女性だけの街の政治的危険性~差異が生む多様性について~
女性だけの街、というか極度に同質性を高めた街を構想する人の人間観はどこか牧歌的に見える。
男性からの被害を回避するために女性だけの街があればいいという素朴な案なのだろうけれど、そもそも僕たちは「差異があるから差異を差異として許容できている」のでは?
当たり前すぎて忘れがちだけど社会には男性と女性の両方がいて、その了解があるからこそ差異を包摂しようとする思考が生まれるし、差異を認め合おうとする社会や国家が構築され始める。男女の差異は時に分断と呼ばれたりするけれど、僕たちは分断があるからこそ他者を違う人として認識しようと努めるようになる。男性には男性のつらさがあり、女性には女性のつらさがあり、でもそのうちのいくつかは重なっていたりして、差異と同質性を見極めようとする営為がつまり社会的包摂の思想的な礎になっているのではないだろうか。
その営為の果てに差異を差異のまま認めようという多様性などが生まれる。男性は女性を「通して」人はそれぞれ違う人間だという思考を持つことができるし、女性もまた同様である。
僕たちは男女が共生する社会に生きているからこそ差異に耐えようと思考することができるのである。
最近の動きではLGBTQのほうがわかりやすいかもしれない。近年になりLGBTQを社会的に包摂しようとする動きが強まっているけれど、男女をベースに構築されてきた社会にあってLGBTQを包摂するのには相応の困難が伴っている。たとえばトランスジェンダーが男性用と女性用どちらのトイレを使用するのかもフェミニストと対立する事態になっており、そこに分断が生まれているように見えるかもしれないものの、しかしながらLGBTQを可視化することで今までは「いない人々」とされてきたLGBTQを包摂しようと社会が目指し始めたのは望ましいことであろう。無論、そこには一定の困難が生じてしまうけれど、耐えるべき新たな差異を発見できたことは社会的な収穫と言ってしかるべきではないだろうか。僕たちがLGBTQという差異に耐えようとしはじめたことはまぎれもない前進と言ってよいものだ。以前のようなLGBTQがいない人々とされてきた社会にあってはLGBTQのことを慮ることさえできなかった。社会的な議論の俎上にあげられたことで初めて僕たちはその差異、他者性を得ることができ、多様性のフレームを拡張する営為を開始することができるようになったのである。
男女、LGBTQなどなんでも良いけれど僕たちは分断があるからこそ分断を乗り越えようとすることができる。分断や差異がはじめから存在しないのであれば、僕たちは他者の違いを認めようと、そもそもしないだろう。人はおよそ認識できるものにしかその思考が届かないのであるから。
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個人的には以上のような立場で、多様性は耐えるべき社会的な「業」と捉えているのだけれど、翻って「女性だけの街」を考えてみるとその危険性が浮き彫りになってくる。
女性だけの街とはつまるところ「差異が存在しない街」と言えるのであるが、そこで生まれてくるのは極めて同質性が高いゆえに「他者について考える必要のない集団」だと言えるであろう。
女性だけの街であれば全員が生理にたいし理解があり、トイレの問題も考える必要がない。全員が同じ身体的特徴を持ち、全員が似たような生活様式をしていれば他者にたいする想像力を持つ必要が程度として失われることになる。すべての問題は極めてリアルになり、差異を埋めるための言論、つまり抽象性を持つ必要すらなくなる。自らの問題が他者の問題と完全に重なることで、自己・他者・社会の境界を引く必要がなくなるため、彼女たちの思考はありとあらゆるフェーズにおいてシームレスに統一されることになるであろう。一切の社会的な摩擦が失われることで、極めてなめらかに社会が回るようになり、しかし同時に小さな摩擦を許容することすら難しくなる。
一言で言えば全体主義であるが、差異をなくした集団が全体主義に至ることは明らかであり、そして全体主義の帰結は小さなことを針小棒大に捉える排外主義だと相場は決まっているのだ。
一般に僕たちは男性は女性になれないし、女性は男性になれないという「不変性」を内面化して社会的な議論を構築している。しかしながら女性だけの街ではその不変性が存在せず、人は変われるという「可変性」を前提に議論が構築されることになる。その結果「変われない人」は異分子として排外されることになる。
人は違うし変われないという前提があるからこそ僕たち個人は「全体」から距離を取ることができるのであるが、その防波堤が失われ、可変性が前提となった時、全体と個人は統一できるものとして認識され、全体主義が完成してしまうのである。そしてその「完成された全体」は適応できないものを異分子として排除するのに躊躇いを持たなくなる。ツイッターでエコーチェンバーに埋もれる政治集団が排外的な言説を喧伝しているのを見れば一目瞭然であるだろう。あれもひとつの「疑似的に完成された全体」なのである。全体主義にはそのような「論理的帰結」があることを忘れてはならないと思っている。
また、同質性を高めた人々による民主主義は社会を考える必要がなくなるため、自らを管理下に置くよう政治に要求し、独裁者を生む危険性もある。どのような政治体制であれ社会が全会一致の同質集団であれば、あらゆる政治システムはすべて無用の長物であるため、代表が決まればそれで良いとなり、市民は怠惰な投票を行い、政治への監視も全体性のうちに埋もれることで独裁者の専横を許し、また同時に摩擦のない無思考の集団はいとも簡単にデマゴーグやプロパガンダに煽動されることにもなるだろう。
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そもそも僕たちは差異や分断を克服すべき課題としか見ていないフシがある。女性だけの街というのも分断を解消するためのひとつの案ではあるのだろう。しかし差異や分断があるからこそ僕達の社会は社会として屹立しているという側面があることを忘れてはならないはずだ。男女という差異はあまりに自明すぎて言明されることすらほとんどない。しかしながらその最も身近な差異・多様性があるからこそ、より大きな多様性(LGBTQや人種問題など)に思考を拡張することができるのである。そのすべてを解体し、ゾーニングすることで「住みやすい女性だけの街」をつくろうとするのも結構ではあるけれど、身近な危機を手放した瞬間により大きな危機を招くことになりはしないであろうか。
何が僕たちの社会を基礎づけているのかを今一度思い出したほうが良いように思う。
差異や分断とは解消されるべき課題という単眼的な視座で見てよいものではないし、そもそもそんな簡単に手放して良いほど陳腐な代物ではないはずだ。
ギャンブルとグローバリズムの綱引き問題
こんにちは。エルデンリングを110時間かけてやっとクリアしたのでブログを書いていきたいと思います。
先日テレビを眺めていたら競馬の祭典日本ダービーが行われていた。観衆は6万人。一昨年であればネットが大炎上しそうなほど密になっていた。オニャンコポンという気になる名前を見つけたので馬券を買おうかと思ったけれど、結果から言えば買わなくて良かった。それはともかく会場の熱狂具合はすさまじいものがあり、競馬ファンの熱には驚かされるものがある。
また、ギャンブルと言えば、最近とある地方の若者に4630万円が誤送金されるという騒動もあった。若者はオンラインカジノで全額すったようであり、その顛末を含め連日報道される事態になっている。個人的には連日報道されるような事件でもないだろうとは思うのではあるが、行政のミス・不労所得・ギャンブルという点から井戸端会議にはもってこいの話題なのだろうとも思う。
個別の事件はともかく競馬やパチンコをはじめとし、日本がギャンブル大国であることは間違いなく、賭博をどこに位置付けるかをそろそろ考えたほうが良いのではないだろうかと、そのようなことが脳裏をかすめたので書いていきたい。
ギャンブルをどうするかというのは意外と語られないテーマでもある。
良かれ悪しかれ日本人はギャンブルが好きである。
パチンコ、パチスロ、競馬、競艇、競輪はもちろんのこと、広義ではソシャゲのガチャ等もギャンブルにあたるし、表立って言われることはないけれどフリー雀荘での麻雀も金銭を賭けて行われており、裏ではオンラインカジノや闇スロ闇カジノなども存在する。適法違法問わず日本のあらゆるところに賭ける場所がひしめていることは間違いない。
これだけ「金を賭けること」が日常になっている国は他にないのではないだろうか。
しかしながらギャンブルはパチンコをはじめとして表面的には規制の一途をたどってきた。かつてのパチンコやパチスロは一日で100万円勝てるような機械もあり、破産者などが出て社会問題となったため規制されてきたという歴史がある。
麻雀も以前は高レートの雀荘があったものの、健全化が進み、健康マージャンのほうが主流になりつつある。ゲームとしての認知がすすみ、AbemaTVのMリーグなどメディア戦略と連動する形で麻雀自体を楽しむ層が増えてきている。
それ自体はとても良いことではある。しかしこれらの健全化はあくまで表向きであり、規制されればされるほど反比例して闇スロやオンライン麻雀で上限なく賭けられることの希少性は上がっていくことになるのも無視できない。ニュースを騒がせているオンラインカジノもその一種と言えるだろう。
アメリカの禁酒法ではないが、結局賭ける場所があれば需要がそちらに流れ、経済活動として捕捉できないものへ潜っていくことになるのだ。規制をかけることで表を整備したつもりが裏に流れているだけで実質的には税収が減っているだけという本末転倒の事態を放置して良いのかというのはギャンブル産業において考えねばならないことではあるだろう。
調べたところパチンコの市場規模は2021年時点で14兆6000億円。規制がかかり縮小した現在にあっても余暇市場全体の25%を占めており、飲食業とほぼ同じ市場規模を持っている。さらにここへ競馬等他の賭博産業を加算すれば全体の30%に及ぶ。違法賭博も含めれば賭博に使われている金額は余暇産業の半分近くになるのではないだろうか。
賭博は出入りする金額が大きいので単純な比較はできないものの、ゲームやアニメなど現在主流の娯楽よりもパチンコのほうが市場規模は大きいのだ。また、近年では日本経済を回復するためにインバウンドを呼び込もうという動きもあるけれど、観光・行楽産業の市場規模は6兆円であり、パチンコの半分にも満たない。
ギャンブルが是か非かという議論はさておき日本経済が賭博によって支えられてきたことは事実である。
単純な話、ギャンブルで勝った人間がお金を飲み屋などに落とし、負けた人間は借金をするなどして、双方が流動性に寄与する形で経済が回ってきた側面がある。あぶく銭ほど経済を回すことができる種類の金銭はない。ギャンブル産業は「大事なお金をあぶく銭に換金するという生産性」を有する産業だとも言えるだろう。
当然ながらそこには多重債務やギャンブル依存症の問題などが同時に出てくるわけであるが、それらの諸問題とギャンブル産業が経済活動にどれだけ寄与していたのかというのは天秤にかけられてしかるべきだと言える。
しかしながら以上のような話とは裏腹にギャンブルは傍目にもそのイメージが良いものとは言えないので、年々厳しく規制され斜陽産業とまで呼ばれるようになっている。そしてギャンブルを行う人が減少すると同時にギャンブルを基点に巡っていた経済活動も停滞するようになった。
一般に何が良い経済活動か、何が正しい娯楽であるかというのは厳として存在し、その点でパチンコが優れた遊びとは到底言えるものではないけれど、ギャンブルに限らず僕達はあらゆる産業を倫理的な尺度で判断して「正しく経済を回そうとした結果共倒れになってきた」というのが日本経済であるようにも思うのである。
本来は清濁併せ吞む形で経済を回し、税金を徴収することで「濁」を清算するのが望ましい形ではある。「清」だけを抽出できれば良いものの、今の世界ではそうもいかない。グローバリズムが席捲した市場であれば、「どうせギャンブル可能な国にギャンブルマネーは流れてしまう」からである。それは4630万円の一件からも明らかではあるだろう。パチンコが規制されベットできる金額が少なくなり、競馬などは控除率が低いとなればオンラインカジノで上限なしの勝負ができるところにギャンブラーが行くのは考えてみれば当然の事態ではある。
行政が規制をかけたところでいまや国家という枠組みはグローバル資本主義の下位に位置しているため、国内ではギャンブルを整備したつもりが内需を他国に奪われているだけになっている。したがって日本人が本当にギャンブルをやめられない人々なのであれば経済活動として取り込むほうがベターだと言える。その結果歳入が増えればギャンブル依存症のクリニックなどに補助金を出すことで健全化も図れるようになるかもしれない。
いずれにせよ資本主義がグローバル化し、個人に最適化された広告を提示することで人々の欲望を追跡するようになっている限り、僕達は「それ」からは逃れようがない。であるのならせめてもきちんと税金を取れる形にしたほうがマシではあるというだけの話なのだ。