シロクマ先生の論旨に関しては同意なのだがそれはリアルな現場においての話に限定されると感じる。
内容のないコミュニケーションはおもに対人間が前提とされているように読んでいて思った。
違和感を覚えたのは内容のないコミュニケーションをバカにしている人はなぜ内容のないコミュニケーションを馬鹿にする思考に至ったのかという点だった。
単純に思慮に欠ける人間だと断定してはき捨てれば簡単ですけどそうではないと僕は考えているんですよね。むしろ僕は内容のないコミュニケーションを取らないという立場はすごく理解できる。いっぽうで対人間に限定すれば内容のないコミュニケーションも大切だとも理解している。
コミュニケーションといっても対人間だけではなくてこうしてインターネットに書くことも映画を見たり小説を読んだり音楽を聴くのも広義のコミュニケーションと捉えられる。
僕達はスマホやPC、電車の中吊り広告、客引き、街頭テレビと常にコミュニケートしていてそれにより内容のないコミュニケーションを捨てる必要性を帯びているのではないかと思う。
これが内容のないコミュニケーションをバカにする、いやすべき理由のひとつではないかと。
次に考えられるのは内容のないコミュニケーションの源泉は寂しさでありその寂しさが消えているのではないかと思う。
実際の例でも内容のないコミュニケーションが最も見られる現場は学校だと経験上言える。学校が内容のないコミュニケーションであふれ返っている理由として考えられるのが強制力と寂しさだと考えられる。
義務教育で自立能力のない子供は学校しか居場所がなくなかば強制的にそのコミュニティーに属すことになるのでコミュニケーションせざるを得ない状況だと言えるので、内容のないコミュニケーションもよく見られる。
また子供は感情が豊かだし寂しさゆえに内容のないコミュニケーションによってそれを紛らわせていると考えられる。女子高生の流行語や省略語「マジでマジだねえ、ああ、マジマジだね」など(よく知らない笑)。
いっぽうで今の大人の社会は個人主義社会でみな適切な距離を取るようになったし昔のように意味のないコミュニティーが大人の世界にはあまり存在しない。
また寂しさの点でいえば大人のコミュニケーション世界は代替物によって寂しさなんか吹っ飛ばすことができる環境にあるように思う。
現代はインターネットによって情報が過大になってきてコミュニケーションがあふれ返っているので自分で意味のあるコミュニケーションを選んでコミュニケートすることが可能(たとえば今僕がシロクマさんの記事を選んで言及しているように)だからみなそうしているだけではないかと。
まとめると現代はコミュニケーションであふれ返っているので内容のないコミュニケーションを取捨選択する能力は絶対に必要でさびしさもなく内容のないコミュニケーションによりコミュニティーに依存する必要性もない。
その環境がコミュニケーションを捨てていい、捨てるべき、捨てなければいけない能力を人間に与え、その思想を対人間にまで適用している人がいると、あるいはそういうことなんだと思います。
結論を言えば内容のないコミュニケーションを馬鹿にする人は後天的にそうなっただけのことだと思うのです。
元来さびしくない人間なんていない
生まれてきて泣かない赤ちゃんなどいないのですから