メロンダウト

メロンについて考えるよ

ストレスという言葉を使うのをやめないか?

「ストレス」

 

これは何もストレスをないがしろにしてみんなノーテンキに生きようというわけではなく、ストレスという言葉がただ単純に形而上的に、文字の造形的になにかなんとも扱いように困る印象をうけるんだよ 

外来語をカタカナにして日本語として使用されている言葉はたくさんあるけどどれも単語としての意味は通じるもののなにかリアリティー、現実感に欠ける

  

今日は先週の金曜日にアジェンダしたカンファレンスでコンプライアンスに関するコンセンサスにコミットしたけどどうもこのカンパニーのイシューはアセットとコンバージョンでありコンプライアンスよりももっとドラスティックにバジェットを使うことにコミットするほうがプライオリティが高くベターなんじゃないかな

 

なんて言われたら単語の意味それ自体は知っているのだけどもう「おまえはルー大芝か」としか反応できないよね

僕は英語もしゃべれるのだけど言葉っていうのはそのまま思考を表出するんだけどカタカナ語は英語を修得した人間ですら肌感覚にフィットしないというか身体性を伴っていないという感覚があるんだよ

発している側も聞いている側もカタカナ語が発せられた時に空中に浮かんでいるシャボン玉を眺めているような感覚に陥ってしまうわけ

そわそわしている時に地に足がついていないのと同じように言葉をのみこめない

  

ストレスっていう言葉ももう何十年も使われてきてほぼ常用語として完全に定着しているけどストレスっていう言葉をもう一度、俯瞰して見つめてみると「いったい何だこの言葉は?」と言葉の使用感覚と意味がマッチしないんだよね 

言葉の意味それ自体と違って形も直線的でちょっとおしゃれだしストレスっていう紳士服のブランドなんかあってもなんか悪くないなと思えたり

 

 

なんというかこれはつまり言霊の話なんだよ

意味は同一でも受ける印象が違う言葉っていうのがあってたとえば愛とloveだとloveのほうがポップでスタイリッシュで言いやすい感覚があり愛とかいうと重量感があって熱情に近い響きを感じる

 

同じ日本語でも絶望と失望はほぼまったく一緒の意味だけど僕たちは絶望のほうにより凄惨な印象を持つようになっている 

ストレスは現代社会では超重要なキーワードで誰もが何かしらのストレスと必ず対峙するのだけどだからこそストレスという言葉の持つ印象、言霊、肌感覚、飲み込みやすさを再考すればどうにも扱いにくさを感じるしストレスという言葉は広辞苑から削除したほうが良い

 

かわりに日本の古き良き言葉である「ご心労」という言葉を定着させるべきだ

ご心労と聞くと静謐でどこか慈愛を持って言葉それ自体ともご心労の原因になっている事物にも丁寧に対処できるように気になってくる

「新入社員がストレスでダウンしました」と聞くと冷たく客観的な言い回しに聞こえるが「新入社員はご心労がたたり臥せっておられます」と言えば同情や哀れみを含んだ暖かい言葉に聞こえてくる 

日本人の精神性に即しているのはストレスではなく間違いなくご心労のほうだと確信している

だからストレスという言葉を使うのをやめにしないか?