メロンダウト

メロンについて考えるよ

あざなわさんの炎上とはてな村の権威のなさ

あざなわさんのブログ。ミッシェルが好きという記事を見てから見ているのだがずいぶん長いことはてなでブログを書かれている人だ。

はてなで長いことブログを書いている人でいうとフミコさん、wattoさん、fujiponさん、シロクマさんなどなどいる。はてなブログの権威性で言えば彼らが果たしてきた役割は大きい。承認欲求を語らせればシロクマ先生にかなう人はいないし、劣情を語らせればフミコさんにかなう人はいなく、優しさで言えばfujiponさんにかなう人はいなく、最強の普遍性を持つwattoさんにはかなわない。

 

いっぽうではてな村の花形と言ってもいい批評。造語で言えば手斧と言ったほうがいいかもしれないが、まったく不毛なイデオロギーの対立もはてな界隈ではよく見られる。先日もあざなわさんがけっこうわけのわからない批判をして炎上していた。内容についてはあえて言及しない。そんな気分になることもあるだろう。自分はこういう勘違いと言えるような歪みを投稿する時には増田に投稿するようにしている。だから僕のブログはあまり信じないほうがいい。僕は真に僕のことをブログに書いているわけではない。

 

僕のことはどうでもいいのだが、あざなわさんは長いことはてなでブログを書いていて認知度で言ってもはてなブログでは上位5%には入っている。そのブログがフルボッコと言えるほどブックマーカーによって炎上しているのを見て何とも言えない気持ちになってしまった。

つまりはてな村では「権威」がないのだろう。誰の言うことだから聞くとか誰の言うことだから気の迷いだと判断する。そういう信頼の積み重ねがない。信頼がないからそこで失言するような自由もまたない。

リアルな現場で言えば、例えば信頼している友人や上司が何か突拍子もないことを言ったとする。すると通常は気分が悪いのかなとか、勘違いしているのかなとか、何か嫌なことでもあったのかななど考える。過去の行動、発言で権威を確保されているので思慮が働く。それはありとあらゆる現場でそうなっていてそれが自由の基礎にある。

それがはてなにはない。あるいはあざなわさんのキャラクターもあるのかもしれないが良い記事をあげて賞賛された人でも悪文を投稿すればボロクソに非難を浴びる。その承認の積み重ねの無意味さには絶望せざるを得ないであろう。

 

承認欲求と一言に言うが承認の目的は何かと言えば単なる認められたいという欲求ではなく、認められた末に確保できる権威への依存欲求ということも言える。通常はそれが達成されると同時に安心も運んできてくれる。だからみな承認されたがる。鼻くそをほじくっても許される承認関係=許容関係にこそ実りがある。

 

 

しかしあざなわさんの炎上についたブコメなどを見ているとはてなでの許容関係の構築はほとんど完璧に絶望的という感想を持たざるを得なかった。良文は承認される。一方でそれが権威に変わることはない。針の穴に糸を通すかのごとく客観を常に気にする神経が要求される。あざなわさんのブログも過去記事などを見るに良識がある人に見える。

今回の炎上を見るに、そんな神経質で苦行に近いブログ執筆をつづけながらも権威を築けはしなかった。良文でなくなった瞬間に批判されボロクソに叩かれる。そんな承認関係にいったい何の意味があるのであろうか・・・

自分はあざなわさんに比べればはるかに泡沫な弱小ブロガーである。しかし将来的にブログで文章を蓄積した結果が今回の炎上で書き込まれたコメントであるのであれば絶望しかない。

良文は賞賛し、悪文は批判する。それはそれは冷静な判断である。しかし承認による権威の構築がそれほどにも意味のないものだとするのであればいったい誰がブログなど書くのであろうか。

アフィリエイトも批判し個人ブログには永久に権威が与えられない。今回の炎上で承認も吹けば飛ぶような代物でしかないことが証明された。

 

針の穴を通し続けるほどの神経を僕はとてもじゃないが持ち合わせていない。ブログにクソ文を投稿しても許されるだけの権威が欲しい。権威などというと傲慢のように見える。許しだ。許しがほしい。

おそらくその許しがなくなれば承認欲求により劣情を吐露する古き良きインターネットはなくなるしかない。そしてそうなった時、残るのははてな村民の大嫌いなアフィリエイトか、炎上をものともしないはあちゅう的なネオリベブロガーだけとなるだろう。あるいは互助会か。商業性しか残らなくなる。ブックマーカーによって文化的な個人ブログは絶滅していく。

勘案してほしい。同じ日本人とて書いている環境も違えば虫の居所が悪いだけの時だってある。

クソ文を投稿した時にわかってくれなくてもかまわない。しかし「ああ、荒れてんな、勘違いしてんな」ぐらいの余白は欲しい。そうでなければ誰がどうしてブログなど書きつづけるのであろうか・・・

George

「信者」という言葉が持つ如何ともしがたい気持ち悪さはなんなのだろう

清水富美加さんが出家なさったようですけど信者信者信者と信者であふれてますね。宗教の自由なので個人の信仰に横から口を出すことは差し控えたいところですけど、コスモ石油のCMの清水さんは大変かわいいので差し止めにしないでいただきたいものです。

www.youtube.com

かわいい

コ・コ・ロも満タンに、コスモ石油
レブロでココロがガス欠になってしまった清水さんについてと「信者」という言葉の気持ち悪さについて書いていきます。
 
自分だけかもしれないが日本語の「信者」という言葉がかなり嫌いなんですよね。どこか嘲笑とか差別的なニュアンスが込められているような感じを受けます。うまく説明できないし宗教差別など微塵もないのですけど特定の宗教を信じている人を信者と呼ぶのが気持ち悪く感じてしまう。
 
日本で主だった宗教だと仏教キリスト教ですけど仏教仏教徒と呼びますしキリスト教でもキリスト教徒、あるいはクリスチャンと呼ぶことが多い。信という言葉を使うにしても信徒と呼ぶ機会が多いように思います。この「徒」と「者」の違いもまたなんなのでしょうかね・・・
 
理由を勝手に推測するに「信者」は宗教のようなシリアスな話題ではなくもっとカジュアルな侮蔑語として使われるのを目にしたり聞いたりすることがあるからかもしれません。
「ワンピース信者」とか「AKB信者」のように理解できない信仰を持つ者に対する外からの言葉として見ることが多いので良い印象を受けないのかもしれない。あるいはまったくの僕の個人的な感覚かいずれかです。
 
宗教上の「信じる」という行為は完全に主観ですね。恋人や友人のような関係における「信じる」は相互関係であって他者とをつなぐ行為であるかぎり外から見てもある程度理解できる感情に見えます。
しかし宗教上の信じるは神と自分の関係でそこに他者が(直接的に)存在しない(がゆえに)絶対的な関係性の中で完結できる(がゆえに)狂信者もまた生まれたりする。
もちろん仏教のように脱宗教という観念がある宗教や唯一神ではない宗教、教典の解釈によりその関係性も違ってくるものもあるでしょう。しかし神と自己の関係においては、他者から発せられる「信者」という言葉は何の意味もなさないのでしょう。
 
おそらく日本には神を信じるという意味での「信じる文化」がないのだと思う。日本では神は感謝するもので英語のGod bless youのように神に祝福を受けるような文化がない。
神社でおみくじを引くような意味での神はいますけどそれは自己と切り離された意味での神であって大凶を引こうがなんとかするのは自分であって厄年でもなんとかするのはあくまで自分でしかない。神にお祈りする際にも明確な神のイメージがあるわけではなくどこか自己暗示の意味合いが強いように思います。つまり無宗教の日本人が抱く神はお告げをする役割として存在するのでしょう。無宗教の日本人にとっては。
 
キリスト教イスラム教の神はもっと具体的で相対的ではないでしょうか。距離が近い。メッカにお祈りし特定の食材を食べずラマダンを行うなどの教義を守れば救いがあると信じています。日本にはない「信じる」の形がある。
信じる者は救われる意味での信教があるので信じるという行為の意味合いが(日本人全体を定義しているのではなく僕が神社でするそれより)はるかに重いものなのでしょう。つまり宗教徒が抱く神は行為の見返りとして実在する。
 
日本語のこの信者という言葉が持つ気持ち悪さはなんなのだろうかと考えた時に信教の絵空事感というか手触りのなさのようなものがあり、それが軽薄な形での「信者」を生み出していると推測できます。
 
それはそうと清水さんの引退はけっこう残念です。あれだけの女優さんですから一連のニュースで清水さんに救済されるのであれば幸福の科学に入信するのも悪くないなと考える人がけっこういそうですね。僕は無宗教ですけど出家して救済業に従事する清水さんに救済されるのは良いなあ、なんて今回のニュースを見て素朴に思いました。救済されてえよ、そりゃ、人間だもの。
 
清水さん自身が持つ魅力はもちろんですけど、同時にツイッターなどでつぶやかれている「労働環境からの解脱」と「大人の怖さ」と「性的コンテンツの氾濫」と宗教の広告塔としてはこれ以上ないほどにいろんなものが混ぜ込まれてます。

 

 

レブロのブラックさとの対比でイメージされる白く聖なる宗教とまでいくと言いすぎですけど、何も知らない人はそれくらいカウンターとして良いイメージを持つかもしれません。
何を信じようがまったくもって自由なのですが清水さんに引きずられて安易に入信するのはやめたほうがいいとは思います。カルトであれ神教であれ仏教であれ心を預けるのはかなりセンシティブなものになることは間違いないでしょう。まして大川隆法さんのように実際に生きている人間を信仰する宗教は非実在の神を信じる行為よりもはるかに、うーん、「難しい」と言うのが良いですかね。危険というのは差別になりそうなので言いにくいので「難しい」が適切ですかね。キリストや仏陀のような神であれば完全に観念の中だけで信じる神なので変化することが(解釈を変えないかぎりは)ない。
 
まぁなんというかいずれにせよ「信者」は軽い差別語に聞こえることがあるという個人の感想です。

 

ラマダンジグソー

ラマダンジグソー

 

 

インターネットから大人が離脱していく結果構成されるネット社会を憂う

この増田と同じような内容を書いたことがあるんですけど
 
言及先

anond.hatelabo.jp

書いたやつ
 
インターネットから完全に距離を取っている人って周りにけっこういるんですよね。なかにはパソコンを捨てたりスマホからガラケーに変えたりした人もいたりする。右肩あがりにネット利用者は増えていてインターネット社会なんて言葉も使われるようになってきた。それと同時に上記の増田のような離脱者も出てきているのでしょうね。
 
自分はいまだにネットを使っているのだけどスタンスとしては増田の考えに近い。ネットをくだらないと一蹴するネットアナーキストと考え方としては親和性が高い。基本的にインターネットが生んだものにたいしてはかなり懐疑的です。ブログでそんなことを書くのは行為と思考が矛盾しているのだが10:0でネットがくだらないと考えているわけではない。
面白さの残香とインフラとしての依存と強制力がいまだに使っている理由であるがいずれにせよネットを切り離して生活できるほど僕自身は達観できていない。
最初にSNSにたいして疲れたのはミクシーであった。友人同士で日記などを公開していたのだが日々おきたことをつまびらかに晒していた。
足跡やマイミクなど繋がりが極端に可視化された世界は新しいものだった。かなり刺激的で面白かった。しかしいつしか繋がりが義務のようになってうざったいと思うようになり、とつぜん削除した。あの日からSNSにたいしては二の足を踏むようになった。日記を書くことやプライベートに食い込む形でインターネットを使うことはいっさいしなくなった。
 
めちゃくちゃ主観的な観測をするのであればインターネットから距離を置いている現実の人を見るに使わない人のほうがどこか穏やかに見える。(地方の農家をやっている親戚やマイルドヤンキーで酒ばかり飲んで遊んでいる友人など)
農家にストーカーはいないという格言がある。歪みのない生活は正しい大人をつくる。2ちゃんねるredditなどは歪みの極致であるので見ないほうが自然な呼吸を獲得できるでしょう。
 
当たり前であるがインターネットにはインターネットに書き込む人しかいない。インターネットは仕事や学業のように強制力のあるものではない。使いたくなければ使わなければいい。無理だという人もいるだろうがやろうと思えばできるであろう。ガラケーに変えPCやルーターを捨てても生活できないことはない。
実際にそうしてネットを使わない人、ネット言論に参加しない人を見るとはるかに大人に見えることが多いように思う。そしていったんはネットにいた言及先増田のような幼稚な悪意拡散機能やポリコレなどに疲れると判断できる正しい感受性がある良識者はこれからどんどん離脱していくかもしれない。(ネット離脱者がまともな判断力を有していると思うのは完全に個人的な意見です)
 
これからもインターネットへの参入者は未成年を中心にどんどん増えるのでしょう。しかしこれからはそれと並行してインターネットから離脱する人も同時に増えていくと思います。そうして残るのは2ちゃんねるやガールズちゃんねる、ヤフコメのような匿名短文の俗情が支配するだけのネットになっていく。大人が離脱し感性が絶滅し想像力の欠片もない悪意を吐く人間しか残されていないようなインターネットで純粋無垢な青年の思想が毒されていくようになるかもしれない。
 
 
インターネットにいる人はインターネットにいる人しかいない。インターネットに残っている人はその責任の不在性と承認欲求がゆえに思考を放棄しやすい。
インターネットの思考をコピーして流行している言葉を書き込むほうが「いいね!」がもらえるバイアスがかかっている。(ガールズチャンネルなど事件にたいするコメントに「死ね」と書くだけで2000近い+が集まる)(最近、はてブのコメントもはてな的価値観を意識するのを一切やめたのだが、スターがあからさまにつかなくなった)
そうして誰も本気で思っていないようなただ刺激的なものだけネットには陳列されていく。旨味ゼロの激辛担々麺のごとき文章である。この文章も恐らくはそうである。無責任な言論がはびこるインターネットで正しいメンタルを得ることは不可能だと諦めSNSから離脱していく。
そう判断するまともな大人がいなくなればなるほどネットは短絡的な世論へとタコツボ化していき一様性に収まっていく。そうしてトランプが生まれる。インターネットが殺す民主主義の死に。合掌

 

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)