メロンダウト

メロンについて考えるよ

公立中学校は動物園~大人の物差しで子供を測るのはやめたほうがいい~

はてな民の美辞麗句にはもう何も思わないのだけど公立中学は動物園だと思うよ。そしてそう言うことは差別ではないよ。経験論を一般論に置換することは差別だけど一般論で経験論を批判することも暴力だよ。あるいは一般論で語れないことを一般的に語ることも暴力だよ。

いわゆる差別論で通用するものではないと思う。公立中学校は。

anond.hatelabo.jp

経験として認知が歪むことは誰にでもあってミソジニーにしろフェミニズムにしろ右翼にしろオウム真理教にしろ偶然そうなっただけといえばそれまでの話でしかなくて、公立中学出身者があそこを動物園だというのにも一定の正当性がある。それはいわゆる差別反対といった「定形的思考図式」にあてはめて考えられることではないし考えるべきでもない。

というか公立中学校が動物園というのは個人の経験の範疇で言えば真実なんですよね。

自分も公立中学出身で小さい頃は背も小さくてイジメだかイジられだかよくわからない立場で生きてた。体操服に唾を吐きかけられたこともあったし給食の残飯(キャベツの千切り1玉文くらい)を罰ゲームと称して食べさせられたこともあった。ちなみにその残飯は放課後までに食べるというルールで食べきれなかったら5人ぐらいからケツキックだった。最終的にそのキャベツは全部トイレに流して事なきを得た。農家さんごめんなさい。あとは体育の時間などにズボンを脱がし合うのが慣例化していて女子の前でパンツごとズボンを下ろされたこともあった。

公立中学が動物園はある程度真実だと思っている。経験的にそう思う。すくなくとも大人が考える「縦の多様性」なんていう美辞麗句で図れるような場所ではなくて闘争の場所という側面が強かった。すくなくとも自分にとっては。こう書くと自分が被害者みたいな感じがして誠実ではないと思うのであえて書くと僕自身もそこに適応して生きていたし他人のズボンを脱がしたこともある。寝そべった子供の上にどんどん乗っかっていくという遊びが問題になったことがあるけど僕も参加したことがある。

そういう動物的適応を強制させられる環境的権力及びアーキテクチャーが存在している場所なので何も知らない子供にとってそこは多様性なんて代物で考えられる場所ではない。なので公立中学で多様性が学べるなんて何を言っているのだろうかと思う。もちろん自分が通っていた公立中学の家庭環境も千差万別だった。プレハブみたいな家に住んでいる人もいれば医者の息子もいたし大地主の娘もいた。しかしどこから来ようが子供は全員子供であって人格的な差異を確認できるほど成熟しておらず、多様な人が集まる場所という感じはまったくなかった。子供という弱い動物がいっぱい居る。ただそれだけの場所だった。

とはいえまったく楽しくなかったというと嘘になる。そういう純粋な自由をフルに開放して動物的感情と共に生きるのは振り返ると非道いものだったけど同時に楽しくもあった。良い友だちもいたし良い先生もいた。だから良い思い出ももちろんある。

しかし振り返るに楽しかったけど「楽」ではなかった。高校大学は受験して運良く合格できて偏差値がぜんぜん違う学校にはいったけどこんなにも楽さが違うのかと思ったことを覚えている。あの闘争はなんだったのかと。

 

なので自分の子供をそこに入れたいかと言われるとかなり考えてしまう。それが例のブコメで書かれている通りなのだけど

naga_yamas まぁこんなウダウダ書かなくても公立中出身者ならあの動物園に通わなくていいってので十分良さはわかるよ。

2020/12/08

僕もよくわかるよ。公立中出身者にしかわからないと思う。というか多様性が通用するような場所ではないことは普通わかりそうなものだけど、あそこを多様性の場所だと認識できることに驚愕というか世界の分断を感じる。

 

多様性という概念は大人になって相応の認知の上にたつ概念であって子供はそんなこと意にも介していない。まだ人格的な成熟もしておらず右も左もわからない子供は偶然放り込まれた場所で適応しようと頑張るだけで他人と自分を切り離して考えるような多様性で物事をはかるようにできてない。嫌なものは嫌、嫌な人は嫌、嫌だからいじめる、嫌われるからいじめられる。そういう動物的感情によってまわっているのだから動物園だというのは間違っていない。なのでなんでこの問題が差別や多様性の問題になっているのかがわからないのだ。動物はただしたいようにするから動物なのであってただしたいようにいじめる子供を動物と呼ぶのは間違っていなくてそういう子供がいる公立中学が動物園だというのも同様に間違っていないだろう。もちろんそれは公立中学校という「環境にたいする認知」の話であって大人になった公立中学出身者を差別するのは許されることではない。そう分けて考えるべきだろう。人は人として生まれてくるのではなく教育によって人になるのであって子供を一人の人間として扱うのは生理的な条件を無視している。もちろん子供にも人権はあって動物と呼称するのが適当とは言えないかもしれない。しかし動物的側面が強いことは間違いない。それは大人が考える物差しではかれるものではない。

 

というか公立中学が動物園であればエスタブリッシュ層の子供もまた同じように動物なのであって大人が考えるように子供は生きていないし生きることもできない。ゆえん偶然に左右される弱い存在で公立中学に入れていじめにあって不登校になることもあれば私立中学に入れてエリート思想に染まった嫌なやつになることもある。

 

まあなんというかそう考えると人生ってリスクだらけだなと素朴に思う。生きてるだけでほとんど奇跡みたいなもので、なのでとりあえずみんなよく生きてきたおつかれと、それでいいんじゃないですかね。

 

不健康で不潔で、道徳的な秩序ないアル中カラカラ

ニコニコ動画で主に料理動画(料理と言っていいのか定かではないですが)を配信しているアル中カラカラさん。現在更新停止中。半年前ぐらいに知って見ているのですがとても痛快な気分になる。

 

 なぜなんだろう。すべてがどうでもよくなるというか人生なんてこんなもんだよなとか脱力するような感覚を覚える。このブログではちーちーぱっぱ考えて語ってみてはいるものの生き方の軸足で言えばアル中カラカラさん側の人間なんだよね。私も。

どうでもいいことが世の中には多すぎると思ってるし実際どう生きようが誰の知ったこっちゃないし正しさなり思考なりは社会的条件みたいなもので社会なんて人生の一側面に過ぎなくて、だから自由を謳歌している(ように見える)アル中カラカラさんを見てると時に社会の側に立ちすぎてしまう自分を人生側に引き戻してくれるような、そんな感覚になる。僕たちはあまりにも社会人をやりすぎてるような、たぶん問題はそういうところにある気がする。自由とはつまり狂うことであるようなそんな気になる。

いわゆる「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」を僕達は生きなければいけない。しかし当然ながら僕達は元来個々の人間であって社会の一員としての側面とそうではない私人としての人生がある。

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

 

公的存在としての人間、私的存在としての人間、そして動物的存在としての人間に分けられると思うけれどどうにも僕達は動物的に生きることが難しくなってしまった。たぶん歴史上でも類を見ないほどに動物的に生きることが難しい。それはシロクマさんの著書に書いてある通りだと思うけれどそれを解除するのがおそらくアル中カラカラさんのような「狂気」なのだなと。そんなことを思った。

 

動画を見てもらえば一瞬でわかると思うけれどはっきりと狂人なんですよね。アル中カラカラさんは。40度の角ハイと炭酸水を1リットルのジョッキに1:1で割って入れ一気に飲んでいるけど常人なら急性アルコール中毒になってもおかしくない飲み方で、だから絶対に真似してはいけないのだけど

そういう常識の埒の外にいる人は存在として痛快なんですよね。これだけいろいろなことを要請される社会でお酒の飲み方もある種の作法のようなものが求められる。そういう世の中でそれを完全に無視しているのを見ているのはアナーキズムに近く、自由とはつまりこういうことなのかもしれないとすこし深いことまで考えさせられる。

コメントで抗うつ作用があるとも書かれているけど実際あると思う。人生なんてなんでもいいんだよと直接言っているわけではないのだけどそう伝わってくる。もう一度人間として自由になるというか人生や思考をリセットするみたいなそういう作用がおそらくはある。うつ病だけでなく適応障害などもそうだと思うけれど社会との不和の結果としてそういう病気になることは理由として多分にあるわけでそういう社会観をリセットする薬として作用する効果はありそう。

 

 夢だとか愛だとか幸せだとか真面目だとか正しさだとかそういう諸々を追いかけてみんな奔走するけどそういうのは後付けに過ぎなくて本来の人間なんて酒飲んで狂って踊るだけの存在だよと、あまり真似したくはないけどそういう「原理的人間観」みたいなものを想起させてくれる存在としてとても癒されるのだと思う。

 

動画の内容的には癒されるような要素はなにひとつとしてなくてきったない畳の上でめちゃくちゃな料理をきったない咀嚼音をたてながら食べるというただそれだけの動画なのだけど、それが社会にたいする強烈なアンチテーゼになっているのだよね。逆説的というかなんというか健康で清潔な社会に我々が生きているからこそ不健康で不潔なものを見て癒されるのだと思う。

一言で言ってしまえば自然を見て癒されるのと似ている気がする。家の中のほうが快適なのに登山やキャンプに行って見る自然のほうが癒されたりする。

アル中カラカラさんも自然に近いのだよね。別の生き物を見ているようなそんな気がしている。山の中でタヌキが歩いているのを見つけた時のような感覚になる。動物と人間は全然違う生活をしているわけだけど僕達は動物を見た時に瞬時にそれが別の生き物だと判断して動物が自由に動き回るのを楽しむことができる。人間が人間を見る時はその限りではなく経験的な認識論の範疇で他人を判断してしまいがちでそうなるとたぶん自由が毀損されることになる。いかに自然な動物としての人間を取り戻すかとかそんなことを考えるようになった。

とても人間とは思えないアル中カラカラを見ていると。

 

以下面白かったのを貼っておきます。

 

 

不倫報道という差別はなぜ許されているのか

報道そのものに関してはすごくどうでもいいのだけどアンジャッシュの渡部さんが謝罪会見をしたみたいだ。

この手の不倫バッシングみたいなものはもはやメディアの格好のネタ扱いされてるわけだけど、これだけ不倫やら大麻もそうだけど何か起きた時にバッシングされれば逆説的に誰も真面目に生きようなんて思わなくなるのではないだろうか。

不倫報道前の渡部さんのイメージは清廉で真面目な男性といったものであった。そのイメージのせいで不倫していたと報道された時のバッシングは過熱した。もともとあった真面目なイメージとのギャップがわざわいした形になっている。たとえば同じ芸人でクロちゃんが不倫していたと報道されたとしてもここまでバッシングされはしないだろう。

渡部さんのように真面目に生きた結果、下手をこいた時に損をするのは不倫報道だけではなくそこかしこで見られるものだけどこうなると真面目に生きるのが馬鹿馬鹿しくなってもおかしくはないだろう。 真面目さなんて悪徳だと、そう考えられてもおかしくない。

 

最近、この手の叩いていい人間を形式的な価値観で叩くのがものすごく流行っているが、一方で属人的なレベルで考えればこれだけ真面目さが重要視される世の中であればあるほど不真面目なセルフイメージを持たれるほうが良くなっている。有名な方であればあるほどそうで真面目な人間はより真面目な世論に叩きつぶされていく。僕達が人間である限り形式的な真面目さを完璧に実行することは不可能なので戦略としては不真面目さが露呈した時にダメージが少なく済む生き方を選ぶのが最適解となるだろう。つまり最初から不真面目でいたほうがよくなってしまう。

それは芸能人だけではなく一般にも言える話だと思っている。なので時にそういう真面目さ(一般的及び理想的人間像)の枠外にいる人がうらやましく思ったりする。LGBTの方だったりマイノリティーとしての差別を受けることはあってそれが大変なのは想像に難くないのだけど、世の中にはマジョリティーへの差別もあってマジョリティーはあまりにも軽々しく一般性を求められる。不倫をしないだとか浮気をしないとかが典型的だけどそういう真面目さを要請する圧力みたいなものはマジョリティーのど真ん中にいる人ほど受けやすいことは間違いないだろう。そういう意味ではマイノリティーの人のほうが生きやすいのではないかと、そう思ったりもする。

 

以上のような構造を個人のふるまいに還元すると、マジョリティーへの差別から逃れるために狡猾に立ち回るほうが得になったり社会が真面目さを要請すればするほど逆に(不真面目に)生きようとする人が出てくる。他方では社会の真面目さを真に受けてポリコレなりなんなりに染まって形式的な人間を演じる人も出てくる。

つまりある極端な価値基準を社会に設定した時にどちらもが先鋭化して分断してしまう。どうでもいいことをどうでもいいと言う大切さみたいなものが必要であって不倫報道もそうだけどプライベートなことにまで外圧を入れて生き方を定義するのははっきりとやりすぎではないだろうか。

そうやって真面目さという外圧で人間を押し込むとそれに窮々として閉塞感を感じる人が出てくる一方で、その外圧から逃げ出す人も出てくる。どちらを選ぶにしろそれはあまり好ましいこととは言えないだろう。

 

 

この手の形式主義的価値判断の何が問題か一言で言ってしまえば単に想像力の問題ではないだろうか。たとえば渡部さん佐々木さん夫妻がそういう多重恋愛を前提として結婚していたとしたら問題ないとも言える(実際にそういう人はいる)。もしくは渡部さんがポリアモリーで複数の人を愛するようなマイノリティーであれば不倫を叩くこと自体が差別と言える。単純な価値判断が通用しないかもしれないものは特にプライベートなものにはたくさんあってそれを不倫=悪といった図式で叩くこと自体が差別に近いと思うのだけどなぜそういう論調にならないのだろうか。単一異性愛者同士の恋愛であれば不倫は不貞行為だけれどそうではない可能性も世の中にはあってそれを形式的にたたくのは異性愛者ではないLGを叩くのとまったく同じ行為になりかねない点で差別にあたる。

以上のような観点から不倫報道やその論調を見ていると差別をなくそうなんて本気で考えて理念的にとらえている人はほとんどいないのではないか。そう思えてくる。LGBTは尊重しなければいけない、障碍者は敬わなければならないなど具体的に周知された段階においてしか差別がなくならないのであれば理念的なレベルにおける差別がなくなることは永久にないだろう。差別の具体性をあげつらっても差別心が無くなりはしないのにやたらと差別の具体性をとりあげる。

LGBTの場合には彼ら彼女らはマイノリティーとして尊重しろと社会は要請するしそれは必要なことだけれどその実、その要請及び情報がいきわたればいきわたるほどに人間の想像力は怠惰になっていくのではないか?

なぜなら僕達はなんでも検索して済ませようとする。LGBTは検索にヒットしたから非難すると差別にあたり不倫は差別の問題ではないと情報により差別が振り分けられていく。しかし当然ながら検索にかからないような差別もある。

つまるところ僕達は情報を利用することがあまりにも習慣化しているため情報にヒットしないことは無い事として扱ってしまう。

そして検索に依存し、思考をやめて想像力が欠如した結果、不倫のような差別の俎上にあがっていない問題は全力で差別していくことになる。

だから不倫報道は地獄めいている。不倫ぐらいでとか寛容な社会とかそういうことではない。

不倫報道は

1:人々を真面目と不真面目に分断する点で愚かである

2:差別の温床になっている点で愚かである

3:人々は理念的な意味においてはLGBTを差別していたころよりも怠惰になり想像力が欠如して以前よりも差別心が強くなっていることを暴露している点で有用である

 

終わりです。