メロンダウト

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スパイファミリーの感想~結果論としての家族~

スパイファミリーを見ている。アーニャがかわいい。ピンクの髪の幼女はなぜあんなにかわいいのか。
それはともかくスパイファミリーは様々な論点を含む作品だと思うのでそのあたりについて書いていきたい。
 
スパイファミリーは主人公であるロイドがとあるミッションのため、仮初めの家族をつくる物語となっている。
スパイを生業とするロイド、超能力者のアーニャ、殺し屋のヨル。みなが各々の利益のために疑似的な家族をつくる。家族をつくる動機は利害関係であり、愛情ではない。今風に言えば契約結婚が近いのかもしれない。しかし家族をつくるキッカケがどうであれ、一緒に生活するうちに愛情が芽生えてきて徐々に家族の形になっていく。最初はただお互いの目的のために利用するに過ぎなかった関係も、物語に巻き込まれ、同じ時を過ごすうちに結果的に家族になっていく。
こうした結果論、愛情の後天性は現代において重要なものになりつつあるのではないだろうか。そのような感想を持った。
 
 
家族と切っても切り離せないのが恋愛ではあるけれど、恋愛ではしばしば運命の人という言い回しが使われることがある。
自由恋愛では様々な恋愛を経験し、自分に合った人を見つけることが理想的と言えるけれど、しかしそんな都合よく運命の人に巡り合うことはほとんどない。ある種のタイミングやきっかけで時を同じくして、その結果一緒にいることを選択するようになるというのが多くの家族の形ではないだろうか。その点で運命の人もまた結果論に過ぎなかったりするのだろう。運命の人に出会うのではなく、運命の人になっていくとでも言えば良いのか。スパイファミリーのように利害関係が始まりでも、それが運命めいたものに変化することで家族を織り成していくのが恋愛の一側面であることは間違いないように思う。ようするに運命とは後天的産物であるのだ。
 
しかしながら運命の人という言葉は事前のものとして使われがちでもある。白馬の王子様や幸せの赤い糸などが典型的かもしれない。けれど運命は後天的に培われるものであるため、そこに錯誤が生じることになる。白馬の王子様のような形で運命を考え出すと無限の遡及が始まり、恋愛が合目的性に囚われてしまう。
マッチングという現代の恋愛でよく使われる観念も極論すれば運命という価値観に過ぎないのだろう。マッチングしたいとは運命的出会いがしたいと言うのと同義であるが、しかしながら運命は本来後天的に養われるものであるため、そこにすれ違いが生じ、皆が事前の運命に閉じられているというのがマッチングアプリなどのの実情ではないだろうか。
 
そしてそれはおそらく結婚している人も例外ではない。近年離婚率が上昇傾向にあることも運命や条件といった価値観ゆえと考えることもできる。結婚しても運命の人かどうかという視座から解放されるわけではない。むしろ生活を共にしているからこそ、運命の人かどうかという指標は大きなリアリティーを持つようになるのかもしれない。
機会に恵まれて結婚した人も運命を織り成す段階でつまづくことがあるし、恋愛を始める段階でも運命の人という条件付けはその機会を逸する呪いとなることがある。つまるところ万人にとって運命は相応のリアリティーを持つ概念だと言える。
 
したがって現代では運命という言葉をいかに解体するかが重要になりつつある。
そしてその問いを解決するヒントになるのがスパイファミリーであるのだ。
 
スパイファミリーにおける家族は上述したように契約上のものであり、仮初めに過ぎない。しかしながら同時に実際の家族以上に家族らしく、その関係性は強固なものに見える。
「家族ではないが、より家族である」
それが本作の大きな特徴なのだ。
 
なぜこのような状況を見て取れるのかを考えるに、三人が三人とも価値観の上で自立しているためではないだろうか。
たとえば、娘のアーニャは人の心を読める超能力者であるため、父親のロイドが目的のために自身を利用しているに過ぎないことを知っている。ロイドはアーニャにたいしてたびたび嘘をつくのであるが、アーニャはそのすべてを見通し、それでもなお「それでいい」としてロイドと共に生活している。それは作中でアーニャが孤児として里親のもとを転々としてきた経験からくるものだと描写されている。ようするにアーニャは幼年にありながら生存のため思想的に自立し、自他の境界をはっきり線引きするという術を身に着けているのである。そしてそのような態度がむしろ物語を紡いでいくための礎となり、その関係性は後天的に運命めいたものに変化していくことになる。
アーニャにとって父や母の目的はどうでもいいという一見すると歪にも見える態度がむしろ家族の絆を強固にしていくというのは、ことあるごとに自由や運命と言い出す僕らにとって参考になる振る舞いなのではないだろうか。
 
こうした態度でいるのはアーニャだけなく、父であるロイドと母であるヨルも同じである。父はスパイとして自立し、ヨルは殺し屋として自立している。三人がそれぞれに自立し、三人それぞれが違う目的を持ち、かつお互いの目的を線引きすることでむしろ健全な家族を形成していく。一見すると歪ではあるがサスティナブルな関係がそこには見て取れる。そしてその関係性ゆえに物語を紡ぐことが可能になり、後天的に愛情が付与され、運命となる。それがスパイファミリーで描写されている「家族以上の家族の形」なのである。
 
 
蛇足ではあるけれど
このような自立的個人の関係で思い出されるのがエーリッヒ・フロムの『愛するということ』だった。
フロムは「人が恋愛するには孤独に耐える必要がある」と書いていた。孤独に耐えられない個人は依存先を求め、遅かれ早かれ関係性を歪めて壊してしまうという。
それは現実を見渡してみてもよくあることだ。恋愛でも人間関係でも壊れてしまう時はいつも同じだったりする。僕達は相手に何かを求め、自他の境界を踏み越えて依存し始めた時に関係性が続けられないような事態に陥る。そのような事態を完全に避けることは不可能だと思うけれど、それでも人は孤独だという前提があれば物語を紡げる余地を残し続けることができる。おそらくはそのような胆力によって恋愛が恋愛として、あるいは関係が関係として成立している部分があるのではないだろうか。
男と女と子供という本来まったく違う人間同士が関係を続けていくというのは、よくよく考えてみれば極めて難しいことなのかもしれない。
そうした家族の現場にあってはお互いの差異を認めるのと同じかそれ以上に僕達は個人としての孤独に耐える必要がある。
それを作品として落とし込んだものがスパイファミリーであるように思うのだ。