最近、不倫というコンテンツはインターネットをはじめとするメディアでかなり求心力が高いコンテンツになっていること自体が興味深いのですこし言及していきます。
ベッキーにしろマギーにしろ渡辺兼にしろ有名人が不倫するとすぐに炎上する。伊藤氏にかぎった話でもなく一般社会でもどこどこの誰それが不倫しているというとホットな話題になりやすい。といまこうして書いている今日にも今井恵理子参議院議員の不倫報道があった。
他人と他人がセックスしているありふれた事態に群がるのにはいくつか理由があると思うので羅列して説明していきたい
・倫理
・当時者性
・破滅願望
倫理
不倫という字面からもわかるように不倫は倫理にもとると書いてふりんと読む。倫理や正義はもとをただせば哲学である。哲学は難しくとらえられがちだけども哲学や倫理を議論すること自体が楽しい側面がどっかあるのではないかと思う。
というのも哲学自体が実務的に役立つ「機会」はほとんどなく哲学者で経済的に成功した人物もほとんどいないのにこれだけの歴史があるのは哲学や倫理が無視できない人の本質そのものだからと考えられる。意識的か無意識的かの違いはあるにせよ100%の確率で人間は倫理「的」であること、その条件をもって人間であることの根拠となる。動物は他人の雌などということをいちいち考えたりしないのです。
その前提をふまえながら不倫について考える。するとまず不倫はほかの哲学的議論と違って万人にとって容易に解釈可能な哲学であると言える。性欲と理性の相克は誰しもが抱える問題だから思考可能な倫理として、なんというか汎用性の高い命題だと捉えることができる。
一般に不倫炎上に関しては暇人による嫉妬や妬みなどの側面が大きいといわれるが最も大きい炎上理由がこの汎用性の高さ、つまり言及のしやすさだと言うことができる。
原理的な人間の条件(人間は誰もが倫理について考えざるをえないこと)+言及のしやすさによって不倫は哲学的コンテンツとして最高に汎用性が高い
当事者性
すこし前に上西小百合議員がレッズファンに向けて「他人の人生に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」と発言して炎上した。
サッカーの応援しているだけのくせに、なんかやった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ。
— うえにし小百合(上西小百合) (@uenishi_sayuri) 2017年7月16日
このツイート自体は反射で書かれたものなのでしょうが「他人の人生に自分の人生を乗っけるな」は僕はけっこうクリティカルなことを言っているのではないかと思ってしまいました。
同じような論旨で自分も記事を書いたことがあるので貼っておきます。
AKBは夢の代議制なんだろうなあと総選挙を見て考えた - メロンダウト
この批判と不倫に関してをあわせて考える。すると自分の人生のごとく他人の倫理に関して言及することが不倫が炎上する原因のひとつではないかと考えることができる。
不倫は基本的にはいけないことであっておそらく少なくない不倫当事者達も罪悪感や自責の念がある。不倫を懺悔している伊藤氏の文章を読んでも後悔していることだけははっきりと伝わります。
もちろんいろんな人間関係の成り行きだったり不可逆的な文脈によって不倫になったりする。いろいろ事情はあるのでしょうけどまぁ不倫がいけないことは常識だと言えるでしょう。
しかし不倫がニュースになるとその文脈を無視した他人が不倫当事者の人生に乗っかって倫理について語る。これは社会的に認められているサッカークラブとファンによるものだったら許されることである。レッズのサポーターが自分ではできない選手のプレーを批判することは許される。あるいは政治家と国民の間でも批判は許される。
しかし不倫に関して言えばその批判関係は許されていない。自らの思考を発するネタとして扱い一般倫理として語ることはできるが、基本的には他人の人生に口を出すべきではないと言える
破滅願望
僕は不倫したことはないから不倫の悲劇についてはよくわからない。
しかしもっとメタな感情の話を結論から書いてしまえば人って悲劇とか破滅そのものを望む習性があるんじゃないかと感じることがある。
例えば会社を解雇されてこれから人生どうしようかと五反田の居酒屋でひとり酒を飲んで深夜一時になって帰っていたら星が異常に綺麗に見えたり。
中高生が親に激怒されて家の外に出されて暇だからと散歩している時に会う野良猫が異常にかわいく見えたり。
恋愛でもつり橋効果?理論?なんてあったりするけどあれもつり橋の危険さを恋愛のドキドキと錯覚するのではなく人って吊り橋自体を望む習性があると思うんだよね。
フロイトの本を読んでみた時も(ほとんど理解できなかったけど)「死の欲動」や「愛するものの死を願う」なんて言葉が出てくる。
音楽でもポップミュージック全盛時には異常に失恋の歌ばかり売れた。あれも失恋こそが恋愛の本質で幸福な恋愛を望むのと同じくらい失恋をも望む結果だと言える。
失恋や破滅のエクスタシーとでも言えばいいのかわからない。しかし危機に瀕して抱く感情を人は悲劇だけど望むのではないかと個人的にはほとんど確信している。
そして不倫はいうまでもなく破滅的である。全員が幸福になる方法はないし禍根や憎しみを残すことになるしどうしようもない悲劇のように見える。
しかし悲劇を望む習性が人間にあるとすれば不倫という悲劇にこそ人は嫉妬するのではと考えられる。
まとめると
人間は倫理について考えざるを得ないうえに、不倫は汎用性が高く、ニュースになると自分の倫理を他人の人生に乗っける人がいて、さらにセックスに嫉妬する以上に悲劇そのものに嫉妬する。
と考えてみたけどこの記事はまったく個人的な僕の倫理でしかないです。