メロンダウト

メロンについて考えるよ

キズナアイ論争と現実と仮想体

ポリティカルコレクトネスと最近出てきたVtuberなるものはかなり明確に因果関係があると思う。

一般にポリコレや差別を声高に批判する人は他者からの差別感情を向けられた被害者だという心理で客観的正当性を主張するけどどうにもそういう人の批判を読んでいると、結局のところ理解不能な他者が嫌なんだろうなというふうにしか読めない時がある。

 

差別やポリコレなどは具体的な何かを意識して使う言葉だけどその言葉を発する人間の背景にあるのは人間は人間(他者)が嫌いなことに最終的にいきつくように見える。

 

それはVtuberにもあてはまる。Vtuberを見る理由としてよく挙げられているのが人間がしゃべっているのが嫌というのがあるがあれも他者を拒絶する心理に見える。実際、自分でもYoutubeを見たりする時に人間が出てくるとその存在が邪魔だと思うことがある。テレビを見ている時などにもワイプに出てくる芸能人がわずらわしいとよく言われるがなぜあれを嫌うのかほんとうのところは単純に人間が嫌だってことしか言っていないのではないかと思ったりする。

なんというか現実の人間って圧倒的に不完全なんですよね。それは当たり前のことであって人間に完全さを求めるようなことを言うつもりは毛頭ない。しかし不完全性を現実社会で当たり前に許容するのとネットで「不完全な人間を選ばない」ことは別の思考を無意識にしているのだと思う。僕自身。

人間の不完全性を許容するってのは社会における最も根本的な社会性だけれど、しかしそれは意識して駆使しているだけであって不完全な他者が理解不能で嫌だっていう感覚は無意識に残ったままだ。

そしてネットではえてして意識的な倫理(不完全な他者を許容すべきという倫理)よりも無意識の感情のほうが勝つ。人間は他者の不完全な人物性をそれほど求めていないし、無意識下においてそれほど許容できもしない。それがたぶん根本にある。

キズナアイを見ているとそんなことを思う。これ現実の人間だったらやりすぎで嫉妬や怨嗟の対象になるだろうなと。人間が人間を見るそれよりも人間がVtuberを見るそれのほうが「許容度」が明らかに高い。同様のことがアニメや漫画のキャラクターなどにも言える。フィクションと現実を一緒くたにするなどこれほど馬鹿馬鹿しい話もないと思うかもしれないが、その当たり前に違う認識による差異がいろいろなところで確認できる。

最近のもえ絵やキズナアイ論争なども同種の差異によって意見がすれちがっているように思えてならない。フェミニスト側は現実の論理をフィクションにも適用しようとしているがオタク側からすればそれは表現の自由という論理で聖域化して語られているものとなっている。キズナアイは人間なのか否かというのが最も根本的な争点であるがたぶんそれは永久に噛み合うことはないだろう。フィクションに優しくあるべきだという一見すると穏当な意見に社会学者などから反発が出てすれちがうのは社会学が現実を取り扱うものであるからだ。現実に人は人に影響するから人にとって影響力のあるものは「現実的に」考えるべきだといったスタンスにも一定の合理性がある。

 

つまりもう現実の人間から人間として見られる世界よりも仮想現実体のVtuberと接続した世界のほうが許容度が高くやさしいわけだ。しかしこれはどうなのかと思ったりもする。人間はもっと人間にたいして極端に寛容になるべきだと思う。資本主義的なジャッジ、セクシズム的なジャッジ、ルッキズム成果主義などあらゆる俗っぽい視点で見られる人間世界よりも仮想世界のほうがいいとなるのは自然な流れだけど・・・しかしそういうテクノロジックに構成された回路で人間が幸せになれるかというとそんなことはあり得ないと断言できる。

それだったらとっくに医学により可能になっているだろう。覚醒剤で得られる興奮はワールドカップで得点を決めた時と同量の興奮を伴うと読んだことがある。善悪判断を棚上げしテクノロジックに人間の幸福を実現しようとすれば覚醒剤を吸えばいいとなる。しかしそれがどれだけ愚かな選択か僕達は知っている。単純に覚醒剤にはサスティナビリティー(持続性)がないということもできるけれどそれよりももっと根本のところで何が違うのかを僕達は知っているのだと思う。つまりリアリズムとは何かということを。

 

 さてここまで書いてきて、いま何を最も現実的に注視すべきかは仮想現実が現実を飲み込む時がくるのかどうかという話であるが僕はそれはすでにかなり侵食していると思っている。AIによるシンギュラリティが言われているがそこで言われているのは感情や意思決定の思考を持った新たなる主体の誕生という文脈で言われることが多い。

しかしもっと早い段階で客体としての完璧な仮想体が現実の不完全な主体=人間を別角度から侵入し超える時がくるのだと思う。人間が他者(ストレンジャー)を嫌う感情は仮想体から見ればセキュリティーホールのようなもので完璧な人格をインストールできる仮想体は「嫌われようがない」という点からその需要に侵入してくるだろう。

オタク産業はその意味で人間が人間を嫌いになった個人主義社会とマッチした概念的な産業であるように見える。

豊洲市場批判と清潔感至上社会

ものすごい抽象的にいえばてきとうさを愛するみたいなことを忘れたのだろう。豊洲市場で喫煙問題が話題にあがっていたが彼らのてきとうさを批判するのは端的に言って無粋な言説に見える。

なんというか現実の空気や人間を棚上げして結論づけているようなふしさえ感じるのだ。

 

上野や浅草などもそうであるが下町情緒なるものがいくつかの町にはまだ存在する。明文化されるようなものではない。しかし確かにそれは「在る」のだ。上野公園のベンチで缶チューハイを片手にタバコをすいながら談笑しているサラリーマン。路上にまで席をつくり昼間から酒を飲み馬鹿笑いしている上野や御徒町、五反田、新橋などの人々。そういった「いいかげんな場所」としてのいいかげんさを批判することははっきり言って無粋である。豊洲がそういう場所として在るべきかどうかといえば衛生面の観点から言ってNOであると思うが・・・

 

しかしまあタバコを喫煙所ですわないことは批判されるべきである。衛生面から豊洲では築地と違っていいかげんな慣習をとりやめるべきである、とまあそういうことになるのは妥当だろう。

 

タバコだけに限った話ではないがこういった論理的批判を見ていつも何かを置き去りにしているのではないかといった違和感がはしる。上に書いたような雑踏の話だけではない。論理で現実を切り取るその態度こそが人間の何かを致命的に毀損するような感覚があるのだ。リベラル。ポリコレ、フェミ二ズムなどの「極端に理念化」された価値観にも同種の違和感を覚える。

そもそもの築地が築地たるゆえんはいいかげんで雑多なものを許容する空気にこそあったのだろうと思う。僕も築地には何度かいったことがあるが喧騒と魚と水と風の匂いで埋め尽くされ汚れた場所に人々の生活や営みを感じるものだった。人が町を汚すというと反射的に汚すなよといった返答が返ってくるものであるが僕はそうは思わない。人がいればその場所は汚れるものだ、その汚して残る「染み」にこそその場所としての歴史が宿り場所としての空気が息づく。そしてそれが場所としてのアイデンティティーとなる。渋谷には若者の染み、新橋にはサラリーマンの染み、上野にはおじさんの染み、新宿はあらゆる人がいきかう染み、大阪の染み、京都の染みとそれぞれの場所にそれぞれに感じる空気がある。それは築地でも同様のことだったのだろう。

 

行ったことがある人にしか実感としてはわからないだろうが築地のアイデンティティーはそのいいかげんさにこそあった。路上にはみだしてまで陳列された商品、タバコをすいながら魚を売る人々、ちょっと値切ってみれば簡単に安く売ってくれるてきとうな値段設定、目分量で海鮮丼を提供するいいかげんな飲食店、打ち捨てられた魚の残骸。そのすべてが市場としての活気になっていたしそのてきとうさといいかげんさが築地の場所性だったのだろう。

 

それが豊洲になって顕在化して批判されているみたいだけれどそのいいかげんさを批判することは築地のあの空気を批判することと同じことである。そして僕にとってそれは何かすべての場所を一様化するような趨勢を感じて空恐ろしいことなのではないかと思えてくるのだ。

人間が多様であるように人が根付く場所も多様であるべきだ。その場所に根付かない人々は他にいくらでも行く場所がある。清潔感という価値を至上のものと捉えている人は食べ物と接するのは成城石井だけにしたらいい。築地のような汚れた場所が嫌だというのであればタワーマンションに住みオフィスビルで働きアマゾンで食品を買えばいい。この世界には多様な人々がいる。多様な人々がいれば多様な場所ができてくる。築地はかつてそういう「場所」だった。豊洲がどうなるのかはこれからだが僕はできれば豊洲も築地のようにいいかげんで汚れた場所であってほしいと、そう思う。

 

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「共感されにくい人達」は「権利」で救われるのだろうか

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読んだ。その通りだとも思う。僕達はおっさんよりも少女のほうに同情する。アニメなどのコンテンツで美少女が頻繁に使用されるのも共感の集めやすさゆえだろう。

記事の論旨をあえて悪しきように言えば「僕達はおじさんに共感しなくていい、けれど権利は守ろう」というふうにも読める。もちろん著者が言いたいのはそういったものではない。しかし共感と切り離して権利という概念を救済を駆動するものとして持ち出すことは本当に正しいのだろうか・・・

というかそれは「別の話」なのではないかと僕は思う。

 

おじさんに僕達は共感しないと自明なものみたいに言うけれどおじさんが欲しいのは権利による「物」じゃなくまさに共感そのものなのではないだろうかと思うからだ。

現実にも酒の席でおじさんが延々と同じ話を繰り返し話していることがよくある。彼らが同じ話を繰り返す理由がまさに共感してほしいからだろう。同情といいかえてもいい。おじさんはただ座っているだけでは共感されないから同じ話をする。

逆に若い女性は無口でおしとやかに座っているだけなことが多い。彼女達はおじさんのように話をしなくても存在するだけで同情や共感の対象として扱われるからわざわざ自分の話をしないのだろう。

おじさんに共感するのに僕達は物語を必要とする。だからおじさん達はその物語を忽然と話しつづける。

最近は若者もそんなおじさんの話につきあってられないみたいな風潮があるみたいだがそういう感情的な切断を許す社会はあまり良い社会とは言えないと思う。おじさんを承認しないという「自明の前提」そのものが問題の根幹にありその前提は覆らないから権利を持ち出して救おうというのはこれはある意味で論理のすり替えだと言っていい。

基本的人権は国家の論理であって社会的な意味での個人の論理、であってはならない。僕達はおじさんのくだらない話を聞くべきである。

 

 

おじさんを「権利的」に救済しようというのは絶対に正しい。しかし物質的な貧困と存在の不安とは分けて考えなければいけない。人間は食べて寝てセックスするだけで生きていける動物ではない。

物理的な貧困を解決するのはたとえば政治であったり法律、人権団体、NPONGOなどあらゆる公民の支援組織によって可能だろう。しかし自己存在の不安=承認の問題を解決するのは国家の問題ではなく社会の問題ひいては個々人の問題である。権利によっておじさんを救済するから僕達はおじさんとは距離をとって生きていいということにはならない。国家が権利的、物質的に救済することと僕達がおじさんの話を聞くことはまったく別の話だからだ。社会的な承認を構成するのは個々人によるコミュニケーションでしかなしえない。

 

別の話と書いたけれど上記は僕達が持つべき眼差しの話であって

おじさんの「生」自体の中では物質的な豊かさと存在の承認は必ずしも別ではない。おじさんにただ食料を与え住みよい家を与えるだけでは一時的な救済にすぎず自立して生きるのには承認が必要だ。承認されることでバイタリティーが生まれ理性につながることではじめて自律することが可能になりそこではじめて人のために働き、他者に承認を繋ぐ人間になれるしその結果として物質的なものもついてくる。

承認欲求はなぜか悪い意味でとらえられがちだけれど承認、共感を求めることこそが理性をつくると言っていいだろう。

人と承認しあいポジティブに繋がることはいまや単一的な常識として語られることが多いが本来は人に承認され共感されることで別の他者にたいしても寛容でいられるものである。子供を見ればよくわかる。親に愛情を与えられなかった子供は社会的に生きにくい人間になってしまうが、大人になっても程度の差こそあれそれは同じだろう。

つまり承認や共感の獲得構造から外れてしまったおじさんが他者と繋がれなくなり貧困になるというのは人間の心理的な構造として当たり前の結末だと僕は思うのだ。なぜなら人にとってえてして孤独だけが問題だからだ。貧困になり孤独になったおじさんに物を与えても物質的な基盤だけではうまくいかない。孤独な人間がなにか自動的に内発的な動機をつくることなどありえない。他者の承認によって精神的な基盤が与えられそこに理性が宿り生活の基盤が生まれる。

 

貧困になったおじさんを権利的に救済すること以前に僕達がやるべきはおじさんの話を逐一聞くべきであっておじさんの哀愁や悲壮にも価値を認めることではないのだろうかとそんなことを思った。