メロンダウト

メロンについて考えるよ

ニャートさんのラジオと宮台真司氏の記事から自己責任とクズについて考える

はてなブログのニャートさんがラジオに出演するというので聴いてみました。ロスジェネの格差と実態、勝ち組が唱える自己責任論への批判がメインのテーマだった。

nyaaat.hatenablog.com

 

と同じ日に宮台真司さんの記事を読んだ。

originalnews.nico

 

いわゆる近代社会では難しくなった「聖域」の話をされている。損得を超えた隣人愛こそがすべての突破口になるという論。

 両者ともに同意するのだけどもうすこし考えてみたいと思った。

 

 

 

ロスジェネ世代の自己責任論と損得に奔走する近代人というのは資本主義による個人主義という点で明らかに同相である。

お二人が言う自己責任や損得ばかりに躍起になる人はクズだという批判は同意できるのだけど僕が個人的に思うのはクズがクズになる回路はどこにあるのだろうかということだった。つまりこれらは個人の病理なのか社会の病理なのかという話だが僕は社会の構造が「そうしてしか生きていけない」人を造っているのではないかと思う。

 

確信して言えることだけど資本の運動に身を任せ形式的な社会性を成功と捉え自己を固めると今の社会の環境では自己責任論者になりやすい。資本主義の元々の構造としてそういうバイアスが存在するのは間違いない。そこで人間が人間らしくいられる関係が家族だったり友人だったりの資本とは切り離された関係、つまり「本当の意味の他者」がいる聖域なのだけど、しかしいま家族すらもその社会性に縛られていたりする。おもてだっては表れてこない場合が多いけど兄弟同士でも社会階級の差によって優劣が暗黙的につけられることもある。

家族や友人、それらが重要なのは宮台さんの言った通りだ。しかし多くの人がそういう生き方を「したいにもかかわらずできない」ということにこそ注目すべきだと思う。

損得を超えて愛でつながり人間関係が超自然的に或る場所に所属して穏やかに呼吸して生きていきたいということ。そんなことはみんな知っていると思うんですよね。人間の生理的な希求として安全欲求があるけど安心できる場所は誰しもが求めている。だからおそらくはみんなそんなに頑健な資本主義者ではないはずだということは確信をもって言える。しかし資本主義的に生きなければいけない構造に人々は設定されていく運命にある。一生懸命働かなければ社会についていけないから一生懸命働くけど一生懸命っていうのは言い方を変えれば盲目とも言える。周りが見えなくなった時に目にうつっている目の前の損得をとりあえず手に取る、そういうことを繰り返しているうちに自己がどこにあるのかよくわからなくなる。

リストカットのように自傷行為としての損得の獲得がやめられなくなる。それを解除するのが友人や家族なのだけど家族をつくる関係の入り口にも社会的立場が関係してくる。家族をつくるためにさえ損得にはしらなければいけない。あるいは社会人になれば友人でさえ社会的、経済的立場からはじまることが多い。

 

つまりクズが損得を追うというのは僕は正しくないと思っていてこの世界では意志を持たないで自然に生きていると損得の獲得から解除される術を持ちようがないのですよね。因果関係ではなく相関関係によって袋小路になっている。クズはクズだから家庭を持てない、ゆえにクズのままだから損得に走るゆえにクズというのはこれは蔑視の対象ではなくむしろ悲劇とみるべきだと僕は思う。なぜなら僕自身そういうクズになる思考というのはものすごくよくわかるからだ。

もちろん個人の選択は無限にひろがっているので個人が行動を起こせばその人の世界は変えられるけれどそれはミクロの話でしかなくて社会全体の病理として厳然として「何かがいる」んですよね。

 

この話は自己責任を言う人の心理にも関係してくると思っている。自己責任論者はなぜ自己責任を説くのかというと家族も友人も仕事も成功もすべて損得が関係してくる世界(資本主義社会)ではすべての関係性は自己の達成物以上のものではないからだ。

他者とは本来、理解不能であって損得競争で獲得するものでもない。しかし資本主義社会では他者を競争によって獲得できるようにになった。家族も友人さえも。その意味において獲得した他者の存在は資本主義における自己努力と密接に結びついてしまったので他者と自己は切り離されていない関係となっている。

自分が努力すれば人は寄ってくる。金の切れ目が縁の切れ目ということが骨の髄まで染みついてしまった人が何を言うかといえば愛とはつまり努力であり他者とは自己である。ゆえにすべては自己責任だ。

資本主義という定量化された価値基準の世界においては価値が下がれば人は離れていくしあがれば人はついてくる。すべてだ。他者や家族さえも自分の努力によってひもづけられた世界において自己責任という言葉は非常に重く残酷だ。言葉としての残酷さではない。自己責任が支配する世界に生きてきてそれを話す人間の過去を考えるに残酷だ。

ゆえに自己責任は現実を鋭くとらえた言動にすら見えてくるのだ。

 

 

しかしもちろん資本主義の別の側面から言えば勝つ人がいれば負ける人もいる。負けている人からすれば自己責任という言葉はひどい言葉に聞こえることは間違いない。しかしこの世界が自己責任だということは僕は一定程度事実だと思っている。というか事実だから質が悪い。 

 

自己責任は生存バイアスというふうに語られがちだが僕はむしろ自己と社会的自己が同質化した資本主義社会における残酷で非情なリアリズムを吐露するため息のようにすら聞こえる。終。