メロンダウト

メロンについて考えるよ

男性の生物学的条件は無害アピールしなければならないこと

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davitrice.hatenadiary.jp

 

以下感想

男性は無害アピールしなければ社会の一員になれない。たぶん女性や子供にはわからないし若者にもわからないと思う。ものすごい肌感覚的なものなので成人した男性にしかわかるものではない。不審者扱いされたり意味もなく職務質問を受けたり存在そのものが害であるみたいな感覚とそれに伴う劣等感を多くの男性が持っている。もちろん個人差はあるけれど大なり小なり多くの男性が感じていることは間違いない。

男性は女性よりも生物学的に身体能力が強い。なので今のような社会においては「その身体能力を行使しないですよ」といったポーズをとる必要が出てくる。身体能力にかませて女性を襲うなどが典型的であるけれどそういう行為が可能であることが男性を苦しめている。もちろん強姦によって直接的に被害を受けるのは女性であるけれど男性はその身体能力を持ってすれば強姦可能であるといった風評は同時に多くの男性をも苦しめることになる。

そんなこと最初できなかったらいいのにと思うことがある。やらなければいいという話ではない。というかやるわけがないのだけど可能性としてはできてしまう。その可能性がものすごく邪魔なのだ。身体能力は男性にとって見れば呪いみたいなものではじめからできなかったら警戒されることもないのにと。

可能性としてはじめからそんなものなかったらいい。女性のように華奢でフラットな存在であれば無害アピールすることもなく社会の一員になれるのにあらゆる場面で適応を求められる男性になんて生まれてこなければ良かったと考えたことがないわけでもない。女性のほうがそういった観点からは幾分楽に見える。

もちろんそれぞれに条件が違って単にそれだけの話でしかないのだけど、男性の生きづらさみたいなものはあまりにも見過ごされてきた。というか今この時代だからこそ男性はより生きづらくなってきているのではないだろうか。そんな気さえするのだ。

以前の家父長制社会においては男性はその男性性に従って行動することが今よりもずっと許されていたのだろう。しかし男女平等が前提となった社会では男性はより中性的に振る舞う必要が出てきた。なので男性性を隠す必要が生じている。中性的社会において男性性は害なので無害アピールをしなければならない。そうするしかないのである。

女性のように洋服に気を使い、身なりは清潔にして不摂生は相手に与える印象が悪くなるので自制してといった具合に男性も努力しなければならなくなった。ちょうど女性達が外見的魅力をアピールしていたように男性も外見的に無害をアピールしなければならなくなった。

もちろん以上のような「勘違い」は抽象的推論でしかないわけで個別に見ればそんな努力を必要としない環境にいる人もいるだろうけれど概して見れば社会が男性に求めるものが変化したことは間違いないだろう。

女性や子供は存在として無害である。男性はそうではない。そうではないのであれば存在そのものを否定されていると考える男性が出てきても不思議ではないだろう。自殺率に関しても圧倒的に男性が多いのはそもそもなにがしかの有用性を持たない男性は存在の問題に真っ向から直面することになるからだと愚考している。

経済的困難を理由に自殺したり失恋が理由だったり具体的な問題はさまざまあるけれど、根っこにあるのはそういった生きている理由を無くした時に存在価値も同時になくなると感じるほど男性の原理的存在は否定されてしまっているのではないだろうか。

 

フェミニズムは当然のことながら男性を救わない。女性的無害に立脚して社会を構想するかぎりにおいて男性的有害性を内包することはしないからだ。しかし男性の問題はまさに無害な社会の中にこそ顕在化しうる。なぜなら男性は生物学的に身体能力が強いために有害可能性を原理的に持った「存在」だからである。

飲み会の問題って年齢差別が問題の根本なんじゃないの?

飲み会に参加させられるのが嫌だって記事だけど結論から書くと履歴書に年齢書くのをやめたらいいよ。

年齢差別ってあまり話題にならないけどアメリカとかだと年齢で人を見ることが失礼だって考えがあって履歴書に年齢を書く欄がなかったりするし日本は年齢にたいしてあまりにも無警戒かつ無意識だと思う。

年上は敬うべきだって考え自体はかまわないんだけど何が良いか悪いか価値観を社会的なレベルで決定すると必ず勘違いして傲慢になる人が出てくる。アルハラする人も年齢層が高めの人が多いけれどそれも年上は敬われるべきだという考えが根本にあってその価値観を基礎づけてるものに年齢があることは間違いない。

anond.hatelabo.jp

増田は個人の問題と言っているけどそういうわけでもないと思う。権力や立場を得た瞬間に傲慢になる人間はたしかにいるしその意味で彼や彼女を傲慢にさせているもののひとつに年齢があることは間違いない。年齢だけでなく先輩後輩関係や男尊女卑的な価値観も人を傲慢にさせて他人を軽んじていいといったエクスキューズに容易に変換する。

差別なんてもとを正せば誰が尊いかとか誰を敬うべきだとかそういう肯定的価値基準が先にあってその価値観に適応しきった人間の傲慢さによるものがほとんどではないだろうか。アメリカで黒人を差別する白人も先にアメリカを開拓し文明を築いた肯定感が傲慢さに変換されるしナチスの優生思想なんかその典型で誰が尊くて敬われるべきかっていう考え方そのものが差別の土壌になる。その意味で年齢が上の人を敬うべきってのも差別構造をつくる考え方でしかなくて、だから年齢なんてどうでもいいものはお互い明かさないでいいんじゃないかと思う。

実際、相手の年齢を知らなくて困るような場面があまり思いつかない。誰が何歳とか誰は自分より年下だからとかで判別して敬語を使ったり使わなかったりしてる人が大勢いるけど普通に差別だと思うわけで。なんでそんなわけのわからないルールに適応してるのか昔から不思議なのだ。初対面の人には基本的に敬語でいいし仲良くなったらフランクに喋って年齢も聞いたらいい。

 

飲み会の問題にしても根本にあるのは年齢差別や先輩後輩関係、上司部下の関係だと思う。最大の問題は飲み会に誘われても断れないところにあってなぜ断れないのかというと年齢が上の人間は敬うべきだといった価値基準があまりにも社会に浸透しすぎているからだろう。その価値基準をもってしてアルハラを行う人も傲慢になるしされるほうも断ることができないのでいかに断ることができる価値観にアップデートするかが問題の根本にある。

だから冒頭に書いたように履歴書に年齢を書くのをやめて相手に年齢を聞くのも失礼だというふうにすればいい。たとえばいきなり「あなたはゲイですか」とか聞いたりするのが失礼なように年齢もプライベートな情報としてある程度の秘匿性を持たせればいいのではないだろうか。上司部下の関係に関しては仕事上なくすことは不可能だと思うけれどすくなくとも年齢に関してはプライバシーとして守ることは可能だろう。

 

そうなれば逆説的に飲み会が楽しくなる効果も期待できる。先輩後輩などの関係性が前提にある飲み会だと鴻上さんも書いていた通り接待みたいになってしまうけれどお互いフラットな関係があれば普通に楽しい飲み会になることもあるはずだ。仕事上の飲み会だとそう単純な話でもないがすくなくとも緩和はされるのではないだろうか。

 

上の増田で書かれている中年おじさんへの差別ってのも権力構造が逆転したゆえの差別の再生産に過ぎないのだと思う。

なんでそれを、「中年おじさん」でくくられなあかんの?

そういう行為を気持ち悪いと思い続けて反対の声を上げ続けてきて16年かけて中年おじさんになったら

「中年おじさん」でその酒文化受益者の枠にまとめられなきゃあかんの?

 

年齢が上だからというだけの理由で若い人を差別していた(いる)人は確かにいたしそれを若い人が差別されていたと思うのは当然だけど、今はむしろ逆に振れていて若い人がおじさんを差別的に見ているふしもある。差別する人間を差別する差別主義によって本来差別しない人まで差別主義者認定されているのが増田の言いたいことなのだと思う。結局こういうのは価値観を無化するしかないのだよ。たぶん若い人を飲み会に誘ってはいけないと単純に言うだけでは世代間に分断されるだけで解決にはならない。世代なんてある意味どうでもいいものでまとめるからおかしなことになる。若いからと言うことも差別だしおじさんだと言うことも差別だけどだからといって分断すればいいというのは間違っていると思う。

 

なんていうか若い人が飲みニケーションをおじさん達の文化だと思うのもわからなくはないんですよね。

おばあちゃんの知恵袋なんて使う前にググればなんでも出てくる時代において歳をとった人間の尊厳はテクノロジーによって無化されていて若い人のほうがむしろ優秀だし世界を知っているし昔のネットもない時代で土着的に生きてきた今の中高年が小さい人間に見えてもなんらおかしくはないと思う。

だからといって老害などとひとくくりにしていいはずはないけれど・・・

ネットが残念になった理由は数の論理だと思うよ

読んだかも

anond.hatelabo.jp

ネット全体が残念になっているのはその通りだと思うし、以前よりもなんていうか即物的になっている気がする。バズるっていう言葉自体が瞬間的なものだけど、バズに最適化すれば瞬間的に読まれ、瞬間的に消費できて、瞬間的に反論できるものが表に出てきやすいのは当然の現象ではないだろうか。

 

ツイッターが言論界隈において覇権をとったのももはや文章はバズらないからだとしか言いようがないと思っている。仮に読まれるにしてもメディア上で採用されている著者の文章か、もしくは識者やインフルエンサーとして知られている人の文章に限定されていて文章を読む人間自体がもはやほとんど残っていないのではないだろうか。まとめサイトが出てきた時にも思ったけれどもはやまともに文章を書くだけの動機を持てるだけの土壌がネットにはない。コピペや炎上記事にはPVで勝てない上に検索エンジンではリライトしているサイトには勝てない。こんな馬鹿馬鹿しいことはない。もはや勝負にすらなっていないのだから誰が文章なんか書くのかと思わないでもない。

そうなれば残るのは炎上記事およびまとめサイトツイッターなどのコメントだけになる。一方でまだ普通に自らが自らのために日記を書いている人はたくさんいてはてなブログに限っても相当な数がいるけれどそれらは表に出てこなくなってしまった。はてなブックマークに発見されるのは炎上記事だけではてブがそういう機能を持っていることは確かだと思う。普通に書いた記事はブックマークされない。

 

 

短文で何かをバーンと言うほうがウケるしバズる。しかしそういう短文文化に最適化しようとすればするほど実際の議論からは遠ざかることになり、傍から見るとものすごく無意味に見える。それが増田の言うところの残念だという感覚に近いのだと思う。

結局のところ古き良きネットみたいなものが仮にあったのだとすればそれは駆逐されたのだよ。数に。コピペで記事を量産するまとめサイトが出てくれば真面目に文章を書いている人の記事が読まれる率は低くなるしインフルエンサートップダウン式に影響力を発揮すれば普通の人の普通の感覚は埋もれることになる。インフルエンサーは人々に影響するのが仕事だからそのインフルエンサーに興味がない人からすればそのような影響は決して心地よいものではないしむしろ残念なものに見えるはずだ。そうやって数の論理が支配的になれば資本主義とネットが同化し、普通のネットみたいなものはもうかなり昔からなくなってしまっている。特にツイッターYoutubeGoogleなどのメインのプラットフォームはもう数に固着してしまっているし検索エンジンは汚染されているのでネットサーフィンして面白いサイトを探すのも難しい。

 

つまるところ数が支配的になれば様々な問題が出てくる。増田の言うイきりオタクとフェミニズムもそうだと思うけれど今のネトフェミの特徴は明日からでもフェミニストになれるところにある。ものすごくわかりやすい政治的主張なのでわかりやすさゆえに拡散されやすい。そして拡散されやすいから数を至上とする今のネットでは力を持つようになる。おそらく以前のネットだとそんな安直なフェミニズムはすぐさま唾棄されたはずである。わかりやすさが政治的決定権を持つ。それが今日のネット上における政治的主張の大勢でそれはネトウヨもリベラルも変わらない。それを称してポリコレや反知性主義と呼んでいたりもするがネットにおける数の論理が変わらない限りこの手の問題がなくなることはないと思っている。

現実が資本主義だからネットも資本主義になったという当たり前といえば当たり前の話でしかないのだけど、最も問題だと思うのはメインプラットフォームがほとんど外資なんだよね。その残念さとひきかえに巡っているお金がせめて国内経済を潤すならともかく・・・