メロンダウト

メロンについて考えるよ

共産主義が再考されても不思議ではない

病院の事務員の方が肉の壁をさせられているといった記事があった。事務員ということもあり、そこまで高い給与をもらっているわけでもないはずだ。それでも感染のリスクがある状況で働いている。ありていに言えば給与とリスクが釣り合っていない。病院の事務職だけではない。今の状況ではスーパーでレジを打っている方でさえ時給2000円もらっても割に合わない。

コロナウィルスは突然発生したのでリスク評価のうえで給与をあげたり、政府が医療従事者の給料を上げるなどの対応をしなかったせいで増田のような事例が発生している。こういう不満はこれからもっと出てくるに違いない。ぶっちゃけて言ってしまえばSTAYHOMEと言って家にいれる人は「どうでもいい仕事」をしている人だ。ここでいうどうでもいいとは生存に関係ない仕事のことをさしている。スポーツ選手やYoutuberが家にいようと言っているが家にいることができる職業だったり家にいれるほどの貯蓄がある人がそういうことを言っていることにたいしてうすら寒い感情を持つのは僕だけだろうか。医療従事者やスーパーのパートさんは「おまえらが肉の壁をやれよ」と言っていいと思う。それが社会の分断だろうとももう社会の構造は変わったのだ。社会の構造が変われば社会的正しさも変わる。そうなれば資本主義における正しさも当然変わってくる。完全に自由な社会ではスポーツ選手や著名人は自由な競争、自由にお金が流れる社会で高所得を得ていたがもう自由な社会は終わりつつある。新型コロナは短くとも一年、現実的には三年続くと言われているがそうなった時には資本主義の構造そのものも変わってくるだろう。今の医療従事者はリスク評価で言えば風俗嬢などに近い。不特定多数と接触して病気をもらったりコロナにかかっているかもしれないからと差別されている。そういう社会的リスクをすべて折り込んで給与に反映すべきであるが現実には「ありがとう」だけで済まされている。その薄っぺらさがとても気持ち悪い。音楽関係者や飲食店が補償と言っているが彼ら彼女らに補償を出す前に文字通り命をかけて医療に従事している方の給与を倍増させるほうが先だろうと思っている。このままいけば半年後には医療従事者や低賃金の接客業者の離職率が激増するだろう。アーティストの大半が無職になろうともインフラを維持するほうがはるかに優先度が高い。

この手の問題はコロナ前からあった。物を製造している人より物を売っている人のほうが儲かる。飲食を提供している人より食べログを運営するほうが儲かる。より高次な事業になればなるほど全てを下請け化できて金を集めることができる。それがコロナによってより如実に顕在化したのが今の状況だ。コロナにかかるリスクを背負いながら働いている人よりユーチューブで家にいましょうと言っている人の所得のほうが高い。いわんやこれほど馬鹿馬鹿しいことはない。

 

こういった状況でまず真っ先に再考されうるのが共産主義だ。全員が平等にリスクを受けるべきだという言説は遠からず出てくる。今はまだこのコロナにまみれた世界が暫定的なものであるという幻想のうえで低賃金の事務員やパートが雇われているがその幻想は遠からず壊れることになる。そうなった時に今までのような賃金では現場の労働者を雇用することができなくなるか、もしくはそういった賃金で雇用すること自体が「正しくない」という意見が支配的になる。

そうなった時に資本主義は一定程度、見直されることになるだろう。自由を絶対とするような市場原理は破壊されその際に台頭してくるのが共産主義的な平等原理になるのではないか。

今でも自宅謹慎といって政府の要請に全国民が従い自由を制限された状態となっているがこれが暫定的なものだと僕は考えていない。新型コロナウィルスが1年で終息するのか3年ほど続くのかわからないが類似の感染症はこれからも出てくる。 

そうなった時に今のような社会で果たして良いのだろうかといった議論は必ず出てくるはずだ。その時、僕達はそれでも自由を選ぶことができるのだろうか。

現在の社会の混乱具合を見ればそれはとても難しいと言わざるを得ない。自粛を無視して営業している飲食店を通報したり外を出歩いているだけで非難されるような状況を考えるに、本来的な意味での自由主義者はこの社会にまったくといっていいほどいないことがあぶり出された。

あれだけ自由自由言っていたリベラルの論客も「今は自粛すべき」という定型句ばかり並べている。三島由紀夫が「日本人はからっぽの国民で一夜にして天皇主義者が民主主義者になった」と述べているが自由主義者もそのようなものだったのだ。このブログでも似非リベラルと書いてきた。みんなが自由が一番ですと言えば自由だ多様性だと声高に叫ぶがコロナ後には自由を言う人はいなくなった。みんながあっち向けばあっち、こっち向けばこっちと風見鶏的な思想にイデオロギーもクソもない。そこには単に「迎合」があるだけである。

確実に自由にたいする考え方は変わってくる。その時にでてくるのが共産主義。平等である。

実際、共産主義はこと平等においては正しい。ソ連は実現可能性という点においてやるには早すぎたけれど今のテクノロジーがあれば実現可能なところまできている。それは再考されてしかるべきだと思っている。我々は共産主義と聞くと生理的に拒否するけれど、いまのような自由が効かなくなった社会において共産主義の正しさが見直されるようになると思う。もちろん僕自身はまったく共産主義には賛同しないが遠からず現実に働くことがこのうえなく馬鹿馬鹿しいと言われるようになる。その時に資本主義によってつくられた格差が決壊して濁流を生み、一気に共産主義的な平等にのめり込んでいっても不思議ではない。ちょうど、三島由紀夫が言っていたように。一夜にして資本主義者が共産主義者になれるのがこの国の国民性なのだから。

資本主義は格差を生む。それでもベターな制度だと言われてきた。民主主義も同様だ。欠陥はある。しかしベターである、と。しかしなにがベターかを決めるのは環境である。その環境が劇的に変わりつつある。今はその環境に耐えるべき暫定的な時なのか、あるいは耐え切れず社会構造そのものを変えるようになるのかいずれにしろいつか選択を迫られるぐらいにはすでに切迫しているのではないか。

日本の感染スピードが遅いのって社会がすでに壊れてたからじゃないか

最初に

これはまったくの推論です。統計的な裏付けもなにもないので感想程度に読み流してください。

 

社会的な批評なんかを読んでいるとよく、日本社会は共同体がなくなっているといった言説を見つけることができる。実際、少子化が進み恋愛から退却している若者が多いというデータもあるけれど恋愛だけではなく人間関係そのものが薄くなっていることをさして共同体の崩壊と言われる。あるいは個人主義といってもいい。

実際の体感としてもそれはよくわかる。家、会社、たまにいく飲み屋、たまにあう友人、ネットで生活のほとんどが完結していて社会的に横断した人間関係があまりない。業種や職種などによっては仕事の関係でいろいろな人に会う人も多いだろうけれど仕事上の関係は会う人数が多くとも閉じている関係ではある。

ここでいう共同体とはいろいろな人が雑多に入り乱れているような関係のことを言うがそういう場所が日本にはほとんどない。欧米では教会などがあったり他人とフランクに話す文化があるけれど日本ではいきなり他人に話しかけたりするのは失礼だととらえられることが多い。あとはよく言われているようにキスやハグなどの接触度合もあるだろうけれど、そもそも他人と接触する機会自体が日本ではそんなに多くないのでは?というのがこの記事の趣旨である。

 

このような共同体の崩壊は近代日本の負の側面ととらえられることが多い。一人暮らしで毎日仕事と家の往復で食事はコンビニや牛丼屋で済ませるなど日本社会は個人に最適化された社会だと言われる。そうやってみんながバラバラになったという言説はいわゆるゼロ年代の社会批評などに見られるものだけれどそれが「功を奏している」のが今の状況なのではないだろうか。

実際、日本はコロナウィルスにおいてほとんど何も対策をしていない。国民に注意を喚起しているだけで具体的になにかを禁止しているわけではない。韓国のようにドライブスルー検査をしたり中国のようにGPSで行動履歴を追跡しているわけでもない。台湾のようなITによる政策もほとんど行っていない。にもかかわらず日本で感染がひろがっていないのは人と人がもともと会っていないからではないのだろうか。もちろん諸外国と比較すればだが。

そういう疑問を持たざるを得ない。検査数が少ないから感染者数がすくないとか欧米で発生しているのは別種のコロナウィルスだとかいろいろ推論はあるけれど

感染が拡大するような素地=共同体がかなり少ないからなのではないか。

 

クラスターという言葉が最近になって取り沙汰されているが社会学的な言説ではよく見られる言葉である。集団がバラバラに点在していることをさしてクラスター化、タコツボ化、島宇宙化などと言われたりするがいずれにしろ「全体がない社会」だということをさしている。実際その通りで実社会でもネットでも集団は集団内で閉じた関係でいることが多く外部と接触する機会が極端に少なくなってきている。

生活していてもまったく知らない他人と話す機会(ここでは密に話すこと)があまりない。仕事上でクラスターが重なっていても事務的な会話になることのほうが圧倒的に多く接触といえるほどの関係は少ない。

コロナウィルスで発生しているクラスターもバーやライブハウス、病院、大学、ジムなど人間関係が横断し、かつ他人と密に接触するような場所が多い。感染者がその場所に混じることで集団感染しているのが原因だと言われるがそれは逆説的に感染者が混じらない閉じた集団の場合、感染リスクは低くなることをさしている。であるのならば横断的な関係が発生しない集団は少なければ少ないほど感染が広がることもすくなくなる。

たとえば海外だと公園で寝っ転がっていたら知らない人に意味もなく話しかけられることがあったが日本ではまずない。どこにいくにも他人と意味もなく会話することがほとんどない。居酒屋やライブハウスなどそういう場所に行かなければ他人と接触する機会がない日本は個人を尊重しプライベートを大事にするいっぽうで共同体がなくなっている。おそらくそれは間違いない。様々な社会的な批評やデータなど見ても個人は個人で閉じていて集団も属性と目的でつながる集団である点で閉じている。これは近代社会の負の側面としてとらえられることが多い。人間関係が閉じている状態では人にたいする想像力がなくなってしまうというのが理由だ。だから動物的ポストモダンや漂白化された社会、ピュエリリズム(文化的小児病)、コミュニケーション不全などと言われてきた。

しかしコロナウィルスの感染を抑えるのにこれほど効果のあるものもない。感染症を抑えるのには人が人にあわない必要がありその点で日本の個人主義とそれに最適化された社会構造はとても功を奏している。

しかしコロナ後はどうなのだろうかということも同時に考えざるをえない。個人が個人のまま生きていられるのは環境的な豊かさが条件として必要である。90年代以前は個人は個人のまま生きていけなかったので集団をつくり共同体の中で生きていくことが必要だったが物質的に豊かになると共同体をつくる必要性がなくなった。共同体として生きたい人はみんなで生きていけばいいし個人あるいは閉じた集団で生きたい人はそうすればよかった。人類史上でもほとんどはじめて一人で勝手に生きることを許されているのが今の社会だが・・・

しかしコロナウィルスで実体経済へ壊滅的な被害が出た場合にはどうなるのだろうか。個人が個人のまま生きれるほどの豊かさははたして残るのだろうか。それを選択する余裕すらない状態になるかもしれない。おそらく世界的な自粛の流れは長期化するだろう。今までのような状態に戻るにはワクチンができるか集団免疫を獲得するかのどちらかと言われているがどちらも1年でどうにかなるものではない。

感染をおさえるのに個人主義はとても有用だ。しかしその副作用として個人では生きられなくなる状態になった時に僕たちは共同体を見直す必要がある。国による補償が叫ばれているが本来の順序がすっとんでいるのだ。いまこの社会には個人と国しかない(人が数多くいる)。保育園に落ちたらいきなり日本死ねとなることが問題でありその中間としての共同体がないのだ。

そのようにバラバラになった個人をすべて国が助けることは現実的に不可能でありその時に僕たちはいかに個人主義があぶないかを知るだろう。結局のところ人を助けるのは人である。法的な手続きや利権団体の誘導によって右にも左にもブレる行政による支援がいかに脆いか。そして個人と国の間の緩衝材としての共同体がいかに大事か。個人でどうにかなる状態でもなく国にもそんな余裕はないとなればもう共同体のなかで助け合うしかない。そういう環境に遠からずなるのではないかと思っている。

コロナよりもコロナ後の世界のほうが怖い

5ちゃんねるにひきこもり大勝利といったスレッドがたっていた。確かにずっとひきこもっていればウィルスにかかることもなく危険もない。この手の議論は以前からあった。リスクを取るやつは馬鹿だといって冷笑する5ちゃん作法は今に始まったことでもない。海外旅行に行って危険な目に遭った人にたいしてなんでそんな国に行くのか、バイクは死亡率が高く乗っている人は馬鹿だ、恋人なんてつくらないほうがいい、結婚するのもリスクがありすぎるなどゼロリスク信仰とでも言うべき言説は無限に出てくる。これらゼロリスクが極まったものに反出生主義がある。人間は産まれてこなければあらゆる苦痛を感じることもなくリスクをとる必要もないので出産は悪行だといったものだ。

僕達のほとんどは反出生主義には反対するだろう。論理的に説明できる理由などないが子孫を残したいこと、誰かと愛し合いたいことはほとんど本能に近いものだからだ。だから僕達は本能的な感情で反出生主義に反論することを許されている。そしてそちらのほうが多数派だ。

しかしこのリスクと感情的行動のバランスがどこで線引きされているのかというと実際のところかなり曖昧である。反出生主義は極端すぎていまは論ずるに値しない。しかしもっと日常に近い例で考えるとゼロリスク信仰は社会のあらゆるところに侵食している。そしてそれが社会を壊しかねないという兆候はすでに見えている。

たとえば公園で子供が野球などして遊んでいるのは子供が道路に飛び出したり球が近隣の家に当たったりすることから禁止された。結果的にいま、子供が自由に遊べるのは大きな公園や運動場だけになっていて小さな公園から子供の姿は消えた。空地なども法的な弾力性がなくなりルールを過度に守る社会規範のためか使用されているのをここ数年見たことがない。以前は子供は外で遊ぶもの、子供が外で遊びたいという感情がリスクおよび社会規範よりも上位にきていた。あるいは「そういうものだ」という社会的な合意があった。それがいつのまにかリスクだという声に侵食された。

このような例は他にもあり、ホームレスが路上で寝ていることもなくなったり、テレビ番組がコンプライアンスに縛られるようになったり、企業においてもハラスメントを回避するようになった。もちろんこれらはいいことでもある。ただ少なくとも自由からは遠い。ハラスメントは駄目といって上司が部下を口説いてはいけないというルールは自由恋愛からは遠い。そしてなによりもこれらのリスクが周知され社会規範として定着したあとにそれが元に戻ることは絶対にないということである。

 

それは新型コロナウィルスに関しても言える。コロナウィルスは爆発的な感染力を持って人体に感染する。ありとあらゆる接触により感染することから欧米をはじめ外出禁止令が出されているし社会的距離をとるように促されている。人との接触を避けるように世界全体がなっているなかこれはいつまで続くのか、そしてなによりも続いた後にどうなるのかが怖くてしょうがない。

新型のため全世界で免疫を持っている人がいない現在では爆発的な感染力を持っているがこれがインフルエンザのように定着してA型やB型など変異を繰り返すことで恒久的なウィルスとして定着した場合、僕達はどの段階で人に感染させてもいいから人に会いたいという感情を取るようにできるのだろうか。

新型コロナウィルスは潜伏期間が長く無症状の人もいるため全員が媒介者となりうる。ゆえに全員がリスク要因となる。ワクチンができてもそれは変わらないだろう。全人類が免疫を持つかウィルスを封じ込めるかしかないが封じ込めは猫や虎にも感染が確認されていることから難しい。仮にインフルエンザのように変異を繰り返した場合、インフルエンザのように共生していくしかなくなるわけであるが問題は僕達がいまこうしてゼロリスクで生活しているのを「記憶していること」である。

インフルエンザでも毎年何万人と亡くなっているがそれは昔の公園の状態に近い。子供は公園で遊ぶものだと思っていたのと同じようにインフルエンザはあるものだと思ってリスクを許容しながら生きている。しかしコロナウィルスに関しては違う。コロナウィルスを人にうつしてはならない、無症状でも自分が感染者かもしれないという記憶はいつまでも残り続ける。であるのなら人と接触することは常にリスクであり社会的なマナーとして人と会う時は距離をとるかマスクをつけるか・・・あるいは人と会わないほうがいいのではないか、となる。人と会わないのは極端だが人との距離をとるべきだというマナーは頭の片隅に残り続けるだろう。

 

そこで忘れてはいけないことは僕達がいま自粛しているのは医療崩壊を防ぐためだという目的意識である。それを強く意識すべきだと思う。「ウィルスをうつしてはならない」という意識だけでいればコロナ後の世界が壊れてしまうだろう。ウィルスをうつしてはいけないはそれはそうだがそんなゼロリスクで生きれるほど僕達は論理的にできてはいない。いまこうして自粛しているのは「医療崩壊をおこさないために暫定的措置として絶対に他人にウィルスをうつしてはいけないのと同じく自分もかかってはいけない」が目的である。

処置できない患者が増えると死亡率があがる。それが、いやそれだけが問題である。ウィルスがでてきたのはしょうがない。変異するかどうか共生するようになるのかわからないがそれによって僕達の関係性を毀損してはいけない。ゼロリスクにはならない。してはいけない。なぜなら僕は公園で遊べなくなった子供のことを不幸だと思うからだ。また公園で遊ぶそのためにいまこの瞬間の目的意識の確認とコロナを忘れる準備をすべきだと、そんなことを思う。