メロンダウト

メロンについて考えるよ

クリエイティブ労働の無限性と家族、労働観その条件および環境について

ひさしぶりにブログ書くよ。

 

クリエイティビティーの弊害

クリエイティブであることはほとんど無手で称賛される。意識高い系の理想像のようなものであって姿勢としては正しいものなのだろう。しかしあえてクリエイティブがもたらす害悪について言及するとすれば「無限」であるということが言えると思う。創造は無限に抽象的であるがゆえに着地する具体性が定まりきらない。そしてクリエイティブを仕事に還元するのならば労働の無限性という論理が成立する。労働の無限性。これがクリエイティブの弊害、である。

電通の労働時間が最近話題になっているが電通やテレビ局などの職種がなぜ長時間労働になりやすいのかといえばクリエイティブだからの一点に尽きる。良い物をつくろうというスローガンが問題視されることは少ない。

しかしスローガンそのものを程度問題として問題視すべきだと僕は思う。クリエイティブな仕事は完璧ではないが十全な出来で労働を完結させる管理職が望まれている。

けれど肝心の管理職になる人間がよいものをつくった実績(クリエイティビティー)によって出世して部下を管理する。そしてそのクリエイティビティーの高さゆえに出来る上司が出来ない部下を殺していく。

しかしその上司も超クリエイティブな人間から見れば非クリエイティブであってそうして全員が無限のクリエイティブ競争にさらされることになる。

 

これが現代の労働を無限に拡張可能にして人を疲れさせる。

 

 

日本企業の家族性の崩壊

昭和の高度経済成長期においては就職といえば終身雇用が当たり前だったと聞く。これは当時の政治経済の条件を考えてもかなり異常に見える。

企業に骨をうずめて働くのは共産主義的であって資本主義と民主主義で成立している日本では現在の流動性の高い働き方のほうがふさわしいように思う。なぜ終身雇用が文化として存在したのだろうか?

 

思うに日本の終身雇用文化は宗教だったのではなかろうか?

コツコツやる人という人種がいた。今やもうほとんど聞かなくなった。コツコツはクリエイティブではない。価値を創出しない人間はクリエイティブ競争の現代において不要の存在となった。コツコツやるだけであれば中国に工場をつくったほうが良い。

また仕事が早いわけでもない、コツコツやる人でもない、ムードメーカーでもないが「繋ぐだけ人」がいた。なにもできないがしかしそこにいるだけで誰かと誰かをつないだりその場を和ませる緩衝材のような人が存在した。学校や友人関係ではまだ存在する。具体的な能力ではなくその場の空気を構築する役割を帯びた人間。

それが企業内にも僕は必要だと思うがいなくなってきているように見える(のは僕の観測範囲の問題かもしれないが)

昭和の終身雇用の時代には上記の人達がいたのではないだろうか?能力ではなく役目のようなものがある人物。

それは企業がビジネス化し成果をあげるための集団となった現在ではもはや必要なくなった。

 

上記の人達が存在する昭和の日本企業はおそらくは営利企業というよりも家族に近い集団だったのではと推測できる。つまり就職と聞くと現在では働いて能力や時間におうじてお金をもらうという属性が強いが、昭和期の就職は企業という家に入るものだったのかもしれない。だから家の人間関係を円滑にするための上記の人種が必要だった。

企業を家族とみなす稀有な国が日本特有の企業風土というやつだったのだ。しかし今ではもう労働力、クリエイティブ力、コミュニケーション能力などなど能力主義成果主義となり家族としての企業は存在しえなくなった。

 

つまり日本の企業の家族性は崩壊し働くためだけの場所になった。市場のみならず働き方自体が外資化しているといったほうがしっくりくるかもしれない。

 

働くためだけの場所と聞くと個人的にはドライで束縛されない環境で良い印象も持つが同時に能力競争も起こるようになった。いやもともと競争はあったのだが激化したと言ったほうがいい。だから「クリエイティブ」なんて言葉が21世紀になり途端に重要視されるようになってきたように思う。

 

企業が家族性をなくしクリエイティブ競争が生まれクリエイティブという抽象さは無限の競争を余儀なくされる。たぶんそれがいま日本に起きている労働環境とその条件なんだろうなと思う。

 

企業が家族性をなくしたように完全取引化される世界はおそらく友人関係、恋愛、結婚、または家族そのものにまで浸食しているのではなかろうか・・・と展開しようと思ったけど後日にします。

運動瞑想野菜自由憲法

合成の誤謬は経済学の言葉であるが哲学的な分野にも食い込んでくる言葉だろうなとタバコに関するニュースを見て思った。

 

経済学での誤謬はマクロとミクロの話で、貯金はミクロ経済ではしたほうがいいがマクロ経済にとってはしないほうがいいとされている。

この話を死についてうつしかえれば人間はマクロでは生産活動が不可能になった時点でさっさと死んだほうがいい。こんなことを政治家が言ったら恐ろしいほど炎上するだろう。とんでもない暴言である。

炎上するが死んだほうがいいというのはひとつ、真実でもある。しかし死について語ることはなぜか許されていない。

個人金融資産の8割は60歳以上が持っていて日本で経済をもう一度活性化しようと思ったらここに切り込まざるを得ない。消費活動も老年によって停滞して、余生を過ごせるだけのお金を投資に向けるインセンティブがあるわけもない。老人から富を移転させようと思ったら相続税しかいまのところない。

しかしここに切り込むのは絶対にタブーとされている。日本ではさっさと死ぬことの美徳が語られることはない。あるいは世界中でそうである。

 

そもそもなぜさっさと死んではいけないのだろうか?最近も日本健幸都市連合や健康増進法なるものもできている。ますます健康志向で長生きするのが良いと周知している。

しかし上述したようにマクロで見れば老人になって消費せずに預貯金で生きることは経済的に見れば「悪」である。もちろん経済など人間の一側面にすぎない。だからみんなさっさと死のうなんて言うつもりは毛頭ない。

ないが国が必要以上に健康を促すことには違和感を覚える。健康は個々人が個々人の自由意志によって追求するものである。憲法13条に幸福追求権が明記されている。個々人の行動は公共の福祉に反しない限りにおいては制限しえない。

 

憲法13条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

 

当たり前であるが、国が経済を循環させるために老人にさっさと死ねとキャンペーンするのは憲法で禁じられている。これは当然であるが、では国が国民にたいして健康を要求するのはどうなのだろうか?

個人の幸福追求の方法には運動などポジティブな方法がある一方で、ネガティブな方法も幸福追求の方法として数えることができる。堕落しタバコなど公共の福祉に反しない環境で吸い酒を飲みまくりさっさと死んだ人間を一般的には、断定的に不幸な人間と決めつける。

しかしそうして堕落し、ドーパミンに耽溺しながら生きる彼ら彼女らは本当に不幸なのだろうか?はたから見れば不幸な人に見えても本人は幸福だと思っているかもしれない。

結論としてはわからない。わからないから個人が個人の人生をどうデザインするかは当人の自由に選択できるという憲法が存在する。

 

80歳になってまでいきたくない人だっている。40代から常に健康を意識して長生きするが死ぬ間際に70歳から80歳までの人生を振り返ると生産活動が終了し、無意味に食にありつくだけの日に罪悪感を抱き、死ぬ間際にもっと酒でも飲んで遊べば良かったと後悔するかもしれない。もちろん長生きして良いことだってたくさんあるかもしれない。ありとあらゆる可能性がある。

 

不確定な未来にたいしてああだこうだ言ってもわからない。わからないからこそだから「自由」が大切なんだと思う。

健康など定型化した与えられた価値観により未来で幸福になろうと思ってなれなかった場合には、気持ちのぶつけどころが存在しない。自由意志によって選んだ未来であれば例え不幸になっても自分で選んだ生き方なんだからと気持ちを消化できるかもしれない。つまり運動瞑想野菜に代表されるようにみな一様に健康が大事なんだと言う。

もちろん大事である。大事であるが「自由意志の上に立たない健康」は破綻する可能性が高いと僕は思う。

例えばまじめにコツコツやってきたサラリーマンが自由意志を持たないまま社会的立場だけを目的として働き、突然リストラされたら人生の終わりだと感じるようなものだ。

 

同じように健康だけを目的とした運動瞑想野菜は病気になったときの後悔の度合いも増幅させる。健康を目指し無理やり運動して「病気になる確率を下げる」のと「病気になったときの後悔の量」はトレードオフでしかない。

つまり無理やり運動して野菜を食べても健康にはなれても幸福にはなれないという解が出る。じゃあ幸福になるためにはどうしたらいいのだろうか?

もうすでに書いたがなによりも大事なのが「自由」だ。自由。幼子のごとき、自由だ。

自由意志により健康を目指すのであれば病気になったときの後悔の量を軽減することができるのでトレードオフではなくなる。

具体的には運動であれば仲間と笑いながらフットサルなどする。野菜を食べるのであれば美味しく盛り付け最高のドレッシングでいただく。瞑想は・・・よくわからないので割愛しよう。

 

国が健康を布教する気持ち悪さを書こうと思ったのにいつのまにか自由意志を説く憲法13条のすばらしさと運動瞑想野菜について書いていた。健康増進法た後日かくかもしれない。

脱線しまくってしまったがかまわない。ブログも健康も自由こそが大切なのだ。

フェミニズムの反言的矛盾

言葉には言質があり反言がある。

フェミニズムは大事な運動であると思っている一方で男女同権は不可能性が高すぎるので現実的なレベルでの興味はない。運動自体は存在するべきだと思っているし境界線としての「役目」みたいなものがあるのだと思う。だから僕はフェミニストではないけれどもフェミニズム支持者である。

しかし時に目にするフェミニストの理想主義的言論にはすこしクラクラする。

 

具体的な話で言えば女性の権利向上の中に風俗嬢やAV女優の権利を向上させようとする運動がある。フェミニストの中で最も重要な性に関することなのでここを考えればすこしその「不可能性」が見えてくるのではないだろうか・・・

職業選択の自由として風俗嬢になってもいい自由を主張する。権利をかかげ誰も蔑むことは許されない空気をつくろうとする。

風俗嬢やAV女優も多様性で包摂して「権利をかかげる権利」があると主張する。

 

しかしこの風俗嬢などの権利を主張する運動は2つの矛盾を抱えているので行き詰らざるをえないと思う。どういうことかというと1つは、フェミニストのように冷静な視点で風俗嬢の権利を主張するのは客観的視点においては可能だが主観的視点においては不可能という点が矛盾している。

 

客観的に見れば、僕も女性の権利は大事だと考えAV女優に権利を与えるべきだと思っている。しかしそれは根本に他人がどうしようが自分の精神にいかなる傷も禍根も与えないからである。

いっぽうで主観的に見れば、恋人等が風俗嬢であることを僕は耐えられるようにはできていない。許しはするかもしれないが頭を抱え込むことになることは間違いない。

 

ここで

全人類にたいして恋人のごとく接し、決して風俗嬢を許しはしない人間、と恋人にたいしてさえ風俗嬢になる自由を与え権利を主張する人間。どちらが優しい人間なのだろうか・・・?僕は客観的思想によってしか決断しない人間はむしろ卑怯な人間だと捉えている。一方で前者も支持しえない。人の言葉や行動は現実的に矛盾してこそ信用できる。

 

2つめは反言法によって矛盾する。例えばある人が次のようなことをいう。

「AVに出演していっぱいセックスしてるなんてつくづく幸せな人生だね。」

皮肉たっぷりだ。フェミニズムがつくる世界はこの言葉に対して「怒ることができない世界」である。この言葉を発した人間の精神性に幻滅するというは可能であるが、この言葉にたいして怒ることはできない。

犬儒してシニカルに沈黙し思想的にマウンティングし冷笑することはできるが、真向から怒ることはフェミニズムの思想に反することになる。風俗で働くことは幸せなことととらえる自由があると考えているからだ。

 

個人的なフェミニズムに関する所見を述べれば理想主義的すぎて落としどころを探る必要があるように思う。男性と女性の生物的条件が絶対に違い、ここを変えることはできないので折り合いやっていくしかないように思う。

昭和的家族構成のサラリーマンと主婦もあるいは社会的条件との折り合いであの形がベストだったのかもしれない。あるいは中国の後宮文化も当時戦争の絶えない時代には折り合いがついていたのかもしれない。男性は戦争に駆り出され死に、女性はその男性の悲惨さの等価交換として権利がほとんどなかったのかもしれない。つまり「戦争に行って死ぬぐらいなら権利を求めるな」と。

 

今は戦争もないし男性しかできないような仕事もそれほど多くない。だから女性の権利を歴史上で最も主張可能な時代だ。

しかしそれでも平等とはいかないよ。だから折り合い許しあえることを精査し耐えることが重要なのではないだろうか。全部許すなんてことは理想主義的すぎるのだ。

私達は複雑さに耐えて生きていかなければならない。なんてどこかで聞いた言葉で・・・了です。

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