メロンダウト

メロンについて考えるよ

個人主義が福祉をぶっ壊している

個人が個人のまま生活できる職種が少なくなっている。

いわゆる落伍者と呼ばれるようななんの能力もない人達がバイタリティーひとつで生活を立て直すことが難しくなっている。

例えば個人の小売業は大手コンビニが出てきてビジネスとして成立しなくなった。サラリーマンをやっていてなんらかの形で仕事をやめ、再就職するにも能力がなく年齢の問題もある人が退職金で小売業をやって生活することは不可能になった。

退職金がない人は金融機関からお金を借りて店を始めるなどしていたはずだがそれも総量規制で難しくなった。その代わりに出てきたのが公庫であるが公庫は職歴や事業経験などが重視されるため何も持たない人が自己資金0で審査に通ることは難しい。クラウドファンディングもただの普通のお店に投資しようとする人は少ない。

その結果、以前は地方の町の小売業を営んでいたどこにでもいる気の良いだけが取り柄のおっちゃんは大手コンビニのフランチャイズ下に入ることになった。

あるいはパチプロなども昔はやっている人がけっこういたが規制などにより消えている。

この社会はちゃんとした社会になってきている。自己資金0でなんの能力もない人間が起業できないのも当然でありなんの役にもたっていないパチプロが月70万とか稼げていた時代のほうがおかしい。しかし逆に考えればそれだけ個人にとって余地がない社会とも言える。

そうしてすべてが整然とならされて平等な競争原理がすべてのことに適用されるようになるのはどこか地獄めいている。

 

僕達は福祉を考えるときに常に公的と思いがちである。しかし本来の意味での福祉はもっと多岐に渡っているはずだ。セーフティーネットと言えばわかりやすいかもしれない。小売の自営業は事実上のセーフティネットだった。しかしそれはコンビニによって淘汰された。その結果自営業を営めなくなった人が公的福祉に頼るしかなくなる。つまりコンビニなどの大手資本による寡占は個人の自営の余地を奪いその結果として社会保障費を増大させている。一方では雇用を生んでいるという見方もできるが雇用というのは雇用される人しか救わない。雇用されないような人間は救わない。それが資本の論理である。資本の論理とはある意味で外部にあった自営業は事実上のセーフティネットだった。それが今は機能していない。

あるいはパチプロなども対人恐怖症や適応障害などでそれしかできないという人がたくさんいる。雇用されえない人が公的福祉に頼ることなく自活している点でパチンコも福祉の一部だった。

情報化と平等化と資本主義はすべての業種をレッドオーシャンとし、その市場を席巻したプラットフォーマーに支配される。そのプラットフォーマーにより人材として不適格とされた人間は排除される。Youtubeツイッターも不適格とされれば広告はつかないしそうでなくとも単にその場から排除される。広告がつかなければ収入もなくなって最終的には公的な福祉に頼るしかない。誰もそれをYoutubeやコンビニのせいとは考えない。当人の能力不足であるという。それが今の社会のルールでありそれは個人主義と呼ばれるものだ。

僕たちは当たり前にその人間の能力や人格の不備を問題にし排除しようとする。それは個人の問題だと。企業や学校に限らずあらゆるコミュニティーで不適格な人を包摂しようとはしない。あるいはインターネットでも最近はそうだ。はてなー低脳先生にやっていたことも同じである。不特定多数の人間に罵声を浴びせていた低能先生の行動は正しくなかった。しかし正しくない人間が正しくないままそこに居続けることができたのであれば違った結果になったのではないかと最近は思うようになった。しかし僕達は彼を通報し排除した。はてなという場所が低能先生にとっての福祉だったかもしれないのに。

正しくなかったり能力がなかったりする人間がそこに居ることができるには社会が不完全である必要がある。しかし今は企業社会においてもインターネット社会においても完璧な社会に傾倒しすぎているような気がしている。企業は経済的に純化され雇用の流動性を上げ個人に人材としての役割を課す。ネットは不完全な他者を炎上させる装置として機能している。完璧な社会は不完全な人間を許さない。そうではないという人もいるかもしれないがそれは許容可能な程度の不備を持った人間を許しているだけではないだろうか。

本当に大事なのは許容不可能なほどひどい他者を包摂できるかだと思う。あるいは単にそういう人に干渉しないような別の場所が存在しうるかどうか。それが現実的にセーフティネットとして機能する。

すべてに目が行き届きすべてが資本化された世界においては全ての人間がその世界に評価され適応せざるを得ない。しかし人間はそれほど簡単に順応するほど単純ではない。例外として順応できない人がいる。順応できない人をすべて公的福祉で救うのは今の日本では難しい。であるのならばそうではない場所をどうつくるのかが重要であると考えている。インターネットはかつてそういう場所だった。暗黒な部分を書き散らかしてもそれは閉じていたので問題なかった。世界に接続することはなかった。自営業者も空間的に閉じた世界の中の営みであった。しかし今は資本主義に晒され淘汰された。

 

なぜこれだけ社会保障費が増大しているのかは単純に高齢化と言われることが多い。しかしそうではないと僕は思っている。閉じた世界の中で生きれる人が少なくなった。そういう仕事もそういう人間も世界に発見される。世界に評価され平等化され競争化されみんな退場していく。退場していった人は最終的に公的な福祉にたどりつく。それが社会保障費増大の一因となりそれこそが格差や個人主義が抱える最も大きな問題だと言える。

コツコツ努力する人と超越と実存

はじめに、ブログURLを元に戻しました。アドセンスが貼れなくてどうやら新しくサイト申請するには不適切な表現がどこかしらにあるようなのですが探すのがめんどくさいので戻しました。

p-shirokuma.hatenadiary.com

さてシロクマ先生の記事を読んでいたら「超越と実存」で小林秀雄賞を受賞した南直哉さんが個性と人材の気持ち悪さについて語っていたことを思い出す。南さんは恐山院代で仏教徒でありたくさん書籍も出されているのだけど彼の書いていることは根底に資本運動そのものへの疑義があるような気がしている。

それはシロクマ先生が書いているように努力が普遍的なレベルにまで至上価値化したことに疑問を呈していることに通じるものがある。

そして僕も両者と同じ思想を持つ側の人間であると思っている。努力しないで楽しくやっていければそれでいいのにそうはいかない現実が目の前にそびえたっている。しかしなんで努力をしなければいけないのかとも思う。

 

南さんが言っていたことはおよそこのようなものだ。今までは企業社会に自己が埋められていてそこに適応すれば個性や努力はそこまで必要なかった、しかし機能的に純化されアメリカ的な資本主義が市場を席捲するようになると個人は個人の能力として人材であることを求められるようになる。その結果個性という言葉がやたらともてはやされるようになった。しかし個性とはイコールで人材のイメージがあり人間はなにがしかの人材でなくてはならないと皆が考えるようになった。労働市場における人材、恋愛市場における人材、友人市場における人材などなどすべての人間関係は市場化され人間を普遍的なレベルにおいて価値相対化しているのが近代社会で起きていることである。

そこでシロクマ先生の記事に接続する。今までは企業社会やゲマインシャフトなどの関係性が埋没している関係の中で適応することが求められてきた。しかしそれがバラバラになると個人は個人のまま求められる人間でいなければならずその結果として人材でいるための努力が必要とされるようになった。恋愛にふさわしくない人材でなければ結婚はできずそれには努力が必要とされるというと当たり前に聞こえるかもしれないけれどそうではなかった時代もあったはずである。

努力は普遍的な価値とされているが努力がここまで万人にとっての至上の価値観になったのはすくなくとも資本主義以来の出来事だと言っていいだろう。それ以前は信心だとか平等とかそういうものに普通の人間としての価値はあったと見られる。

 

しかし努力という言葉は言葉自体が狭義な感じも受ける。今みんながやっている努力はいわば社会適応の一行為と言えなくもない。昔は過剰に企業に適応したり村に適応したりそういうものが努力に置き換わったのだと思えばそう悪い感じも受けない。努力はある程度普遍的な形をもってその人の役に立つ。勉強も資格もコミュニケーション能力も礼儀作法もある程度体系化されていてそれが無駄になることは少ない。純粋な意味での適応のようにその村でしか通用しないコードなどを習得し適応するのとは違い努力にはある程度の普遍性がある。

人間がこの世界にごろっと生まれてきて社会と繋がる限りにおいてどのような形であろうとも何かに適応しなくてはならない。それは宿命として人間に課されているものなんだと思う。であるのならば普遍的なものを習得しうる努力はベターな選択として考えることもできる。

しかしまあそれもめんどくさく純粋なレベルで言えば適応なんてめんどくさいことはみんなやめて適応しなくても適応しうる煩雑な社会であればいいのにとも思う。

しかしそれは理想論でしかないのだろう。努力の価値を無化し、すべての生産活動を平等に振り分けるとして行った共産主義は失敗している。だから資本主義的な努力社会はおそらくはベターなシステムであると考えるべきで・・・

しかしそのシステムに過剰適応し、努力を至上のものととらえる人も出てくる。それは副作用として起きているだけで適度な努力で適度な適応を正しく教育してもらえる現代社会は考えようによってはものすごく理性的で素晴らしいのではないかとも感じる。

もちろん努力だけが価値とされるような考え方は間違っている。そこに疑義や問いは残すべきである。極端にふりきった正しさがもれなくすべて間違っているように努力もそれだけが正しいと思うことは間違っているだろう。しかしそれは逆説的に努力がまったく正しくないと考えることも間違っているのだと思う。

努力をまったくしないこともこの社会に生きる人間としての実存が許さないしまったく努力をしないで努力という価値観を超越することも普通はできない。南さんの著書タイトルから拝借すればそんなことを思います。

シロクマさんも南さんもそんなラディカルな人ではないと思うので単に自戒の意味を込めてそう思います。

「負の性欲」とやらについて

ツイッターのトレンドに負の性欲なるものがあったんだが

要約すると

・男性の正の性欲 自らの種をばら撒きたい

・男性の負の性欲 自らの子孫を残せない人とはやりたくない

・女性の正の性欲 種として優秀な男性を選びたい

・女性の負の性欲 種として優秀ではない男性とはやりたくない

https://togetter.com/li/1436163

ということらしい。議論になっているのが女性の負の性欲の部分。女性は種としてふさわしくない男性とはやりたくない欲望を持っているという趣旨で議論されている。やりたくないの部分が負の性欲ということらしい。

男性は不特定多数の女性とやりたい性欲を持っているが女性はそうではない。女性は特定の男性と性交渉する選択の過程において性欲が働いている。その女性の選択こそが問題だ。そういう問題設定をしようじゃないかと議論されている。

 

恋愛の現場においても女性は選択で男性は開拓とよく言われるけれど、恋愛において女性が選択する側という優位性を負の性欲という概念でぶっ壊そうというふうに読める。

 

そういう恋愛の構造についてはいまさら語ることはないけれど男性の場合、能動的でないととにかく何も始まらない。女性は比較的に男性から言い寄られることが多く、その意味で男性から見た場合に女性の立場はうらやましく見える。

しかし女性の性欲自体が男性のそれとは違うので男性の視点で女性の性欲を見るのは間違っている。それは単純に性差と言われるものでもし女性のそういう不特定多数を選べる立場がうらやましいと考えているのであればそれは嫉妬に他ならない。

 

 

類似の議論にいじめがある。いじめられる人にも原因があるというよくあるやつだ。いじめにおいてもいじめをする人が正の欲求、いじめられる人が負の欲求と言えなくもない。いじめられる人にも原因があるは現象としてはそういうこともあると僕は見ているけどしかしそこに原因を求めてはいけない。いじめられやすい素養を持った子供であってもいじめてはいけないなんて今更言うまでもないことである。

いじめられやすい形を持って生まれてきた子供がいたとしても彼に原因を求めてはいけないように愛されやすい形で生まれてきた彼女にも原因を求めてはいけない。

先天的な条件は誰にも変えることはできない。もしその条件が許せなくてそれをやめろ俺達と同じになれ俺達と同じように正の性欲を駆動しろその可愛さをやめろというのであればそれこそが差別である。

 

女性は男性より愛されやすい。それは様々な統計からもわかっていることだ。なので男性は女性に嫉妬し結果ミソジニーになることも多々ある。女性はセクハラに悩み男性はミソジニーに悩む。そして僕はそれをとてもよくわかる。ミソジニーは男性にとっての宿命みたいなもので女性が痴漢にあうのと同じような頻度で頭の片隅をもたげる悪魔である。

その悪魔を論理的に説明しようとし、負の性欲なるもので女性にも原因があるとするのはおそらく間違っている。男性と女性は違う。平等ではない。現実的に。女性のほうが愛されやすい形で生まれてくる。結果女性のほうが選択する側にたつ。オスがメスを求めるなんてことは生物学的な原理原則でしかない。それが不平等に見えるのもわかる。男女平等、フェミニズム、ハラスメントなどなど女性ばかりが声をあげて本当は弱い立場の男性はなんで問題にされないんだという感情もわかる。

しかし私的なものである恋愛に公共的な平等原則を持ち込んでも誰もそれを採用しようとはしないだろう。女性の負の性欲が男性をミソジニーにしているは僕は完全に正しいと思う。しかしそれが公共的に正しくてもなんの意味も持たないのが恋愛というやつでだからこそ恋愛は尊いものなんだと思うぞ。知らんけど。