メロンダウト

メロンについて考えるよ

無敵の人などいない。はっきりとそう言うべきだと思う。

無敵の人などいない。はっきりとそう言うべきだと思う。
 
最近、京王線の事件を皮切りにテロ行為に近い事件が起きている。また、無敵の人と関連して社会のサスティナビリティーが話題でもある。たにしさんとシロクマさんが書いていた記事を読み、事件を見て、すこし無敵の人とやらについて考えてみたい。
結論から言えば先に書いたように無敵の人などいない。そう考えている。
 
一般に無敵の人と呼ばれる人が行う犯罪といわゆるテロリズムは違うことをまず確認しておきたい。同時多発テロやISISといったイスラム原理主義者が行うテロは宗教性が強い。アメリ同時多発テロで飛行機をジャックした人間もグローバル・ジハードの御旗のもとに救済されると信じていたと言われている。ISにおける少年兵に関しても幼少期から「そういう人間」に仕立て上げることで戦闘員になっていく。行為の残虐さとは別に彼ら彼女らは世界や他者と交わる思想を持ち、関係性に殉じている。アルカイダやISといった人々は「間違った関係性」の果てにテロ行為にはしる人々であるが、日本におけるテロはすこし様相が違う。
日本でもテロ事件はたくさん起きているけれどよほどサディスティックな個人でない限り、事件を起こす人物を定義するとすればほとんどの人が孤独であるということだと思う。中東における関係性のテロとは違い、日本では関係性の喪失によりテロに走る人々がいる。それはたとえば京王線で事件を起こした犯人が「人間関係がうまくいかなかった」と供述していることもそうであるし、古くは秋葉原通り魔事件の犯人も唯一の居場所であった携帯掲示板になりすましが現れたことが犯行の動機だと述べている。日本ではオウム真理教以降、関係性によるテロはほとんど起きておらず、無差別の人を狙った犯罪はほとんどが孤独を原因としたものである。
テロ行為だけを取り上げて社会を語ることはあまりにも拙速ではあるけれど、いわゆる個人主義が加速していった社会環境とテロ行為は連動しているように見える。オウム真理教における地下鉄サリン事件が起きた時にはまだ個人主義化はそこまで進行しておらず、携帯電話などの個人に特化した連絡手段も普及していなかった。良きように言えば共同体が残っていた時代ではあるけれど、ゆえに関係性が暴走した宗教テロも起きたと言える。しかしそうした関係性が消失していくと僕達は個人になった。あるいは個人ー個人の関係でしか繋がらなくなった。関係性は個人の目的に純化し、関係性が人を繋ぐのではなく人が人を選択し関係するという逆転現象がつまり近代個人主義社会だと言えるだろう。
 
 
しかし、しかしである。
僕達は個人では産まれてこない。個人の選択で生まれてくるわけではない。両親、あるいは単親のもとに勝手に生み落とされるのが人間ではある。どんなに幸福な環境に生まれようがどんなに不幸な環境に生まれようが望んで生まれてくる人はおらず、誰もが何も知らず産まれてくる。人は誰しも孤独だという言葉があるけれど、そうではなく、人は誰しもが関係性によって生まれてくる。この点で「生」は予め関係性に組み込まれているとも言える。しかし個人主義が徹底された社会だとこうした「先の関係性」は出生の瞬間にしかない。昔のようなコミュニティーに特化した社会であれば生き方すらも関係性に埋め込まれていたものであるが、ほとんど全員が自由に生き方を選んで良い個人主義社会になると関係性そのものをなくした瞬間に「どうして良いかわからなくなる」のだろう。
自由主義というのは出生が選択的ではない以上、不完全なものである。自由は実存を捉えない。それでもなお自由に生きていかなければならないけれど、「自分が選んで生まれてきたわけではない」という原理原則にかえると、孤独になった瞬間、なにがしかの関係性に意味を見出すしかなくなるのだろう。普段は所与の連続した関係性の中でそれを生きる意味だと考えているし、自由という名の元にそうした後天的な関係を幸福だと疑いなく信じている。しかしそうした関係性から離れた瞬間、ゼロから関係性を決定するしかない。なんの関係性も持たなくなった瞬間に自由の危機が実存を襲い、出生時の何も知らないゆえに何も大事ではない状態に帰ることになる。
人間を規定することは時に暴走した関係性を引き起こしIS的なテロに走ることがある。しかしいま僕達が直面している危機は違う。それは自由という「何も言われない」「何も規定されない」「何も大事ではない」「何をどうしても良い」状態に原因がある。何をどうしても良いというのはテロを起こしても良いということと同義ではある。自由とはつまりテロを起こしても良いと書くと批判されるだろうけれど、仕事や人間関係の中で生きている僕達は自由の原義的な意味を実のところ何も知らないのではないだろうか。自由とは語義そのままに捉えれば赤子をそのまま肯定することであり、赤子が大人の力を持った瞬間にどれほど危険であるかは想像に難くない。
 
そして、こうした自由の危機に直面した人が抱える最大の問題は出生と違い「先の関係性」がないことなのだろう。生まれてきた時には両親の言うことを聞いていれば良いけれど、大人になって孤独になってももう両親はいないのだ。関係性によって規定されるべき「生」が真の意味で自由になることでテロすらも肯定しかねない。
 
僕達が生まれてきた瞬間を覚えていないように、僕達は自由が意味するところを想像することすらできない。おそらく、テロ行為に走る人の心理も本当のところわからない。社会環境や人間関係といった要素により分析はできるだろうけれど当人がどういう心理状態であるかは肌感としては知りようがない。言ってしまえば自我以前の状態に戻ることに近いはずで、それは想像することはできても実感としてはわかりようがないと思う。
こうした言説はテロリストにたいして同情的に過ぎる見方と言われるかもしれないし、実際に事件を起こした人が関係性から完全に見放されているとは言えないケースもあるだろう。しかし秋葉原通り魔の加藤がそうだったように、とてもささいなきっかけで瞬間的に完全な孤独に没する人もいるのだと思う。日本ではまだ社会的な空気の圧力が強く、「先の関係性」は自明なものとして機能しているとも言えるけれど自由には危機がつきまとっている。それを加速させればテロの危険は前近代とは逆の意味で加速することになるはずだ。それには注意してしかるべきだろう。
 
こうした大人の暴力を未然に防ぐのには社会的包摂が必要でところかまわず「あなたは一人じゃないよ」と伝えていく必要がある。たぶん僕達にできることはそれだけだと思う。今更自由を手放して前近代的ムラ社会を復活させるのは不可能であるし、良いこととも言えないであろう。それでもなお共同性や関係性を手放したことで迎え入れた新たな危機を僕達は直視しなければいけない。そのように思う。
無敵の人といった呼称でテロリストを社会の外に位置付けることは容易いけれど、前近代のテロリストのような偶然の関係性によってテロに走る人とは違い、みなが自由を内面化している社会にあっては、関係性から見放された瞬間にテロリストになる可能性を誰しもが持っている。
 
ゆえん無敵の人、などいない。自由主義社会にあってみなが「無限に開かれた生」を生きており、それを規定するものが希薄になっている限り、誰しもが「赤子の無限性」「真の自由」に帰る可能性がある。無宗教とはつまり無規定な生をそのまま肯定することであるが、宗教の残滓がある今はまだそうした危機が少ないのかもしれない。しかし自由がこれ以上行き過ぎると一気に逆に振れてもおかしくはないであろう。その始まりが昨今の一連の事件だと、そう思い返す日がこないことを祈りたい。
 

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※たぶんこうした「なんでもありの実存」ゆえに社会のサスティナビリティーも危機に陥っているのだと思う。自由が出生の関係性を忘れさせるという意味で。けどちょっと長くなったので別の記事で書けたら書こうかなと思います。

かつて自由だったインターネットからの応答

かつてインターネットに居場所を求めていた人はどこに向かうのかみたいなことを最近考えている。
インターネットの原風景といえば各人で違い、パソコン通信2ちゃんねるmixi・ブログ・SNSなど時代によって異なるけれどブログ以前の世代に関して言えばインターネットは現実のオルタナティブだったということなんですよね。そんなことはもう各所で言われてきたことで、今更ここで書くまでもないけれど、最近はネットがどういった場所であるかがあまり語られなくなってきた。誹謗中傷の問題にしてもようするにネットと現実は直列に繋がっており境目がないため、現実の礼儀作法をネットでも適切に使いましょうと言われている。インターネットと現実がシームレスになったため、もはやインターネットがなんたるかを語ることが意味をなさない時代になった。現実とインターネットは同じ。それが最終回答であると。しかし、はたしてそれで良いのだろうかという疑問があるのだ。
 
誹謗中傷が駄目なのは当然ではあるけれど、そうした議論とは別にインターネットと現実はそのインターフェイスがどうしようもなく違う。身体を伴わないコミュニケーションではノンバーバルな領域での共鳴もないし、現実よりもストレートなコミュニケーションになりがちである。そうした差異を棚上げし、現実とインターネットを同列に扱うことが正しいインターネットであると言うが、はたしてそうなのだろうか。
むしろ本来違うものを同じこととして扱うから妙な捻じれが起きて様々な問題を生んでいるように感じている。それはデジタルネイティブにはわからないことであり、ネット黎明期の風景を知っている人が声を上げるべき問題のように思うのだ。かつて自由だったインターネットと今のインターネットの差異を議論し、ネットの特異性をどこに求めるかという議論はもっとなされて良いし、なされるべきであろう。
現実とインターネットの峻別をどうするかというのは古い問題でありながら新しい問題であると、そう捉え返したほうが良いのではないだろうか。
 
デジタルネイティブと呼ばれる世代が出てきてインターネットをナチュラルに使う人が出てきたのでそれに合わせていくのが正しい社会であるという暗黙の合意により、いつのまにかインターネットは現実と同じものとして扱われるようになった。あるいはプラットフォーマーがネットを席捲しはじめたことにより僕らは全体化せざるを得なくなった。全体化すれば当然秩序が必要になり、そこで持ってくる秩序が現実のそれであるため、結果的にネットは現実と同一化した。
しかし若者やプラットフォーマーの言うことが正しいというのはほとんど思考放棄に近い。選挙の時にも「政党は若者を向いて政治を行え」という言葉をよく見たけれど、「新しい人・物が正しい」というのは社会をどうデザインするかという問いを放棄しているに等しい。海外のプラットフォーマーに迎合することもGHQのころからたいして変わっていないとも言える。「もはやインターネットは現実と同じ」という若者及び世界の自明性を全世代に適応するのは(今更すぎる話ではあるが)ものすごくラディカルで危ういもののように思う。今こそインターネットをインターネットとして見つめ直すべきだと、個人的には感じている。
 
なぜこうした話を蒸し返す意味があるのかというと、結局誹謗中傷の問題もインターネットの全体性と同一性に問題があるように思うからだ。たとえばブログに関して言えばコメントをつけられたとしても個人の発言以上のものにはならない。個人の発言は個人のものとして処理される。しかしいいねやリツイートが実装されたツイッターはじめSNSではそれが無限に拡散され全体化しているように見えてしまう。これが誹謗中傷の最大の問題であるように思う。ネットが現実と同一化すれば現実と同じように相手の発言を受け止める必要があるし、批判や誹謗中傷にいいねがついて拡散していれば「世界に嫌われている」と思ってもおかしくはない。もちろん何十万と誹謗中傷が飛んでこようが世界に嫌われているなんてことはありえないわけだが、世界に嫌われていると見えてしまう僕達の心理はなぜ発生するのか、それを考えたほうが良い気がしている。ものすごく簡単に言えば被害者がそれを被害と感じなければ良いのだが、被害者の心性にまで踏み込んだ話を「することすらできなくなってしまった」のが今のインターネットである。
誹謗中傷された時に言葉を「語義そのまま」に捉えてしまう僕達のインターネット観は心理的なセキュリティーとしてあまりにも無防備なのだ。それをプラットフォーマーや加害者の更生によって解決しようとするのがたとえば「この指止めよう」といった運動であるわけだが、加害者への断罪ばかりが言われた結果、被害者のあるべき姿(つまりインターネットの使い方)を語れなくなったのが今のインターネットだとも言える。
 
インターネットと現実を同じように使うべきだというのはつまりインターネットで言われたことは現実と同じように受け止めろということである。そのような「コミュニケーションの直列性」によって誹謗中傷すらもストレートに受け取る心理に、皆ならざるを得なくなった。賞賛は現実と同じように受け止め、誹謗中傷は誰か知らない人の戯言と切り分けて考えられるほど僕達は都合よくできていない。加害者のほうばかりを問題にしがちではあるけれど、被害者の認知構造にまで踏み込んで考えたほうが良い。ツイッターYoutubeがもはやインフラと化した世界では難しいかもしれないけれど被害者がネットから離れてしまえば本来問題はないのである。それがインターネットのもともとの特性でもあるのだ。嫌なサイトなら見ない、2ちゃんねるで荒らしがわいたのであればしたらば避難所にいくなど。被害を受けた側が逃げ込む場所を無限につくれるのがネットの良いところでもあった。しかしそれもプラットフォーマーが席捲し、ツイッターなどを使うことがほとんど権利にまでなった今のネットでは無理なのかもしれない。
 
別の意味で言えば相手の心理状態がわからないかつ全体化したインターネットでは、批判すらも誹謗中傷になりかねない。そのため、議論することが難しくなった。2ちゃんねるの政治版のような場所では相手が板にきているという「事前の了解」があったため、誹謗中傷か批判かというのはあまり考えずに済んだ。仮に「おまえ馬鹿か」と言われたとしても接頭語や文句の域を、どこか出なかった。ツイッターでは言った瞬間に人格攻撃になる言葉が「通用」していたのだ。他方、今のツイッターはどうか。世界に開かれた言説しかどこか言えない空気があるのだ。閉じられた言葉で喋っていてもリツイートなどで晒され別のクラスタから批判されるため、全体に通じる言葉を誰もが話さなければいけなくなった。
そのような垣根のないインターネットの全体性の中で主義主張を行うのはもはや不可能になりつつあり、一部の先鋭化した「全体性を省みない集団」の専売特許のようになってしまったのである。政治の話をすることは現実と同じようにピーキーなものになった。
適切な言葉を使い、議論しなければならない。しかし、よく考えてみれば「適切な言葉使いなど気にしないほうが議論になる」のである。主義主張を闘わせる議論は本来、攻撃性の坩堝であり、それが建設的という美辞麗句に回収されていったのは思い返すにここ最近のことであろう。ネットに限らず昔の朝まで生テレビなども、動画などを見るにずいぶん攻撃的な話をしていながら、「かつ成立」していた。それが今やお座敷遊び、「用意したカードを披露するだけの座談会」などと呼ばれるようになった。インターネットも同じようにお互いのカードを披露する座談会のようになってしまい、結果として強いカードを持っているインフルエンサーに議論の影響力が収斂していくことになった。フォロワー数や影響力がことさら重要視されるようになってきたのも、つまるところネットが全体化したことと関係している。ネットが全体化するとはつまり「全体性を行使できる(ほどの数を持った)個人が全体性を規定できるようになる」ということである。
 
こうしたネットと現実の同質化及び全体化みたいな話は様々な問題に言えることだけれど、直近で言えば立憲民主党もといリベラルが選挙で負けたことにも関係している。結論から言えばネットコミュニケーションの直列性がハッシュタグデモという政治活動を生み、コピーライトによって全体化することが政治であるという錯誤を生んでしまった。リベラリズムの細かな議論は吹っ飛ばして反自民を全面に掲げた結果先鋭化し、衆院選で惨敗することになった。こうしたリベラルの失敗も、現実とインターネットが同一化していることと無関係ではないのだ。政治的議論には本来、相応の痛みが伴う。経験と社会は決して一枚岩ではないので、右だろうが左だろうが相応のズレがあり、そのズレを錬磨していくことでなんとか自分は右かな左かなと言えるものである。しかしそうした痛さを回避して通りの良い言葉でハッシュタグを打ってしまえば一直線にポピュリズム全体主義に陥ってしまうことになる。誹謗中傷がいけないことだと言ってつくられたコミュニケーションのピーキーさは、逆の意味で言えば細かな議論や痛みを伴う議論ができない政治空間をもつくりあげてしまった。
 
もっと広い話にすると、インターネットと現実が同一化すれば現実のルールをネットにも適用するようになり、資本主義でネットが慣らされるようになった。2ちゃんねるのまとめブログをはじめ、アフィブログやコピペブログにSEOワードサラダなんてものもあった。検索サイトは汚染され、個人ブログへの導線も少なくなり、ブログのサイドバーに設置されていたリンク集などもいまや過去のものとなりつつある。みなが「全体性の中での個人」としてふるまい、個人が資本主義的に査定されるというのが今のインターネットである。牧歌的なニコニコ動画から配信者に金銭をもたらすYoutubeにユーザーが移るなど、言論・音楽・写真・動画などすべて巨大プラットフォーマーの掌の上で扱われるようになった。そこには当然、資本のルールがはいり、TPOに沿ったもの、コンプライアンスなどが遵守されるよう要求され、ようするに現実とほとんど同じルールが敷かれた。
 
陳腐なことを言えばインターネットは現実のオルタナティブゆえにインターネット足り得ていたように思うが、ネットがオルタナティブではなくなった瞬間にあらゆるところで衆愚化してしまったのだろう。衆愚化などという論調自体が攻撃的で今の「健全なインターネット」では言うことすら憚られるのだけれど、かつてのインターネットはそうしたコミュニケーション空間の健全性からはどこか自由であった。加害も被害もある種のオルタナティブ性を持っていたことで語義をそのまま捉える必要すらなかったのだ。「こんなもの、インターネットは所詮オルタナティブに過ぎない」という共同幻想によってむしろ自由でいられた。しかし今やネットはオルタナティブではない。むしろ現実よりも現実らしく扱わなければならず、立憲民主党がそうしたように「社会の本流とすら勘違いさせる全体性」を持って僕達は対峙しているし、しなければいけなくなった。
どちらが良いインターネットかというのが議論の余地があるにせよ、オルタナティブさゆえに人は自由でいられる。そんな側面がある。現実だってそうだ。家族というある意味で社会から隔離された共同体があるゆえに自由でいられる。それはネットであっても変わることはない。このように考えると家族という概念がないのが今のインターネットで、かつてのインターネットが持っていたオルタナティブさ(家族性)をいかに回復するかが目下問われている社会課題のひとつであると、僕なんかはそう感じている。誹謗中傷をはじめとし、加害被害の二元論から自由になり、政治が政治として屹立することなどネットをどこに位置付けるかを考えることで突破できる問題が山積している。
 
(長くなってきてしまったけれど、もうすこし書かせてください。)
というよりももっと直接的に言えば今般の選挙でリベラル政党が惨敗したのは社会的損失だと考えているのだ。反リベラル的な主張をしている当ブログではあるものの、リベラリズムという思想がネットの全体性に汚染され敗北したのは憂うべき事態だとも考えている。リベラル大敗北などと溜飲を下げて良い問題ではないように思う。
リベラル、自由はインターネットの全体性に負けた。選挙のあとに国民は現実的な投票行動をしたと誉めそやす記事をたくさん見たけれど、それは全体性そのものを肯定する意味において衆愚政治を助長しかねない危険なものであろう。そうした全体性に抗うことがむしろ本来のリベラルであった。制度的に全体化するしかない民主主義が機能するためには自律した個人が必要であるという民主主義の矛盾を解消するのが、「自由主義において個人は独立した個人として尊重され進歩主義において社会に参加するべきだ」というリベラリズムであり、コンサバティブや経済観念だけでは回らないのが民主主義である。にもかかわらず僕達はあまりにも全体化を肯定し過ぎていやしないだろうか。
リベラルは本来、オルタナティブとして必要なものであるはずだ。ネットがオルタナティブを持ち得なくなったのと同じように政治すらオルタナティブを持たなくなった。自民と維新、新自由主義経済政党が3分の2を占めるのはどうあれかなり歪んでいる。それは相当慎重に考えてしかるべき事態ではあるだろう。民主主義をそのまま肯定し、全体性がそのまま社会のルールになるというのは一直線にポピュリズムに着地しかねない危険なものである。保守もリベラルも原義としては政治的に必要なものであるはずだ。
 
自由をなくしたインターネットと自由主義政党が負けた政治は明確に連動している。
こうした事態に抗うために僕達はもう一度インターネットを捉え返すことで、「自由になる裾野」を持つことができるのではないだろうか。無論、かつてのインターネットだって問題がなかったわけではないがすくなくとも自由に書き込め、自由に批判され、あるいは自由に誹謗中傷できたことすらがなにがしかの政治的独立性を担保していた。僕達が自由を手放し、ネットと現実を同列に扱い始めたことで失くしたものはなんなのか、それをもう一度考えてみても良い。
今般の選挙結果から見るべき最も重要な視座は以上のようなことだと考えている。

スフレパンケーキ選挙~衆議院選挙2021感想~

 
スフレパンケーキの作り方を知っているだろうか?まず卵を割り卵黄と卵白を分離する。卵白を混ぜメレンゲにし、別の器で卵黄・ホットケーキミックス・バター・塩を混ぜる。次に両者をさっくり混ぜ合わせ、できた生地を鉄板で焼く・・・そんな選挙だった。
自民党は卵白をメレンゲにするように政策論争を回避しゆるふわ政権のイメージ戦略をとっていた。立憲民主党という卵黄は共産党というホットケーキミックスと混ぜられ、れいわ新選組という美味しいけどカロリーが高いバターが加えられた。そこに追加されたのが社民党という塩である。
それをインターネットという鉄板もとい炎上装置のうえに乗せ焼いていく。ゆるふわスイーツの作り方と酷似していた。
 
冒頭からわけのわからない例を出してしまったけれど結局選挙で分かれ目になったのは各党のイメージ戦略だった。総裁選時の自民党は政策的にはリベラルに歩み寄ったように見えたものの、選挙前になり成長と分配の分配を言わなくなったり、甘利氏を幹事長にするなど安倍麻生路線と変わらない旧来の自民党と同じものであった。あるいは選択的夫婦別姓についても解答を濁したり、岸田総理はリベラルなのか保守なのか判然としないまま選挙戦に突入したのが結果的に功を奏した形になった。政策的には何もいわず、メレンゲのように体積だけ膨張させ無味無臭かつゆるふわなイメージを取っていれば政権は維持できるというなんとも身も蓋もない選挙であった。
それにたいする立憲民主党は匙加減を間違えた形になり、味のバランスがめちゃくちゃになってしまったのであろう。野党共闘が失敗だったのか成功だったのかは議論の余地があるけれど立憲民主党は「都市の食べ物」であるスフレパンケーキをメインとして売り出す形になり、惨敗した。
選択的夫婦別姓に代表されるようなジェンダー問題を選挙の争点にしようとしていたが国民から見ればそれらはデザートに過ぎず、主食を提供しないレストランは国民から見限られる形になった。実際、選択的夫婦別姓はコース料理の一番最後にくるデザートのようなものであり、プライオリティーが低いと考える人は多いであろう。レストランに入る時に期待するのはデザートではなくメインディッシュのほうである。デザートを全面に押し出してもお客さんは来ない。当たり前と言えば当たり前である。スフレパンケーキのような都市の食べ物をありがたがるのは都市の住民だけであり、全国から見ればローカルフードに過ぎない。それを日本人の主食にしようというのは端的に言って傲慢であり、きちんと経済政策・外交安保・憲法改正などをどう料理するか考え、「一汁三菜のバランスの取れた日本食」を提供するべきだった。女性と都市住民に喜ばれるスフレパンケーキは美味しいけれど主食にはならない。それは選挙前からずっと言われてきたことであろう。「インターネットというローカルな世論」に迎合し、女性やマイノリティーといった都市の論理に埋没したリベラルが選挙で勝てないのは投票箱を開ける前からわかっていたことだ。
 
自民党立憲民主党がスフレパンケーキを売り出すことにほくそ笑み、ふわっふわのメレンゲを提供していた。メレンゲを加えることでパンケーキは見栄えが格段に良くなり、インスタ映えする。それにより立憲民主党は党の方針を見誤ってきたのであろう。自民党立憲民主党マッチポンプ的な関係にあり、自民党立憲民主党が選挙戦略を見誤らせるように動き、立憲はまんまと乗っかる形となった。選択的夫婦別姓というデザートの味をどうするかばかりを腐心し、経済政策や安全保障といったメインディッシュは選挙前に動画で紹介する程度に留まった。それにより自民党政策論争を回避し、「ただメレンゲを提供するだけで勝利」できたのである。
 
 
一方、自民党立憲民主党がスフレパンケーキをつくっている中、「そんなしゃばいもの食えるか」という市民の声に応答した形になったのが「たこ焼きを売る維新」である。国民の多くが自民も立民も「スフレパンケーキを売るリベラル」「デザートだけ売るレストラン」と考える中、単体で成立する料理であるたこ焼きは飛ぶように売れた。特に大阪では小選挙区で軒並み勝利し、辻本清美氏が落選するほどの勢いであった。スフレパンケーキはその美味しさとは別に料理の属性としては「東京もん」の食べ物なのだ。あるいは新奇に出てきたあまったるい食べ物であり、伝統性に著しく欠ける。もっと端的に言えば「日本人の舌に合わない」。そのような東京のスイーツと比べるとたこ焼きは安心できる料理なのである。たこ焼きがいかにローカルな食べ物であったとしても、自民と立民が本来提供すべき一汁三菜を提供しないのだからたこ焼きを売る維新にも分があるというものであろう。それは全国にあっても変わることはない。たこ焼きとスフレパンケーキの二択であればたこ焼きを選ぶ人が多いはずだ。
 
 
 
ジェンダー問題を解消することがいかに崇高な理念であっても国民の舌に合わない政治思想は売れないのだ。それは「立民はツイッターを見過ぎている」といった批判からもわかることである。スフレパンケーキが美味しいのはわかるけれどそれを国民的なものにするには「実際に食べてもらう」しかない。インスタやツイッターハッシュタグでは駄目なのである。どんなに綺麗にスフレパンケーキの写真を撮り、宣伝しようとも食べてもらわなければその良さはわからない。リベラリズムを都市の論理から国の論理に拡張したいのであれば実際にスフレパンケーキを地方の人に食べてもらうしかないのである。
立民はツイッターを見過ぎというのはそのような理由で、政党であれ個人であれフィルターバブルの中にいる間は誰もがエコーチェンバーにならざるを得ない。エコーチェンバーが悪いわけではなく、誰もがエコーチェンバーに「ならざるを得ない」のだ。それはネットでもリアルでも変わらない。実際に東京ではスフレパンケーキはよく売れるのであろう。しかしそれはリアルでもネットでも内集団の論理であり、国政選挙のような場合には外集団がどう思っているのかを考える必要がある。都市という内集団に閉じこもってしまった立憲はそこからして間違っていたのだろう。
みながスフレパンケーキを美味しいと言ってくれているからそれをメインに売ろうという内集団の誘惑に負けることがつまりエコーチェンバーの悪しき側面ではないだろうか。
 
それは維新だって例外ではなく、あらゆる政策を考慮してコース料理として提供すべき国政、つまりレストランでたこやきを売ることは望ましいこととは言えないであろう。たこ焼きが崇高な料理であるという大阪の先入観に囚われエコーチェンバーになっているとも言える。立民とは別の形のエコーチェンバーではある。それが今般の選挙では功を奏する形になったけれど維新の政策を全国規模で展開するにはたこ焼きは依然ローカルフードに過ぎないとも言える。緊縮財政のような地方で人気がある政策を国政に採用しても良いかは慎重に考えるべきではある。
 
 
こうした文章はゆえん「ネットと政治の関係」の域を出ず、これまでも散々語られてきたことではある。しかし国民はインターネットを見ているようで見ていないことが今回わかっただけでも各党において収穫なのではないだろうか。きちんと日本食の料理を出してレストランとして成立していることが国政においていかに大事なことであるか、そうした民主主義や憲政のあるべき姿を確認できただけでも充分に良い選挙であったように、個人的には思っている。