メロンダウト

メロンについて考えるよ

コツコツ努力する人と超越と実存

はじめに、ブログURLを元に戻しました。アドセンスが貼れなくてどうやら新しくサイト申請するには不適切な表現がどこかしらにあるようなのですが探すのがめんどくさいので戻しました。

p-shirokuma.hatenadiary.com

さてシロクマ先生の記事を読んでいたら「超越と実存」で小林秀雄賞を受賞した南直哉さんが個性と人材の気持ち悪さについて語っていたことを思い出す。南さんは恐山院代で仏教徒でありたくさん書籍も出されているのだけど彼の書いていることは根底に資本運動そのものへの疑義があるような気がしている。

それはシロクマ先生が書いているように努力が普遍的なレベルにまで至上価値化したことに疑問を呈していることに通じるものがある。

そして僕も両者と同じ思想を持つ側の人間であると思っている。努力しないで楽しくやっていければそれでいいのにそうはいかない現実が目の前にそびえたっている。しかしなんで努力をしなければいけないのかとも思う。

 

南さんが言っていたことはおよそこのようなものだ。今までは企業社会に自己が埋められていてそこに適応すれば個性や努力はそこまで必要なかった、しかし機能的に純化されアメリカ的な資本主義が市場を席捲するようになると個人は個人の能力として人材であることを求められるようになる。その結果個性という言葉がやたらともてはやされるようになった。しかし個性とはイコールで人材のイメージがあり人間はなにがしかの人材でなくてはならないと皆が考えるようになった。労働市場における人材、恋愛市場における人材、友人市場における人材などなどすべての人間関係は市場化され人間を普遍的なレベルにおいて価値相対化しているのが近代社会で起きていることである。

そこでシロクマ先生の記事に接続する。今までは企業社会やゲマインシャフトなどの関係性が埋没している関係の中で適応することが求められてきた。しかしそれがバラバラになると個人は個人のまま求められる人間でいなければならずその結果として人材でいるための努力が必要とされるようになった。恋愛にふさわしくない人材でなければ結婚はできずそれには努力が必要とされるというと当たり前に聞こえるかもしれないけれどそうではなかった時代もあったはずである。

努力は普遍的な価値とされているが努力がここまで万人にとっての至上の価値観になったのはすくなくとも資本主義以来の出来事だと言っていいだろう。それ以前は信心だとか平等とかそういうものに普通の人間としての価値はあったと見られる。

 

しかし努力という言葉は言葉自体が狭義な感じも受ける。今みんながやっている努力はいわば社会適応の一行為と言えなくもない。昔は過剰に企業に適応したり村に適応したりそういうものが努力に置き換わったのだと思えばそう悪い感じも受けない。努力はある程度普遍的な形をもってその人の役に立つ。勉強も資格もコミュニケーション能力も礼儀作法もある程度体系化されていてそれが無駄になることは少ない。純粋な意味での適応のようにその村でしか通用しないコードなどを習得し適応するのとは違い努力にはある程度の普遍性がある。

人間がこの世界にごろっと生まれてきて社会と繋がる限りにおいてどのような形であろうとも何かに適応しなくてはならない。それは宿命として人間に課されているものなんだと思う。であるのならば普遍的なものを習得しうる努力はベターな選択として考えることもできる。

しかしまあそれもめんどくさく純粋なレベルで言えば適応なんてめんどくさいことはみんなやめて適応しなくても適応しうる煩雑な社会であればいいのにとも思う。

しかしそれは理想論でしかないのだろう。努力の価値を無化し、すべての生産活動を平等に振り分けるとして行った共産主義は失敗している。だから資本主義的な努力社会はおそらくはベターなシステムであると考えるべきで・・・

しかしそのシステムに過剰適応し、努力を至上のものととらえる人も出てくる。それは副作用として起きているだけで適度な努力で適度な適応を正しく教育してもらえる現代社会は考えようによってはものすごく理性的で素晴らしいのではないかとも感じる。

もちろん努力だけが価値とされるような考え方は間違っている。そこに疑義や問いは残すべきである。極端にふりきった正しさがもれなくすべて間違っているように努力もそれだけが正しいと思うことは間違っているだろう。しかしそれは逆説的に努力がまったく正しくないと考えることも間違っているのだと思う。

努力をまったくしないこともこの社会に生きる人間としての実存が許さないしまったく努力をしないで努力という価値観を超越することも普通はできない。南さんの著書タイトルから拝借すればそんなことを思います。

シロクマさんも南さんもそんなラディカルな人ではないと思うので単に自戒の意味を込めてそう思います。