メロンダウト

メロンについて考えるよ

新潮45騒動と非国語的批評空間について

また杉田氏の件だけれど最初に新潮45で杉田氏の論文が炎上した際にはそこまでたいした問題じゃないなというか典型的なLGBT批判といった感じで認識不足かなぐらいの感想しかなかった。

しかし杉田氏擁護から炎上が展開し新潮45が休刊になったというのはかなり社会的にコアな部分に食い込んでくる話になったと思う。

そこで件の新潮45の小川氏の記事やアベマプライムなど一次ソースにあたってみたけれどはてなブックマークから見えるそれとはかなり感想が違った。休刊の原因となった小川氏の記事はかなり感情的で厳しい比喩表現で溢れているけれど立場的にはまともな保守そのものだと言っていいと感じた。

合理主義や進歩主義への警戒心を表す立場という意味で杉田氏の認識不足のそれとは書いてある内容のレイヤーそのものが違う。

 

杉田氏は生産性という言葉を使いどちらかと言えば制度論に近い。差別だと批判されるのもわかる。いっぽうで小川氏のそれは性自体を論じている。人の性を構成する要素の話をしている。一見するとLGBT批判と読めなくはないが異性愛も含めた性慣習全体を論じているので論旨は別のところ(性を社会的に扱うこと自体への違和感の表明)にあるように読めた。

この文章を読んだ時に自分が以前「選択的夫婦別姓」に関して疑義を呈して炎上したことを思い出した。あの時にも文章の意図を完全に読み違えられていたけれどそれにかなり近い現象が今回の騒動では起きているように見えてしまった。単にLGBTの話ではない。保守の文章を読めない人達がすくなからずいるし論旨ではなく文章の意味をストレートに受け取りすぎる人達がかなりいるのだと思う。

 

小川氏の文章は一見するとひどい比喩表現や代替表現で溢れているがそこまで読めない文章ではない。炎上しているのは僕達の読み取りの浅さにもあるのではないかとすら思う。文系における論文はニュースやライティングスキルによって生成された文章とは違う。事実やシンプルな論理だけを積み上げていけばいいというものではない。どういう思考やどういう「感覚」でいるのかは一言では言い表せないから表現を使って言語化する。そして表現しようとしている文章を読む時に書いてある言葉そのままに読むことはこれは読み手側の怠慢だと言える。批評や論文はそれだけ危ういものであって万人が読んで万人が同じ認識を持つ論文が国語の問題として成立するわけがないのである。

 

小川氏の文章はかなり読み取りづらいことは間違いない。というか自分も一読してなんじゃこれという感想を持った。また、いちいち熟読する時間もない人が多いだろう。しかしだからといって熟読することを放棄して批判していいわけではない。批評家は記者ではない。

いま起きていることはネットのニュース的批判空間が抱える文系学問への蔑視に近い。僕は小川氏を支持しているわけではないがいまネットで起きているような言葉だけを抽出して文章を読まない「非国語的世界」には断固として反対する。

 

同様の理由により新潮45が休刊という決断をしたことにも失望する。

小川氏の論文が時勢に沿っていないことはわかっていながらも出版したことは問題ない。しかしそれを論旨に沿わぬ形で誤読されたのであれば表現を駆使し説明するのが論壇雑誌のあるべき姿だろう。論壇が企業やニュースメディアや政治家と違うのはその思考を言語化する努力をするかしないかではないのか。

不快な文章だと反省し謝るのもいいと思う。しかし論壇は言い訳をするべきなんだよ。話の内容を理解してそれでも反対する人は出てくるだろう。LGBTはいまやそれだけセンシティブな議論だからだ。しかし多数に屈して休刊するという決断は論壇雑誌としては完全に間違っている。僕は読者ではないがいまからでも撤回してほしい。言論の自由への圧殺といっていい事態であってこれはLGBT以前の話だ。

 

というか騒動の件で見たアベマプライムで母校のゲイの教授が出ていたんだが彼の言っていた「言論の自由はそういうリスク(暴力を受けること)もある」のほうが100倍ひどいぞ。54分あたりから

 

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先天的ヘイトと後天的ヘイト~新潮45の騒動に思うこと~

杉田氏と小川氏の記事が原因で休刊というはこびになった新潮45

何か違和感がある。

というかブログを書くのが一ヶ月ぶりですね。おひさしぶりです。

 

発端は杉田氏がLGBTを称して生産性がないといった記事を掲載したことであるがそもそもこの記事が炎上し袋叩きになったことにもすこし違和感がある。

LGBTが生産性がない・・・というのはこれはヘイトではなく認識の錯誤でしかないようにも思える。実際こういうLGBTの理解が前時代的な人はすくなからずいる。ゲイwwwなどと嘲笑するような人ではなくとも時代がLGBTを存在せぬものとして扱ってきて教育も受けていない人が(いくら年齢を重ねていても)そういう甘い認識になることは当然だとも言える。

 

「大人」というとあらゆる事物にたいして適切な見方ができる人のことを想像するだろうが正しい認識を得る機会がなかった人はいくら年齢を重ねていようとも乳飲み子のような無知を披露してしまうことがある。それが恥だといってしまう言論空間そのものの空気こそが問題だとも思える。というかそういう正解不正解で決定するような教育や言論空間が前時代で恋愛的不正解としてのLGBTを供出したのではないのか・・・

いまLGBTに関する正解不正解は逆転したけれどその空気そのものは変わっていないんだなというのが一連の騒動にたいする僕の見方だ。

 

寛容さとは何かという問題だと思う。単にヘイトだと片付けていい問題ではない。

LGBTに関して無知だと言ってももちろんなかには知らないことにたいしても思考を働かせ感性によって正しい行動を取れる人もいるだろう。しかしあまり一般的ではない。何が正しいのか、何が適切なのか判断する時に多くの人は知識によって判断する。何が是か何が非かっていうのは時代によってめまぐるしく変わる。原理的なキリスト教的世界観ではLGBTはいけないものだと考えるだろう。多様性のもとにおいてはLGBTは肯定される。

そしていまの時代では個人の生活一般にたいして「神的」に規律を強制することは自由のもとにおいて許されない。

大きな話にすればLGBTに限らず社会的に望ましい人間像というものを語ること自体が許されていない。社会人的スキル、恋愛に最適化された性格、良い夫、良い妻など語りうるものがさまざまあるにはあるがそれは一般化して語られた瞬間に批判される。

しかしなかにはそういった人間像や規律が人間を構築すると信じている人、規範や権威が大人をつくると信じている人がいる。ヘーゲル的世界観だと言ってもいいかもしれない。ヘーゲルが「人倫」と言っていたものだがそういう客観的人間像は語ることそのものが許されない。

それは恋愛におけるLGBTもそうだろう。「客観的性」なんてものはこの世界に存在してはいけないのだ。

 

さて

杉田氏がLGBTが生産性がないという発言をしたことについてだがこれに関して思うのは彼女への批判にさいして誰も憐れみの視線を向けることがなかったことに違和感があった。

LGBTがなきものとして扱われてきた時代の被害者だという視点が抜け落ちているように見える。たとえば子供がゲイを気持ち悪いといった時に大人はそれを諭す責任があるし実際にそうする。同じように教育上そういう知識を得ることがなかった大人にたいしていまこの時代のマジョリティーと言っていい僕達がやるべきは知識がない大人にも子供にたいするそれと同様のまなざしを持って諭すことのように思える。

これは保守とかリベラルとかいう話ではない。なにせ彼ら彼女らは右左を考える以前にLGBTに関して考える機会すらなかったのだから。前時代の常識をそのまま吹聴する言論にたいしては断固として批判すべきだが彼ら彼女らを多様性のもとにヘイトだといって排除するのは寛容性においてしてはならない。

ヘイトには先天的なヘイトと後天的なヘイトがあると思っている。

子供が無邪気に人をいじめ障碍者を馬鹿にするような人間の動物的感情によるヘイトが先天的だとしたら前時代の価値観をそのまま言ったらヘイトになるような後天的ヘイトとがある。杉田氏のそれは明らかに後者だろう。ヘイトだといって批判することは僕もするべきだと思うが前時代の世界観そのままに現在も生きているだけの無知であれば教えてあげればいいというそれだけの話にも思えてくる。

 

リベラルは多様な人が存在することを受け入れる寛容さだけではなく無知な人を受け入れる寛容さもあって然るべきだ。それはヘイトを受け入れるべきという話ではない。

ヘイトは許されないがヘイト的無知は受け入れ諭すべきである。それが自由主義者の数少ない責任のひとつでもあるし他者へ及ぼせる数少ない善のひとつでもあると思う。

 

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世界のすみ分けという以前に日本人はテクノロジーにたいする警戒心がなさすぎる嫌いがある

荻上さんの記事を読んでいたら今年はじめに自裁した故・西部邁さんがアンチテクノロジーをたびたび唱えていたことを思い出した。

「世界のすみ分けが露骨にネット上で可視化されている」荻上チキ氏に聞く 分断するネット社会のいま

インターネットはもちろん自動車ですら反対だと言っていた。自動車までも反対というとあまりにも極端に響くが西部さんの言っていたことは単に保守というわけではなく充分に論理的なものだった。人間のセンチメントに根差した論理を保守と考えていたのだと思う。その意味でテクノロジー全般に関しては人間の人間的活動を侵食していくという立場から反対だと言っていた。

印象的な言葉がありこのブログでも引用したことがあるが西部さんは

「テクノロジーは原理的に不可逆である。核兵器が世界中からなくなった時が最も危ない。核兵器が消えても核に関する知識が消えることはないからだ。もし核が消える日がきたら核を最初に持った人が権力を握ることができる」といったようなものだった。言葉そのものが正確かは覚えていないがかなり核心をつく内容だと思う。

大きな話にすれば人文科学から自然科学への警鐘だということも言える。

それはインターネットも同様のことがいえるだろう。インターネットの存在を消すことは不可能だがインターネットを定量的に見た場合、どんどん弊害があらわれてきた。政治的には荻上さんの記事もその一端をとらえていると思う。あるいは経済的に言えば格差拡大の弊害のほうが大きくなっているようにも見える。1・2次産業の生活はそれほど楽にはなっていないのにネットが需要のほうだけを操作している。ランサーズに代表されるような資本主義にライドした中間マージン業者。タイムバンクやバリューのような無実存の市場化。ヤフオクやアマゾンはすべての小売業者をフランチャイズ化し事実上格差を拡大させている。

 インターネットはたしかに革命的なものだと今でもそう思う。しかしちょうど原子力発電よりも核兵器の弊害のほうが多く語られ、警戒されている現在の原子力技術も発明された当時は希望として語られていたのかもしれない。そしてそれはインターネットも同様である。テクノロジーは不可逆な原罪を抱えている。

 

僕はこの意味でテクノロジーに関しては保守的な立場だと思う。実際、インターネットが世界を良くしているという実感があまりない。買い物ひとつとっても今アマゾンなどを利用して買っているけれど原宿や下北の古着屋を散策して買い物していた大学生の時のほうがあるいは幸福だったのではと思うことがある。自分のことながらよくわからない。ネットの利便性はたしかに便利で楽だが半強制的に大学生なりのファッションをめんどくさいと思いながらアルバイトの給料でそれなりの服を探していたほうがなんというか人生の代謝みたいなものを感じたような気がする。

 

さて

上述した僕の立場から荻上さんの記事を考えるにインターネットで世界のすみ分けが可視化された、というが政治的または社会的なレベルで考えるならばすみ分けるべきは保守対リベラルではなくネット対現実のほうだと思う。

というのも以前、スマイリー菊池さんがネット上の虚偽のデマで芸能の仕事をなくしてしまったということがあった。あの件を見た時に思ったのがインターネットの反応を大衆の反応ととらえてスマイリーさんを起用しなかったテレビやラジオの対応はどうだったのかと思ったのだ。あの事件もネット上ではかなり大きな事件だったと思うが実際に炎上に加担していたのはごく少数の人達だった。すべての炎上がそうであるがごく少数の神経質な暇人の意見を逐一聞くのはいいがそれを実際の運用方針として採用するとどんどん間違った方向へ現実が傾いていく。だからラディフェミやネトウヨなどの極論などもすべて現実と切り離して無視すべき。それがたとえヘイトであっても。ヘイトはヘイトとして炎上させることでむしろヘイトが増殖していくような傾向がよく見られる。ヘイトやネトウヨのような短絡的なイデオロギーはその安易さゆえに論理がわかりやすい。わかりやすいゆえに批判するのが簡単だから炎上するしわかりやすいゆえに「理解」して納得する人が出てくる。ちょうどスマイリーさんの事件で「反殺人」という理解しやすいテーゼが転がっていて暇人が蹴っ飛ばしていたのと同じようなものである。

 

もちろんあるていど定量的な倫理でもって反社会的だと判断されうる人が制裁を受けるのは間違ってはいないと思う。それはインターネットの良い面だ。しかしそれもエビデンスをもっておこなわれるべきではある。

つまりインターネットの反応は理解しやすいものほど批判されやすく納得されやすい。ゆえにすべてが極端なものに先鋭化していく。インターネットというテクノロジーが持つ不可逆な機能としてある。普通の人はそんな極端な論理で物事は回らないだろうという現実的な戦慄をもって生きている。しかし企業活動として考えた場合にその極端なものを世論として認識してしまう現実がある。現実のほうがインターネットにたいしてもっと警戒するべきだ。インターネットで得る感覚的世論は世論ではないしそれらは良識でもなんでもない。

ネット上でどれだけ啓蒙してもこの機能は変わらないだろう。インターネットには明らかに弊害がある。そしてそれはテクノロジーが持つ原罪だと言っていいと思う。ネットを変えられないなら現実のほうを変えればいい。

インターネットというテクノロジーが持つ悪性にたいして距離をとる現実のほうを構築するほうが早いと思う。ネットをインストールしない現実というとあまりにも難しい気がするがビジョンとしてはそう考えたほうが良いと僕は思っている。

 

ラディフェミ、ネトウヨヘイトスピーカーはネット上で勝手にやってればいい。それを僕達は完璧に無視すべき。まず無視してから考えよう。