前時代の価値観においてそれは強烈にあった。そしてそれは今もまだ消えていない。

単なる学歴や職業上の区別ですらこれほど人の目が変わるのかと思えば無職やひきこもりの方達が受ける視線の辛さは想像するに難くない。

よくよく考えれば男性も無職になろうが非正規になろうがそれほど問題ではない。ご飯を食べるのは非正規の給料でもそれなりに手に入る。無職になっても生活保護がある。最低限生存する環境としてある程度整っている。なのになぜ自殺するのか、なぜ「生きることをやめるのか」。社会的に何者でもない男性は存在として否定されているからだと言えるだろう。

 

 

と考えると男性の問題を解決するのに最も有効な手段としては資本主義をやめることという答えが出る。資本の論理で男性をジャッジするから存在を否定されるのであってその環境(資本主義)を破壊すればいい。物差しがあるから劣等感が生まれるなら物差しそのものを破壊してしまえばいい。単純な結論として弱者男性をすくうならもう一度共産主義を再考して平等を目指そうということになる。産業が成長しきっていなかった旧ソ連は失敗したけれども技術的にこれだけ成長した今の日本ならワンチャンいけるんじゃないかなどと思いそうになる。けれどそれは今の日本社会における弱者男性に軸足を置いた考え方であり最大多数の幸福を実現する考え方ではないだろう。

ピケティが書いていたように資本主義は存在の不安などと言い出すより前に富の不均衡という点ですら不具合が生じまくっている。しかし現状、資本主義より良い経済システムはない。経済成長し全体のパイを増やし国家が福祉という形で配分することで最大多数の最大幸福を実現しようとするのが今のところベターなシステムだといえる。

しかしこの資本主義下において男性が抱える問題の根幹にあるのが「承認は再分配できない」ところにある。これは将来、人間が従事する産業がほとんどサービス業になり女性優位な社会になった時には女性も直面しうる問題かもしれない。男性より女性のほうが安心感を持たれやすいので産業構造が変化すれば女性優位の資本主義になることは考えられる。いままでのようにモノづくりや肉体労働ではなくサービス業が主流となれば女性が働き男性が主夫となるような社会構造は十分に考えられるものだ。そうなれば男性は社会的地位の獲得競争から降り、今まで多くの女性がそうしてきたように自らの性的魅力を高めることを目指すのかもしれない。しかしそうなってもそれは男性と女性の立場が逆転しただけで同じことである。何も変わらない。

 

何らかの物差しではかる場合、必ず勝者と敗者が生まれる。何かの論理をたてると別の論理で反論できる。そして最後には対立する。

フェミニストが経営者や政治家などエスタブリッシュ層の絶対数から女性は社会に冷遇されていることを論拠にしているがこの論拠は男女平等という論理である。

これには資本の論理で反論できる。産業革命以降、モノづくりにおいて工場における肉体労働が一般労働者がする仕事になった。肉体労働は男性のほうが優位であり男性のほうが賃金が高くなるのは資本の論理において平等である。

また、少子化という論理でもフェミニズムには反論できる。男性が働き、女性は家事をする昔の家庭モデルでは家庭内で再分配が成立していた。男性が働いて賃金を得てそれを無職の女性に渡すことで賃金格差を解消すると同時に女性は家事と育児に専念できて子供が生まれた。フェミニズムはけっこう隙だらけの論理で様々な論理で反論可能である。

 

しかし反論可能であるからと言ってフェミニズムが間違っているわけではない。どの立場からどの論理を前提にして物を言っているかを注意する必要があるというだけである。

みんなそれぞれの立場があり、それぞれの都合がある。無職男性は資本主義を破壊しようと主張するかもしれない。それにたいし僕達はそんなことはできないと反論する。

フェミニストは男女平等を主張する。じゃあ男性を資本主義的にジャッジするのをまず女性がやめろみたいなことを男性の立場から言ってみたりする。すると男性が生きずらいのを女性のせいにするのをいいかげんやめてほしいみたいな反論がくる。

http://hedgehogx.hatenablog.com/entry/2019/06/12/212045

すると可哀そうランキングみたいな話になってくる。そのかわいそうランキングもどの立場からどの論理を前提にしているかが違うのでめちゃくちゃになる。結局こじれてゾーニングで解決しようとする。個人主義、君子危うきに近寄らず的な世の中になっていく。

基本的に誰かが何かを主張している場合、その意を汲むということが重要ではないかと素朴に思う。絶対に正しい論理などない。あるのは正しさではなく都合だ。フェミニズムは女性の社会的都合において正しい。また男性にとってもフェミニズムはマイノリティーを救う思想のベースととしても機能しうるので都合がいい。

今のフェミニズムは政治家などを見るに男性的な女性がつくる男性社会みたいな感じになってしまっているがそれも過渡期だと考えれば男性が支持する理由にもなるはずだ。女性が優位になれば今の資本主義社会における直列乾電池みたいな男性の価値観も変わるかもしれない。どちらにも都合がいいのであればあとは解釈の問題だ。都合のいいように解釈してしまえばいい。無職で貯金もない男性なのでお金持ってる女性と結婚したいという解釈ができる社会がくるかもしれない。

 

ところでカントは純粋理性批判アンチノミーということを書いている。世界に自由はあると同時に世界に自由はないと結論づけたのだ。すべてが自然法則による因果によって紐づけられた世界で自由なものなどない。

と同時に自然法則によっておきた出来事の因果の因果の因果と突き詰めていくとそこには始まりがなければならず、その絶対的な原因であるなにか発芽したものを自由と呼べるとも書いている。自由であることと自由でないことは矛盾するが同時に成立しうることをアンチノミーと呼んだ。

 

男性の生きづらさは女性のせいであるとも言える。と同時に女性も生きづらい世の中であると言える。資本主義もやめられない。女性の社会進出もすべきである。そうなった時にどういうメタな解釈によってまとめるか、あるいはまとめないのか。

男性と女性という違う人間が同時に存在する世界をどう「矛盾したまま」成立させるのか。

全員が都合のいい解釈を持てる社会をどうたてるのかを考えるのが「実践的」であると僕は思う。

長文駄文

山里氏の結婚に関して岡村隆史さんの発言に関して思ったことを書いていこう。岡村隆史さんが山里さんの結婚に関して「勝ち組」と言ったことにたいしてなにやら言われているみたい。けっこう典型的なネット仕草もとい情報仕草に見えた。芸能人の結婚とそれに言及する芸能人というとかなり俗っぽい話であるがけっこう大事なことが見える件だと思う。

 https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/06/07/kiji/20190607s00041000111000c.html

 

情報化社会と言われて久しい。特にSNSが一般にも普及し始めてもうすっかり社会は情報化した。そうこうしているうちにこの情報化社会で変わったものも見えてきた。

情報は英語でinformationであるがこの単語を切り分けるとinformで知らせるという意味を持ち、in-formationで型の中に入れるという意味も持つ。誰かに何かを知らせることはその関係の中に巻き込み入れ込むことである。情報化社会は情報化することによってすべての人がすべての人に巻き込み巻き込まれるようになった社会だと言える。twitterなどのSNSを見ていても実際に起きていることと相違ない。

そのおかげでブラック企業が晒されたりと良いこともある。というより客観的な意見が優勢となりやすい情報は良い影響を持つことのほうが多いと思っている。想像もしていないような仕事をしている人が情報発信して知らない人を巻き込んだり、SNSを利用して地方活性化したりと人々をつなぐ役割として機能している。しかしそればかりではない。政治的にはポピュリズムポストトゥルースフェイクニュースなども問題視されている。あるいは情報化により全員の富や幸福が相対化され嫉妬に駆られることがあるのも問題だ。

いろいろ問題はあるけれど今回の件(山里氏の結婚報道)からはもっと大きなくくりで情報それ自体が持つ弊害が見て取れる。

 

岡村さんが山里さんの結婚に関して「勝ち組」という言葉を使って祝福したことは二人の関係の中では祝辞として成立するものだと思う。しかしその言葉が情報化した時に僕たちはその言葉を客観的に判断しようとする。実際、はてブのコメント欄でもそういう反応が見て取れた。

「美人と結婚できれば勝ち組という規範意識はおかしい」

「結婚しているのが勝ち組なのか」

こうした批判は客観的に見れば正しい。

既婚者と独身者に優劣はなく平等であるという理念を僕たちは持つべきだし信じるべきである。しかしそれが他者が他者に向けた言葉を裁く理念であるかまた別の問題となる。

誰かが誰かに向けて発した言葉を情報化して他人が判断するというのはかなり危険な行為だ。その関係性の中でしか意味を持たない言葉があり、それは客観的には正しくないがその関係の中においては「通じる」言葉であるからだ。経験的にみんな知っていると思う。

頭が薄い人にハゲというとだいたい良い結果にならないが冗談が通じる特定の個人に言えばジョークになりうる。いや馬鹿やハゲなどの罵倒語はあまりいい例ではないかもしれない。実際には言わないほうがいいと思う。

ほかの例をあげると君の膵臓を食べたいという映画がいい例だ。「君の膵臓を食べたい」が客観的にはカニバリズムであっても映画内では愛を象徴する言葉として機能している。閉じた関係の中では意味が違ってくる。

 

こういう客観的に判断していいことと個別的に判断しなければいけないことの違いが大きく言えば文系と理系に大別される。理系は再現性があることを探求しようとする学問である。りんごは木から落ちれば絶対に地面に落下する。100回やれば100回そうなる理(ことわり)を解明しようとする。あるいは疫学のように100回中統計的に20回はそうなるだろうという確率を算出して分析する。

いっぽう文系、特に人文科学はそうではない。人にハゲと言った時に何人中何人が怒るかなんてことは計算しないのが正しい態度だ。なぜ人にハゲと言うことは正しくないのかを「無根拠に言葉にし与える」のが人文科学の本質的な意義である。

お金に価値があるのは人々がほとんど無根拠にそれに価値があると信じているからだ。私有財産もその個人がその財産を持っていることに正当な理由はない。仮にあるとしてもそれは資本の論理であって金や富そのものを説明できる理ではない。国民国家もまた共同幻想である。出生や国籍以外に中国人や韓国人と生物的な違いはそれほどないだろう。しかしその無根拠な概念を与えないことには社会が回らないから無根拠な「信仰」を与えることには意義がある。

いっぽうで社会科学である心理学や行動経済学は統計的に人間を分析しようとする。しかしその論理を現実の人間関係に持ち込んだ時点で暴力である。既婚者のほうが独身者よりも幸福であるというのは統計的にはっきりしているがそれを目の前の独身者に言うことがどんなに失礼か僕達は知っている。独身者でも幸せな人はいるし既婚者でも不幸な人はめっちゃくちゃいる。だから個別認識が必要になる。

ハゲと言う人とハゲと言われる人の関係性を見通そう、人間関係は相対的であり絶対化できないものでありほとんどが無根拠であるという態度が人文科学的には正しい態度となる。そしてそれはみんな経験的に知っていることだと思う。あの人はあんなトラウマを持ってる、あの人はちょっとしたことで怒る、あの人は悲しい離婚経験がある、あの人は鬱病で休職していたことがある、あの人は○○であるから発言には注意しようとみんな現実の人間関係では判断している。

しかしネットになると個別認識をやめ全体の理念で人を判断しているように見える。見えているだけでそうではないことをしている人のほうが多いかもしれないが、「そう見えている」ことのほうが情報的には優位に機能する。

そう見えている限りそう見ることが正しい判断だと僕達の意識は塗り替えられていく。ちょうど僕たちがこれまで無根拠に金に価値を見出し、無根拠な道徳を教えられ、誰かがつくった法律に従わなくてはならないように、これからは「そう見えている情報」が世界を塗り替えていく。

metooフェミニズムヴィーガンなどの客観的に正しい情報的な態度が支配的になるのはそう遠くない。metooにたいして「男はやりたい動物なんだよ」って反論は馬鹿げている。食欲以外に動物を必要以上に食べる理由もない。旧来のジェンダーロールにも正当性はない。

そこに無根拠な言葉でエクスキューズを与えることがこれまで文系学問がしてきたことだ。僕たちが大事に思っている行動だったり価値観だったりはほとんどが幻想であり偽物である。

いってしまえばただのサブカルである文学がなぜ学問として扱われているかはそこに書かれている言葉がすべて嘘だからだ。フィクションという無根拠なものだからこそ現実に投射する価値がある。逆に社会科学のように現実を分析する学問は解答を得ることができる。しかし解答は価値とはまた違う。

フィクションが現実に作用する例としては恋愛がわかりやすい。ドラマのような恋愛がしたいなんて言葉があるが、恋愛感情もまたどこかで聞いた物語を現実に投射することで酔っ払っているにすぎない。けどそうしてはじめた偽物の恋愛が時間が経つにつれ現実のものになっていく。偽物だからこそ本物に向かおうと思うものなのだろう。これがあなたの本当の愛する相手ですと誰かが合理的に解答をくれたとしても僕たちはそれに納得するようにできていない。僕たち偽物を欲する。

本物は本物であるゆえに偽物であり、本物に向かおうとする意志があるぶん偽物のほうが本物よりも本物である。正しくないもののほうが正しさに向かおうとするぶん正しいものよりも正しいのである。言葉遊びのように聞こえるかもしれないがそうして言葉にして解答を有耶無耶にしてどちらも肯定するのは大事な作業だと僕は思う。

 

しかしそういう無根拠で偽物的で正しくないどっちつかずな価値は消えていずれなくなる。宗教(信仰)は科学に侵食されてきた。情報もまた文学を侵食する。

 

あまり関係のないことも長々と書いてしまったけど、今回の山里さんと岡村さんのやりとりに反応するネット民の情報的に正しい態度はかなり危険な反応に見えた。客観的な判断を実際の人間関係をはかるうえで適応しないほうがいい。

客観的、情報的には既婚者と独身者が平等なのは正しいし、彼が彼に「勝ち組」と言ったことも彼らの関係の中では正しいのだから。

無敵なのは社会のほうである

「1人で勝手に死ね」

登戸で起きた無差別殺傷事件にたいして上記のような発言は加害者の動機付けになりかねないから自重せよといった記事を読んだ。

今回の事件が無敵の人と関連して語ることができるかはわからない。容疑者が死亡している以上、憶測でしかない。なのでここで書く無敵の人に関する考察は事件とはおおむね関係ない。ネットの意見を読んでいて無敵の人という人物像にたいしてなにか違和感があるから書いてみようと思った次第である。

 

さて、人と社会との関係がいかに犯罪の動機付けとなるかその個人の思考の内部までのぞきこまないと知りようがない。犯罪の動機はおおむね人々を納得させるために社会から求められるものでしかない。今回の事件に関して言えば犯人を無敵の人という人物像でくくることによって事件を解決するのではなく自分を納得させたいという「欲求」が働いているように見える。すべての動機は憶測でしかありえない。本人が動機を述べたとしても全く別の無意識な衝動によって動いていたこともありうる。

ではなぜそれでも僕達は無敵の人を語りたがるのだろうか。

「およそ語られうることは明瞭に語られうる」ということをウィトゲンシュタインは書いている。多くの人が無敵の人について語るのは無敵の人になる思考回路が自分の中に内在しているからだと考えられる。その思考回路は社会にたいしての違和感である。

実際、この社会はなにかがおかしいと感じることは多々ある。一般的な人々にとってはその社会と自己のズレは小さく許容できるものである。しかしもっと強烈なズレを感じている人にとっては犯罪を起こす動機になりうる。

 

ならばこの社会の何がおかしいかについて明らかにしなければならない。「社会がおかしい」という言説は幼稚な発言だと一蹴されてきた。解決すべきは自分の環境であり自分の問題であるとすべての責任を個人におしつけてきた。実際、これだけ自由で開かれた社会において個々人が抱える問題は個人の責任だというのは妥当である。しかし個人で解決できる問題は具体的なことに限られる。お金、身近な人間関係、仕事、生きがいなど個人で解決できる問題は個人で追うべきなのは間違っていない。

しかしもっと抽象的なレベルでこの社会を見た時、社会がおかしいというのは確かに言えると僕は思う。

抽象的に、メタな視点で社会を理解することが社会とのズレを視認することに繋がる。社会が敵だと感じるのであれば敵を認識することで戦略をたてられるはずである。

 

ではこの社会と人との関係でどういったことが相互的に作用しているのか。示唆に富んだアニメの場面がある。

化物語というアニメのワンシーン。羽川翼という典型的ないい娘、学級委員で成績抜群、メガネをかけ三つ編み、会話もそつがなく思いやりがありどこまでも正しい娘と彼女の両親との関係を語ったシーンである。

 彼女は実の親と離れて血の繋がっていない義理の親と暮らしている。その義理の親に殴られ虐待されていて怪異(呪いのようなもの)にとりつかれるようになった。

子供が親に虐待されていると聞くと僕達は当然のように親を糾弾する。しかしこの場面では虐待されている羽川翼の責任を語っている。羽川翼が善良で正しい人間だから親にストレスが溜まり娘を殴るようになったという見方をしている。かなり考えさせられる視点だ。

正しい人間(羽川翼)のそばにいることは自らの邪悪さを認識させられることになる。だから「正しい人間は自らが周囲に与える影響について自覚的であるべき」と語られている。


猫物語 忍野メメ、羽川翼を語る 「あるのは正しさじゃなくて都合だ」

 

このシーンは人と人との関係を語っているシーンであるが同様のことが社会と人との関係においても言えるのではないか。

 

 

正しすぎる社会は適応できない個人にとって生きづらい世の中であると言える。僕達は社会が間違っていないと考えるのであれば個人が歪んでいると結論づける。自己責任論の論拠は常にここだ。なにをするにも自由で努力をすれば達成できる社会において何も達成できない個人はその個人の能力不足であるゆえに自己責任であると自己責任論者は言う。

正しい社会に反論の余地はなく改善の余地もない。なぜなら正しいからである。しかし人と人との関係性が常に相対的であるように社会と人との関係も相対的なものである。

そう考えたとき正しい社会ということはメタなレベルにおいて正しいのだろうか?

 

 相対的な価値基準においてある正しさを基準として設定すると必ずそこから漏れる正しくない個人が生まれる。卑近な例で言えば僕はタバコを吸う。この行為は正しい社会から見れば正しくない。実際、吸っていることに負い目を感じることもある。タバコの煙は他人に吸わせるものではないということは正しい。だから分煙社会も正しい。僕自身そうだと思う。しかしそう思うことは同時にタバコを吸っている正しくない自分を認識することになる。自分はタバコを吸っている。だからタバコを吸っている自分は正しくない、と。

タバコのように軽微な物事であればどうでもいいが、他にもたとえばLGBTなどがいい例である。異性愛を前提とする社会ではLGBTの方達は同性愛等は社会から正しくないと言われてきた。性という人間の最もプリミティブなことに関して社会から否定されるのはとてもつらいことだろう。

この2つはわかりやすい例であるがもっと抽象的な例でいえば

夢を持って頑張っている人は夢を持たない人間に劣等感を与える。仕事をしているのが正しいのであれば仕事をしていないことは正しくない。結婚していることが正しいのであれば結婚していないことは正しくない。幸せな人は幸せでない人を浮き彫りにする。

夢、愛、幸せ。完全にポジティブな価値観だと僕達はとらえがちだが夢も愛も幸せもそれをポジティブだと語った瞬間に、逆説的にそうではない人々の承認をはぎとることになる。夢も愛も金もない個人は正しくないと僕達が考えるのは夢と愛と金を持っているのが正しい人間だとほとんど無意識に内面化しているからだろう。

そう考える人間の言動は今回の登戸の事件のニュースの端々にもあらわれている。容疑者は小学校時代どんな子だったのか、仕事は何をしていたのか、家族関係は、と具体的な質問はいろいろあれどそのすべては一貫して「彼は正しい人間だったのか」ということに終始している。

そういう質問を繰り返し報道していると彼は正しくない人間だから事件を起こしたと見ている視聴者は納得するだろう。正しい人間じゃないから正しくない行為をしたんだと正しさの型にはめて処理する。

 

人間関係は常に相対的だ。それは人と人でも社会と人でも変わらない。人に迷惑がかからないように思える夢や愛や幸福なども誰かの嫉妬をかきたてたり劣情を持たせたりする。人の幸せを見て歪んだ感情を持つなんてその人は未熟だと僕達は思う。しかし僕達がそう思えば思うほどに歪んだ感情を持つ人により強い劣等感を植え付けることになる。それでも夢を追い、愛を探し、幸せになろうとする以外に生き方などない。ならばせめて自らがそれらを獲得できた幸運に関して「自覚的」であるべきだ。

 

人と人が関係しあう社会において正しさという相対的なものではかることはメタに見れば正しくない。不完全で多様な個人である僕達はその正しさを否定することができないからだ。

無敵なのは人ではない。因果関係が逆だ。正しい社会は無敵であるゆえに人もまた無敵になるのだ。

 

地下室の手記 (新潮文庫)

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