メロンダウト

メロンについて考えるよ

不倫報道という差別はなぜ許されているのか

報道そのものに関してはすごくどうでもいいのだけどアンジャッシュの渡部さんが謝罪会見をしたみたいだ。

この手の不倫バッシングみたいなものはもはやメディアの格好のネタ扱いされてるわけだけど、これだけ不倫やら大麻もそうだけど何か起きた時にバッシングされれば逆説的に誰も真面目に生きようなんて思わなくなるのではないだろうか。

不倫報道前の渡部さんのイメージは清廉で真面目な男性といったものであった。そのイメージのせいで不倫していたと報道された時のバッシングは過熱した。もともとあった真面目なイメージとのギャップがわざわいした形になっている。たとえば同じ芸人でクロちゃんが不倫していたと報道されたとしてもここまでバッシングされはしないだろう。

渡部さんのように真面目に生きた結果、下手をこいた時に損をするのは不倫報道だけではなくそこかしこで見られるものだけどこうなると真面目に生きるのが馬鹿馬鹿しくなってもおかしくはないだろう。 真面目さなんて悪徳だと、そう考えられてもおかしくない。

 

最近、この手の叩いていい人間を形式的な価値観で叩くのがものすごく流行っているが、一方で属人的なレベルで考えればこれだけ真面目さが重要視される世の中であればあるほど不真面目なセルフイメージを持たれるほうが良くなっている。有名な方であればあるほどそうで真面目な人間はより真面目な世論に叩きつぶされていく。僕達が人間である限り形式的な真面目さを完璧に実行することは不可能なので戦略としては不真面目さが露呈した時にダメージが少なく済む生き方を選ぶのが最適解となるだろう。つまり最初から不真面目でいたほうがよくなってしまう。

それは芸能人だけではなく一般にも言える話だと思っている。なので時にそういう真面目さ(一般的及び理想的人間像)の枠外にいる人がうらやましく思ったりする。LGBTの方だったりマイノリティーとしての差別を受けることはあってそれが大変なのは想像に難くないのだけど、世の中にはマジョリティーへの差別もあってマジョリティーはあまりにも軽々しく一般性を求められる。不倫をしないだとか浮気をしないとかが典型的だけどそういう真面目さを要請する圧力みたいなものはマジョリティーのど真ん中にいる人ほど受けやすいことは間違いないだろう。そういう意味ではマイノリティーの人のほうが生きやすいのではないかと、そう思ったりもする。

 

以上のような構造を個人のふるまいに還元すると、マジョリティーへの差別から逃れるために狡猾に立ち回るほうが得になったり社会が真面目さを要請すればするほど逆に(不真面目に)生きようとする人が出てくる。他方では社会の真面目さを真に受けてポリコレなりなんなりに染まって形式的な人間を演じる人も出てくる。

つまりある極端な価値基準を社会に設定した時にどちらもが先鋭化して分断してしまう。どうでもいいことをどうでもいいと言う大切さみたいなものが必要であって不倫報道もそうだけどプライベートなことにまで外圧を入れて生き方を定義するのははっきりとやりすぎではないだろうか。

そうやって真面目さという外圧で人間を押し込むとそれに窮々として閉塞感を感じる人が出てくる一方で、その外圧から逃げ出す人も出てくる。どちらを選ぶにしろそれはあまり好ましいこととは言えないだろう。

 

 

この手の形式主義的価値判断の何が問題か一言で言ってしまえば単に想像力の問題ではないだろうか。たとえば渡部さん佐々木さん夫妻がそういう多重恋愛を前提として結婚していたとしたら問題ないとも言える(実際にそういう人はいる)。もしくは渡部さんがポリアモリーで複数の人を愛するようなマイノリティーであれば不倫を叩くこと自体が差別と言える。単純な価値判断が通用しないかもしれないものは特にプライベートなものにはたくさんあってそれを不倫=悪といった図式で叩くこと自体が差別に近いと思うのだけどなぜそういう論調にならないのだろうか。単一異性愛者同士の恋愛であれば不倫は不貞行為だけれどそうではない可能性も世の中にはあってそれを形式的にたたくのは異性愛者ではないLGを叩くのとまったく同じ行為になりかねない点で差別にあたる。

以上のような観点から不倫報道やその論調を見ていると差別をなくそうなんて本気で考えて理念的にとらえている人はほとんどいないのではないか。そう思えてくる。LGBTは尊重しなければいけない、障碍者は敬わなければならないなど具体的に周知された段階においてしか差別がなくならないのであれば理念的なレベルにおける差別がなくなることは永久にないだろう。差別の具体性をあげつらっても差別心が無くなりはしないのにやたらと差別の具体性をとりあげる。

LGBTの場合には彼ら彼女らはマイノリティーとして尊重しろと社会は要請するしそれは必要なことだけれどその実、その要請及び情報がいきわたればいきわたるほどに人間の想像力は怠惰になっていくのではないか?

なぜなら僕達はなんでも検索して済ませようとする。LGBTは検索にヒットしたから非難すると差別にあたり不倫は差別の問題ではないと情報により差別が振り分けられていく。しかし当然ながら検索にかからないような差別もある。

つまるところ僕達は情報を利用することがあまりにも習慣化しているため情報にヒットしないことは無い事として扱ってしまう。

そして検索に依存し、思考をやめて想像力が欠如した結果、不倫のような差別の俎上にあがっていない問題は全力で差別していくことになる。

だから不倫報道は地獄めいている。不倫ぐらいでとか寛容な社会とかそういうことではない。

不倫報道は

1:人々を真面目と不真面目に分断する点で愚かである

2:差別の温床になっている点で愚かである

3:人々は理念的な意味においてはLGBTを差別していたころよりも怠惰になり想像力が欠如して以前よりも差別心が強くなっていることを暴露している点で有用である

 

終わりです。