メロンダウト

メロンについて考えるよ

男性が考える女性のシミュラークルとデータベース

琥珀色さんの記事だけど

男と女の釣り合い考──「女のつらさ」と「イージーモード」|琥珀色|note

読んでて、たぶんこれデータベース的恋愛とでも呼ぶものになってるんだろうなと。琥珀色さんがなにか女性嫌悪者扱いされているみたいだけどそうではないだろう。かなりクリティカルな批評に読めた。このデータベース的な行動様式って東浩紀さんが昔書いていたものに近い。

物語そのものではなく構成要素=ステータスが対象となる恋愛およびその全体構造を琥珀色さんは批判しているのだけどそれは消費行動全般において東さんがデータベース的と書いていたものの亜種なのかもしれない。遂に恋愛もデータベース化した、と。

データベース消費(データベースしょうひ)とは、物語そのものではなくその構成要素が消費の対象となるようなコンテンツの受容のされ方を指す[1]。批評家の東浩紀ゼロ年代初頭に導入した概念。

データベース消費とは - Weblio辞書

 

これまで恋愛は一応は物語の産物として考えられていて、動物的な欲望=性は愛を彩るものあるいは象徴するものとして描かれることが多かった。昔の文学作品など見ても愛に価値があり愛の上に性がたっているという建てつけがなされていた。そうはいってもこの建て付けは幻想といえば幻想で人間誰しも本能的な性欲で駆動される動物ではある。ではあるのだがそうではないというある種の理想論が恋愛を恋愛たらしめているところがある。今でも個別のパートナー同士で言えばそういう愛情の上に成り立っている関係が多いだろう。しかし問題はこの理想論、物語、幻想が一般に(あるいは「宗教的に」)流通しなくなっていることである。

恋愛という物語はそれほど自然発生的なものではないように思う。幻想や理想、恋に恋するような愚かな信心が意味をなさなくなれば物語は失われデータベース的な動機しか残らない。女性はステータスで男性を見るようになり男性は女性を性的な視線で見るようになる。その結果恋愛が交換可能なものになり、格上男性は交換可能な女性をまさにデータベースとしてストックしていると。琥珀色さんの記事はそう読むこともできる。

 

 

あと琥珀色さんの言っていることはボードリヤールが書いたシミュラークル論に近いものがある。シミュラークルとは記号、表象、イメージを指す言葉だけど記号よりも抽象的な意味で使われている。

記号は現実の物や人と結合してその属性に使われるがシミュラークルは結合する物を持たない。メタで抽象的で大きなイメージそのものを指すが、大きく抽象化され純化されたイメージが現実にとって代わることをボードリヤールはシミュレーション社会あるいはハイパーリアリズムと評した。つまり現実のいっさいがっさいがゴミとなりシミュラークルと符合するような現実のみを採用しそこにシミュラークル=イメージを投射するようになったというのがポストモダンにおけるボードリヤールの議論である。

 

琥珀色さんの記事で書かれていた女性の行動原理はこのシミュラークルに近いものがある。目の前の男性よりも記号的な価値のある男性(琥珀色さんは格上男性と書いている)に女性がよっていくのはシミュラークル的な消費行動に他ならない。現実がゴミとなり「良い車」「高い収入」「高い身長」など無数のイメージをシミュレーションしてそのイメージにかなう「ように振舞える男性」にイメージを投射する。

実際にはその男性はただ寄ってきたからやった以上のことではないのに、である。その意味で男性も現実に女性を見ていないし女性もシミュラークルとしてしか男性を見ていない。その結果、シミュラークルの上に立てない現実を生きている格下男性、女性が残ることになる。

シミュラークルという物珍しい単語を使ってみたけど女性がシミュラークル的に恋愛するのはそれほど特殊な議論ではない。父親と似た男性を好きになるとかキムタクみたいな男性を好きになるやヤンキーなどの強権的な男性を好きになるなどこれまでも様々に変わりながらその形態をとってきた。

問題なのはそうした意味不明ともいえる無根拠なイメージが淘汰された結果、数値化可能なシミュラークルしか残らなくなったことだと言えるだろう。情報化社会がシミュラークルを強化したと言ってもいい。上述した理想論や幻想とも繋がるけれどいわゆる恋愛のマインドセットみたいなものがすべて無化された結果としてよりシミュラークルが大きくなり限定的になった。そしてそれにかなう男性も限定的になった。そしてより恋愛格差がついた。そしてより多くの女性が格上男性のセフレになり不倫し、格下男性は嫉妬し格下女性はやっかんでみんなで東出君やベッキーを炎上させるのであった・・・

 

 

なにか書いてて嫌な気持ちになってきたな。恋愛なんかみんな勝手にやればいいといえばそれまででしかないのだ。いくら少子化がすすもうが恋愛格差がひろがろうが個人の行動は制限されるべきではない。シミュラークルを多様にしてバラバラに恋愛するようにすべきだとか言うべきでもないしね。3畳1間から始めようなんて無責任なことも言えないしっていうかそもそもおまえ誰?ていうね。ただ社会的にはそう考えることもできるのでは、と。

琥珀色さんの記事もこの記事も普通に恋愛をしている人にとったらなんのこっちゃな話でしかないだろうけど、アイドルという記号的な擬似恋愛が日本でこれだけ流行っているのを見るにそこまで一般化できない話ではないと僕は思っている。

 

ツイフェミと政治について

ツイフェミも民主主義と資本主義の悪性みたいなものなのかもしれないな。

結局、どんなイデオロギーも民主主義社会においては拡散性の高い考え=浅く広いもののほうが広まっていく。哲学が軽視され自己啓発本ばかりが売れるみたいなそんな感じを見ていて受ける。

フェミニズムやそれに伴うアファーマティブアクションなどはきちんとした理解のうえに暫定的な措置として行えば充分正しいものだと思うけれど、資本主義的なものに取り込まれた瞬間に商業性が付与され金になるものへと変わっていく。

なんか同じようなことあったなと思っていたけれど、シールズがそうだった。リベラルの意味が「安倍やめろ」に変換された点ですごく象徴的な出来事だった。自由と進歩を理念にしたリベラリズムだけど、実際に拡散されたのは安倍やめろのほうだった。当時、シールズの奥田さんが憲法改正などについて議論する番組に出ていたのを見たけれど「リベラル的」な物言いはしているもののどうにも突っ込まれた質問をされると歯切れが悪くなる瞬間がよくあった。

その安倍やめろに当時のリベラル政党だった民主党も乗っかってしまっていた。

 

ツイフェミも「フェミニズム的」でありフェミニズムのそれとは違ってきている。宇崎ちゃんもそうだった。鬼滅の刃の恋柱につっこんでいたツイフェミもそうだが、ジェンダー的な話題で批判可能なものがあればなんでも批判してしまえばいいとなっている。そこに正しさや理念など関係ない。むしろフェミニズムの理念からは遠いもののほうが都合がよかったりする。いわゆる炎上原理のそれであり誰にでも批判可能な愚かな言説のほうが炎上しやすく炎上しやすいとはつまり拡散性があり金になるということだろう。宇崎ちゃん問題を提起した人も勝てば影響力を得て負ければ議論がふかまったろうで終わらせられる無敵の人のそれと同じだからまあ問題は個人の名誉を棄損しないかぎり言論で何を言おうが刑務所にぶちこまれることがないことで。つまり表現の自由万歳というやつだろう。

 

フェミニズム的なものは利用価値がある。男女のことほどみなが関心を示す政治的話題も他にない。それに民主主義と資本主義をふりかけて混ぜ合わせればこうなることはシールズのころから繰り返されてきたことである。

インターネットによるイデオロギー民主化は世界中で起きていていわゆるポピュリズムと呼ばれるものだけれど、日本では幸か不幸か安倍政権が長期化しているので政治の現場にはあらわれていない。現状、ネットでの勢力争いで済んでいるのでマシだという見方もできるけれどいずれこういう浅く広く大衆向けにパッケージ化されたツイフェミのような考えが本来のフェミニズムにとってかわるのもそう遠くないだろう。

リベラルがポリコレにかわり形式的なものになってしまったようにフェミニズムも政治的な利用価値のあるものに変化することは間違いない。

 

ネットにおけるイデオロギーの先鋭化、タコツボ化、クラスタ化はよく言われることだけれどなぜ先鋭化するのかその動機のほうを考えたほうがいい気がしている。これほど同じことが繰り返されているともはや結果論で語れるレベルではない。これはこちらが勝ったからこうなったとかこっちは負けたからこうなったという結果ではなくむしろ構造の問題ではないだろうか。

結論から言ってしまうとSNSの功罪だと思うが、ツイッターのように140字でなにかを言うかぎり言葉をフレーズ化しなければリツイートされない。このフレーズ化がまずい。本来はどういう論理があってその理念が建っているのか理解することが肝要だけれどフレーズにすると「安倍やめろ」「環境型セクハラ」などにおさまってしまう。

ツイッターが出てくる前は政治について議論するのはまだブログや掲示板などの文章によるものがほとんどであったけれど今はフレーズで政治ができる時代になっている。それは民主主義とことさら相性が良い。資本主義とも良い。

短いフレーズで動員をかけることができるのはコストパフォーマンスが良いからだ。一方、こうして文章を書いても結局何が言いたいのみたいな、ようするにフレーズ化しろと言われてしまう。

のでそろそろ要約すると民主主義は(これまでもそう言われてきたけれど)そろそろ機能不全なんじゃないか、と。

オンライン無償労働について

マルクスガブリエルの記事に僕たちはGAFA無償労働させされている的なことが書かれていて自分も似たようなことをそういえば書いたなと思ったけど

ファッキンワールドワイドウェブオーソリティー - メロンダウト

「日本はソフトな独裁国家」天才哲学者マルクス・ガブリエルが評するワケ | News&Analysis | ダイヤモンド・オンライン

実際問題GAFAだけでなくはてなやしたらば、5ちゃん、ばくさい、ツイッターYoutube、メルカリ、ヤフオク、pixiv、ゾゾタウン、ヤフーニュースなんかもそうでウェブ系プラットフォームのやっていることってビジネスモデルとしてパチンコ屋とそれほど変わらないと思ってる。

他人がつくったものをならべて陳列することで市場化して手数料をとっているのは

パチンコ屋が他人のつくった台を並べてやってきたお客さんが打っているのと変わらない。事実上、パチンコ店は場所を提供しているだけで他人のつくったものを並べているに過ぎない。

パチンコをする人もする人でやっていることは盤面の玉を見つめていたり高速で回るリールを正確に押していたりするけど、ライン工が検品しているのとやっていることは変わらない。違いは給料が出るかどうかだけである。

ポケモンGOポケモンが出現する場所に戦略的に移動することもタクシー運転手が乗客を乗せるのとやっていることは変わらない。

一方では労働としての収入となり、一方では「娯楽」と考えられている。これが大きな欺瞞だとマルクスガブリエルは言いたいのだろう。労働法により雇用関係にある者は社会保険や労災などで法的に守られているがその雇用関係とやらが実際のところかなり曖昧である。

ここでこうしてブログを書いているが僕はなぜはてな社の従業員として守られていないのか。馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが増田やブログに書いた記事がはてなへのアクセス流入に微力ながら貢献しているはずだ。しかしはてなからの報酬はまったくない。サーバー代を償却する程度には記事を書いているが事実上、無償労働していると言うこともできる。実際は好きでやってるから「取引が成立している」ので不満もなにもないのだけど雇用関係という考え方もできてしまう。

 

ウェブサービスというけど実際のところサーブしているのはどちらなのかみたいな話になってくる。実際に労働しているのはむしろヤフオクやメルカリで必死こいて差分を見つけて転売して悪評にも耐えている転売屋のほうだという見方もできてしまう。ヤフオクもメルカリも彼らから半自動的に手数料を取っているがプラットフォーマーが非難されることはほとんどない。なぜなら「雇用関係にない」からだ。迷惑な客がきたで全てすんでしまう。実際には彼らは労働しているにも関わらず。

 

Youtubeなどにおける垢バンやツイッターにおけるヘイトスピーチ規制なども実際のところは労働者としてふさわしくないからBANすると考えたほうがむしろしっくりくる。社会的にふさわしくないという建前で排除されるが実際のところそういう職場にするとアクセス数が落ち企業が広告を出さなくなるとわかっているのだろう。

だからヨーロッパではGAFAなどのプラットフォーマーに莫大な税金や追徴金を課したりしているがそれは自国民の労働力を奪ったという理由からだと考えることができる。日本はこの点にピュアすぎてサービスをつくっている側つまりIT企業は生産性が高いのだからとしか考えていない。アマゾンに税金を課したのも最近の話だ。しかし実際のところIT企業の生産性が高いのはサービスという建前で不特定多数の人間に無償労働させているからが理由だろう。

つまり自国民の労働力が奪われている状態、みんながパチンコに行っているみたいなそんな状態で生産性の話をしてもしょうがない。まずはパチンコ屋を自国で経営するか税金を課すかしなければ経済力の話をしても始まらないだろう。

中国はその点、クレジットシステムなどで国家と連携していたりSNSは国内産のものがメジャーである。アメリカはすでに世界中で利用されているGAFAを持つ国で覇権国といっていいが日本やヨーロッパはその他の国である。そうなると当然、戦略は変わってくるべきだがグローバル化万歳アメリカに追い越せ追い抜けみたいないかにも平和主義というか不戦主義らしい考え方をIT市場の領土争いでもしているように見える。

 

 

こういった既存の概念によって真っ当に成立しない関係は以前からあってそれは運動や革命がおこり権利として獲得されてきた。過去には多くの国で奴隷制度もあり無償で働かされていたが当時の人々も奴隷を労働力として使うことに違和感を持っていた人は多くはなかっただろう。フランスではフランス革命などがあったがいずれもこれまでは当たり前にないものと考えられてきた人間の権利を獲得してきた運動だと言っていい。アパルトヘイトや虐殺などを例にあげてもいい。人権という概念がいかに後天的か、自由という権利がいかに後天的かと考えればそれほど難しい話ではない。僕達は僕達がいかに不当に労働させられているのか知らないのかもしれない。

 

僕がいまこうしてブログを書いてお金をもらえないのは現在の価値観では当たり前だがその当たり前が100年後ぐらいには馬鹿馬鹿しいものとして見られることになるかもしれない。なんであいつタダで文章書いてるんだみたいに。

そういう思考やそういう世界を構築しそういう権利を概念として現実に実装するのはそんなに不可能な話ではないように思う。おそらく自由意志あたりが壁となるだろうけど

僕達がネットを使い様々なことをしているがそれは自由意志だから問題ないならば奴隷は奴隷として人に買われたければ問題ないのだろうか?

当然問題があると言えるだろう。

 

つまり今みたいにプラットフォーマーが場を提供して客か労働者かわからない人がサービスを使う関係が自然発生的に適当な関係のうえに落ち着くということはほとんどありえないことだと歴史的に見ればそう見えてしまう。獲得するしかない。

Youtubeの広告収入が落ちたやクリック単価が下がったなどたまに聞くけれどそういう時にはYoutubeに下げるなと「労働者として」言えばいいしYoutuber組合などつくって広告収入の最低レートを訴えるデモなどをするべきである。なぜなら動画投稿者は実質的にはYoutubeと雇用関係にある労働者なのだから。

それはあらゆるプラットフォーム系の企業に言えることである。雇用関係が適用されない労働者を集める企業の生産性のその一部は誰に帰属するものかみたいなそんな話でした。