メロンダウト

メロンについて考えるよ

ギャンブルとグローバリズムの綱引き問題

こんにちは。エルデンリングを110時間かけてやっとクリアしたのでブログを書いていきたいと思います。

 

先日テレビを眺めていたら競馬の祭典日本ダービーが行われていた。観衆は6万人。一昨年であればネットが大炎上しそうなほど密になっていた。オニャンコポンという気になる名前を見つけたので馬券を買おうかと思ったけれど、結果から言えば買わなくて良かった。それはともかく会場の熱狂具合はすさまじいものがあり、競馬ファンの熱には驚かされるものがある。

また、ギャンブルと言えば、最近とある地方の若者に4630万円が誤送金されるという騒動もあった。若者はオンラインカジノで全額すったようであり、その顛末を含め連日報道される事態になっている。個人的には連日報道されるような事件でもないだろうとは思うのではあるが、行政のミス・不労所得・ギャンブルという点から井戸端会議にはもってこいの話題なのだろうとも思う。

 

個別の事件はともかく競馬やパチンコをはじめとし、日本がギャンブル大国であることは間違いなく、賭博をどこに位置付けるかをそろそろ考えたほうが良いのではないだろうかと、そのようなことが脳裏をかすめたので書いていきたい。

ギャンブルをどうするかというのは意外と語られないテーマでもある。

 

良かれ悪しかれ日本人はギャンブルが好きである。

パチンコ、パチスロ、競馬、競艇、競輪はもちろんのこと、広義ではソシャゲのガチャ等もギャンブルにあたるし、表立って言われることはないけれどフリー雀荘での麻雀も金銭を賭けて行われており、裏ではオンラインカジノや闇スロ闇カジノなども存在する。適法違法問わず日本のあらゆるところに賭ける場所がひしめていることは間違いない。

これだけ「金を賭けること」が日常になっている国は他にないのではないだろうか。

 

しかしながらギャンブルはパチンコをはじめとして表面的には規制の一途をたどってきた。かつてのパチンコやパチスロは一日で100万円勝てるような機械もあり、破産者などが出て社会問題となったため規制されてきたという歴史がある。

麻雀も以前は高レートの雀荘があったものの、健全化が進み、健康マージャンのほうが主流になりつつある。ゲームとしての認知がすすみ、AbemaTVのMリーグなどメディア戦略と連動する形で麻雀自体を楽しむ層が増えてきている。

それ自体はとても良いことではある。しかしこれらの健全化はあくまで表向きであり、規制されればされるほど反比例して闇スロやオンライン麻雀で上限なく賭けられることの希少性は上がっていくことになるのも無視できない。ニュースを騒がせているオンラインカジノもその一種と言えるだろう。

アメリカの禁酒法ではないが、結局賭ける場所があれば需要がそちらに流れ、経済活動として捕捉できないものへ潜っていくことになるのだ。規制をかけることで表を整備したつもりが裏に流れているだけで実質的には税収が減っているだけという本末転倒の事態を放置して良いのかというのはギャンブル産業において考えねばならないことではあるだろう。

 

調べたところパチンコの市場規模は2021年時点で14兆6000億円。規制がかかり縮小した現在にあっても余暇市場全体の25%を占めており、飲食業とほぼ同じ市場規模を持っている。さらにここへ競馬等他の賭博産業を加算すれば全体の30%に及ぶ。違法賭博も含めれば賭博に使われている金額は余暇産業の半分近くになるのではないだろうか。

賭博は出入りする金額が大きいので単純な比較はできないものの、ゲームやアニメなど現在主流の娯楽よりもパチンコのほうが市場規模は大きいのだ。また、近年では日本経済を回復するためにインバウンドを呼び込もうという動きもあるけれど、観光・行楽産業の市場規模は6兆円であり、パチンコの半分にも満たない。

ギャンブルが是か非かという議論はさておき日本経済が賭博によって支えられてきたことは事実である。

単純な話、ギャンブルで勝った人間がお金を飲み屋などに落とし、負けた人間は借金をするなどして、双方が流動性に寄与する形で経済が回ってきた側面がある。あぶく銭ほど経済を回すことができる種類の金銭はない。ギャンブル産業は「大事なお金をあぶく銭に換金するという生産性」を有する産業だとも言えるだろう。

当然ながらそこには多重債務やギャンブル依存症の問題などが同時に出てくるわけであるが、それらの諸問題とギャンブル産業が経済活動にどれだけ寄与していたのかというのは天秤にかけられてしかるべきだと言える。

 

しかしながら以上のような話とは裏腹にギャンブルは傍目にもそのイメージが良いものとは言えないので、年々厳しく規制され斜陽産業とまで呼ばれるようになっている。そしてギャンブルを行う人が減少すると同時にギャンブルを基点に巡っていた経済活動も停滞するようになった。

 

一般に何が良い経済活動か、何が正しい娯楽であるかというのは厳として存在し、その点でパチンコが優れた遊びとは到底言えるものではないけれど、ギャンブルに限らず僕達はあらゆる産業を倫理的な尺度で判断して「正しく経済を回そうとした結果共倒れになってきた」というのが日本経済であるようにも思うのである。

本来は清濁併せ吞む形で経済を回し、税金を徴収することで「濁」を清算するのが望ましい形ではある。「清」だけを抽出できれば良いものの、今の世界ではそうもいかない。グローバリズムが席捲した市場であれば、「どうせギャンブル可能な国にギャンブルマネーは流れてしまう」からである。それは4630万円の一件からも明らかではあるだろう。パチンコが規制されベットできる金額が少なくなり、競馬などは控除率が低いとなればオンラインカジノで上限なしの勝負ができるところにギャンブラーが行くのは考えてみれば当然の事態ではある。

行政が規制をかけたところでいまや国家という枠組みはグローバル資本主義の下位に位置しているため、国内ではギャンブルを整備したつもりが内需を他国に奪われているだけになっている。したがって日本人が本当にギャンブルをやめられない人々なのであれば経済活動として取り込むほうがベターだと言える。その結果歳入が増えればギャンブル依存症のクリニックなどに補助金を出すことで健全化も図れるようになるかもしれない。

いずれにせよ資本主義がグローバル化し、個人に最適化された広告を提示することで人々の欲望を追跡するようになっている限り、僕達は「それ」からは逃れようがない。であるのならせめてもきちんと税金を取れる形にしたほうがマシではあるというだけの話なのだ。

スパイファミリーの感想~結果論としての家族~

スパイファミリーを見ている。アーニャがかわいい。ピンクの髪の幼女はなぜあんなにかわいいのか。
それはともかくスパイファミリーは様々な論点を含む作品だと思うのでそのあたりについて書いていきたい。
 
スパイファミリーは主人公であるロイドがとあるミッションのため、仮初めの家族をつくる物語となっている。
スパイを生業とするロイド、超能力者のアーニャ、殺し屋のヨル。みなが各々の利益のために疑似的な家族をつくる。家族をつくる動機は利害関係であり、愛情ではない。今風に言えば契約結婚が近いのかもしれない。しかし家族をつくるキッカケがどうであれ、一緒に生活するうちに愛情が芽生えてきて徐々に家族の形になっていく。最初はただお互いの目的のために利用するに過ぎなかった関係も、物語に巻き込まれ、同じ時を過ごすうちに結果的に家族になっていく。
こうした結果論、愛情の後天性は現代において重要なものになりつつあるのではないだろうか。そのような感想を持った。
 
 
家族と切っても切り離せないのが恋愛ではあるけれど、恋愛ではしばしば運命の人という言い回しが使われることがある。
自由恋愛では様々な恋愛を経験し、自分に合った人を見つけることが理想的と言えるけれど、しかしそんな都合よく運命の人に巡り合うことはほとんどない。ある種のタイミングやきっかけで時を同じくして、その結果一緒にいることを選択するようになるというのが多くの家族の形ではないだろうか。その点で運命の人もまた結果論に過ぎなかったりするのだろう。運命の人に出会うのではなく、運命の人になっていくとでも言えば良いのか。スパイファミリーのように利害関係が始まりでも、それが運命めいたものに変化することで家族を織り成していくのが恋愛の一側面であることは間違いないように思う。ようするに運命とは後天的産物であるのだ。
 
しかしながら運命の人という言葉は事前のものとして使われがちでもある。白馬の王子様や幸せの赤い糸などが典型的かもしれない。けれど運命は後天的に培われるものであるため、そこに錯誤が生じることになる。白馬の王子様のような形で運命を考え出すと無限の遡及が始まり、恋愛が合目的性に囚われてしまう。
マッチングという現代の恋愛でよく使われる観念も極論すれば運命という価値観に過ぎないのだろう。マッチングしたいとは運命的出会いがしたいと言うのと同義であるが、しかしながら運命は本来後天的に養われるものであるため、そこにすれ違いが生じ、皆が事前の運命に閉じられているというのがマッチングアプリなどのの実情ではないだろうか。
 
そしてそれはおそらく結婚している人も例外ではない。近年離婚率が上昇傾向にあることも運命や条件といった価値観ゆえと考えることもできる。結婚しても運命の人かどうかという視座から解放されるわけではない。むしろ生活を共にしているからこそ、運命の人かどうかという指標は大きなリアリティーを持つようになるのかもしれない。
機会に恵まれて結婚した人も運命を織り成す段階でつまづくことがあるし、恋愛を始める段階でも運命の人という条件付けはその機会を逸する呪いとなることがある。つまるところ万人にとって運命は相応のリアリティーを持つ概念だと言える。
 
したがって現代では運命という言葉をいかに解体するかが重要になりつつある。
そしてその問いを解決するヒントになるのがスパイファミリーであるのだ。
 
スパイファミリーにおける家族は上述したように契約上のものであり、仮初めに過ぎない。しかしながら同時に実際の家族以上に家族らしく、その関係性は強固なものに見える。
「家族ではないが、より家族である」
それが本作の大きな特徴なのだ。
 
なぜこのような状況を見て取れるのかを考えるに、三人が三人とも価値観の上で自立しているためではないだろうか。
たとえば、娘のアーニャは人の心を読める超能力者であるため、父親のロイドが目的のために自身を利用しているに過ぎないことを知っている。ロイドはアーニャにたいしてたびたび嘘をつくのであるが、アーニャはそのすべてを見通し、それでもなお「それでいい」としてロイドと共に生活している。それは作中でアーニャが孤児として里親のもとを転々としてきた経験からくるものだと描写されている。ようするにアーニャは幼年にありながら生存のため思想的に自立し、自他の境界をはっきり線引きするという術を身に着けているのである。そしてそのような態度がむしろ物語を紡いでいくための礎となり、その関係性は後天的に運命めいたものに変化していくことになる。
アーニャにとって父や母の目的はどうでもいいという一見すると歪にも見える態度がむしろ家族の絆を強固にしていくというのは、ことあるごとに自由や運命と言い出す僕らにとって参考になる振る舞いなのではないだろうか。
 
こうした態度でいるのはアーニャだけなく、父であるロイドと母であるヨルも同じである。父はスパイとして自立し、ヨルは殺し屋として自立している。三人がそれぞれに自立し、三人それぞれが違う目的を持ち、かつお互いの目的を線引きすることでむしろ健全な家族を形成していく。一見すると歪ではあるがサスティナブルな関係がそこには見て取れる。そしてその関係性ゆえに物語を紡ぐことが可能になり、後天的に愛情が付与され、運命となる。それがスパイファミリーで描写されている「家族以上の家族の形」なのである。
 
 
蛇足ではあるけれど
このような自立的個人の関係で思い出されるのがエーリッヒ・フロムの『愛するということ』だった。
フロムは「人が恋愛するには孤独に耐える必要がある」と書いていた。孤独に耐えられない個人は依存先を求め、遅かれ早かれ関係性を歪めて壊してしまうという。
それは現実を見渡してみてもよくあることだ。恋愛でも人間関係でも壊れてしまう時はいつも同じだったりする。僕達は相手に何かを求め、自他の境界を踏み越えて依存し始めた時に関係性が続けられないような事態に陥る。そのような事態を完全に避けることは不可能だと思うけれど、それでも人は孤独だという前提があれば物語を紡げる余地を残し続けることができる。おそらくはそのような胆力によって恋愛が恋愛として、あるいは関係が関係として成立している部分があるのではないだろうか。
男と女と子供という本来まったく違う人間同士が関係を続けていくというのは、よくよく考えてみれば極めて難しいことなのかもしれない。
そうした家族の現場にあってはお互いの差異を認めるのと同じかそれ以上に僕達は個人としての孤独に耐える必要がある。
それを作品として落とし込んだものがスパイファミリーであるように思うのだ。

はてな民のために球技の意味について政治的かつ実効的に語りたい

anond.hatelabo.jp

 

誰か教えてくれ。

「体育の授業に球技を入れることに何の価値があるのか」ってことを

 

私はけっこう運動してきた人間で、だいたいの球技は人並み以上にできたりするのだけど、なぜか体育嫌いの巣窟であるhatenaにいるのではてな民のために運動について語っていきたい。

学校の授業に球技を入れることの意味について増田は疑問を呈しているけれど、球技以外で子供がやって楽しい集団スポーツを上げるとなるとかなり難しいと思うぞ。

球を使わない集団スポーツって実はかなり少なかったりする。体育の授業で行える球技ではない集団スポーツってダンス、綱引き、騎馬戦、団体行動、縄跳びぐらいじゃないかな。柔道や空手のチーム戦もあるけど今のご時世ケガしたら保護者からクレームがくるので無理だと思う。設備があればボートや自転車も楽しいけれど費用がかかるので一般的ではない。

となると何も設備がなくても可能かつケガするリスクが低い集団競技は陸上となるのだけど、陸上を体育でやるのはあまり賛同できなかったりする。駅伝やリレーなど走ることを子供は特に嫌うからだ。楽しくないと体を動かすこと自体嫌いになってしまう。ランニングやトレーニングは一般的に楽しくない。

大人になってランニングしてる人も心拍数を上げ、汗をかくことによってストレスを発散するのが気持ちよかったりする。ジムに行く人は筋肉がついたり健康になるのが楽しいわけで、もともと元気な子供に走らせても目的意識も発散するストレスもないので単なる苦行になってしまう。子供の時にマラソン大会が楽しかった人はほとんどいなかったはずだ。

 

よって球技以外にできる集団スポーツがあまりないというのが結論なのだけど、消去法的に球技以外にないと言うのでは増田の疑問に半分しか答えていないので球技をやることの意味についても書いていきたい。

球技から学べることは主に3つあってそれが「偶然性」と「冗談関係」と「ノンバーバルコミュニケーション」だと思っている。

 

そもそもなぜ僕たちは「球」に魅了されるのかというと「どこに転がるかわからない偶然性」にある。たとえば最も偶然性を直接的に見て取れるのがゴルフで、ホールインワンなどを目撃すればその偶然に僕達は驚嘆し、その確率を高めてきたプレイヤーの努力を称賛する。

ゴルフよりもボールが大きいサッカーであっても狙ったところに飛ばすのは至難の業だ。素人はもちろんプロのプレイヤーだって例外ではない。ワールドカップなど世界最高峰の舞台でもフリーキックは依然として偶然に支配されている。試合結果の番狂わせもよほどのレベル差ではない場合、球技ではしょちゅう起こる。サッカーも野球もメジャースポーツと呼ばれるものはその偶然性ゆえにやることも見ることも面白いのである。

逆に球技以外のスポーツはそのほとんどが鍛錬によって勝敗が決することがほとんどとなっている。柔道や空手など身体的接触を伴う競技ではオリンピックを何連覇もする人が出てくるし、陸上や水泳でも一番速いタイムを持つ人が勝利するのが常である。そこに偶然性はほとんどない。あっても当日のコンディションなどに限られている。(ゆえに精神的には極めて過酷であると言える)

球技のようにたまたま良いところにボールが転がった結果勝敗が決することはない。

「どこにボールが転がるか究極的にはわからないということ」

それが球技から学べることのひとつではあると思う。もちろん必死に走らなければゴールをあげられる確率はゼロに等しいけれど体育の授業レベルであればヒーローになれる確率は誰の手にもある。

偶然をつかむために必死に走るのは楽しいということ。それを教えることは授業として意味があることではないだろうかと個人的には思うのである。

余談だけどプロ野球より甲子園のほうが見てて面白かったりするのはこの偶然性ゆえだと思っているし、昨今話題の親ガチャのような必然性の議論にたいしては球技によって得られる偶然性がその耐性をつけるのに一役買うことができるのではないかと思っている。一度きりの人生、フィールドにたっている限りいつボールが転がってくるかわからない。偶然があると思えることがつまり希望だったりするのだ。現実には決勝トーナメントに出場するチームがいつも同じであろうとも、である。

 

次に

偶然性から派生して、球技を競技ではなく体育として見た場合、それを集団で行う意味は関係性の構築にあると考えられる。よく言われることだけど一緒に体を動かすと仲良くなるのは間違いない。大人でも子供でも同じことで、特に球技ではその関係性が構築しやすい。

それは上述した偶然性ともリンクしていることだけど、球技が偶然に支配されてるとは言い換えればミスをするということだ。そのミスは「笑い」になるという効果がある。よく人が失敗することは面白いとお笑い談義で言われることであるけれどそれは一定程度事実だと感じている。大人であっても他者の普通は見せないようなポンコツ具合を発見したらそれを笑いに昇華し、そのミスを揶揄しあえるような関係になればコミュニケーションを円滑にし、良好な関係を築く手立てとなる。他者の意外な一面が自他の境界を溶けさせることで仲良くなるのは子供だって例外ではない。

たとえば普段はなんでもできる優秀な子供が体育の授業でサッカーしていた時に空振りして転んだりすれば、その子に近づきがたかった他の子供はそれをキッカケに仲良くなることができるかもしれない。つまりその空振りが関係性を構築するための冗談として機能することが期待できるのである。その冗談、ミス、ポンコツを創出するのに球技という偶然性の高い競技は恰好の材料なのである。

もちろんそのミスが冗談ではなくなり、いじめなどに発展しかねない点には注意しなければならないものの、コミュニケーションをとるためのキッカケとして体育でのミスはその軽さゆえちょうど良いものだと言える。コミュニケーション発達の機会としてこれ以上適切なものは少々考えずらいほどだ。

ゆえに体育で球技を行うことは「子供に適切なミスをさせ、冗談関係を構築させるのに適当な授業」だと言える。

書いてて思ったけど冗談関係なんてそもそも必要ない、それはハラスメントだというのが昨今の風潮なので以上のような話は万象一切灰燼と為しそうではある(わかる人にはわかる表現)

しかし大人の社会がどうであれ子供に機会を与えるというのが教育だと思っているので、その機会を取り上げるべきではないであろう。取り上げるのであればメリットも勘案してからにしたほうが良い。

 

 

最後に

ノンバーバルコミュニケーションについて書いていきたいのだけど

まず前提として僕達の社会は近年急速にデジタル化して、SNSも一般に普及するようになった結果、バーバルコミュニケーション(言語コミュニケーション)ばかりを注視するようになったことを確認したい。誹謗中傷やネットリテラシーなどの問題が顕在化し、子供の間でもLINEいじめなどが問題視されるようになった。そして「言葉の使い方」がことさら重要なものに変化しつつある。

しかし上述したようにハラスメント問題も同時に進行し、ノンバーバルコミュニケーションも問題になっている。

ようするに現実とSNS問わず言語非言語の両面でコミュニケーションがピーキーになっているのだけど、バーバルコミュニケーションに比べノンバーバルコミュニケーションはあまり教育されていないように感じられるのだ。日本人は欧米人に比べジェスチャーなども苦手だとされているけれど、他者と連動して体を動かすということは子供に限らず日本人全体の課題のひとつにあげられるのではないだろうか。

ノンバーバルコミュニケーションは時に言葉以上に重要なもので、たとえば英語を話せなくともジェスチャーひとつでコミュニケーションを取れたりすることもあるし、日本人同士でも上辺の言葉よりも身体的な表現でコミュニケーション強者になっている人もいたりする。

その問題を解消するのに球技が役にたつかはわからないものの、他者と連動するためにコミュニケーションを取り体を動かすことは無駄にはならないはずである。サインプレーなどとは言わないまでも単純に誰がどこにいて、こっちを向いてるからボールが欲しいのかなど「察する」ことについては学ぶことができるのではないだろうか。

 

結論としては

とりあえずフィールドに立っていればボールが転がってくる可能性があって、タイムアップまでになんとかしないといけなくて、敵味方入り混じっているという「感覚」は身体性が希薄になりつつある社会で、政治的・個人的問わず大事なものになっていると思わないでもないのであった。