メロンダウト

メロンについて考えるよ

沖縄の問題を考える時、やはり敬意は大事だよ

この増田なんだけどすこし気になる点がある

 

anond.hatelabo.jp

 

チョンボを突っ込まれとき

「敬意」の話なんか始めてキレて返すってのはヤベーよ。

内部が硬直して腐ってる兆候のものじゃん。

 

看板文字ぐらい突っ込みようが無くウソなく書けってだけの話でしょ。

そこを言われてこれだけキレ散らかして恫喝しながら撤回を迫ったりまでして少しも受け入れられないって言うの

相手ひろゆきからこうやって世間に知られて笑われてるけど組織内部や沖縄内部で懐疑的意見を受け容れる姿勢全然なさそうに見えるの俺だけか?個人の感想か?

ぜってー仲間や地元から「ここはおかしいんじゃないか」程度のこと言われても「敬意がない!」って恫喝して総括して吊るし上げそうじゃん。 

 

 

 

敬意を持ち出して理解を得ようとするのが説得方法としてはガバすぎるというのは一般的には増田の言う通りで、方法論としてはそうだけど、沖縄の問題に関して言えば敬意はやはり大事だと思うよ。むしろ敬意を持ちだされた時に引くことが現状への理解のなさが表れているように見える。敬意を省いてツイッターのレスバみたいな論戦にまともに乗っかっていい話題ではないのだよ。というよりも逆にレスバが本格的に始まった時に負けるのはひろゆきのほうになると思う。座り込みがいないという揶揄や事実陳列罪という言葉を用いて反対派はやばい人だとひろゆきは言っているが、事実を整理した時に負けるのは本土で冷笑している人々のほうであろう。

 

沖縄の基地問題は国全体として必要なことを沖縄に依存させすぎているという側面が大前提なので、論理的に反論しようとすればそもそも沖縄に基地が置かれていることがまずおかしいということになる。もちろん地政学的な条件によって沖縄以外に分散させるのが難しいという話もあるけれど、いずれにせよ本土に住む国民は沖縄に国防の負担を背負わせていることは現状として間違いない。そうした現状によって騒音問題・環境問題・米兵による事件などが起きていることを考えれば、基地問題は本土の国民全員が当事者であり、沖縄にお願いしている立場にある。まずそこを共有しなければ話にならない。そしてそうした現状を鑑みた時、国民は沖縄に敬意を持ってしかるべきだと、論理的にそう言うことができる。

似たような話で福島第一原発の時もそうだった。第一原発で発電されていた電力のほとんどは東京を中心とした関東圏に供給されており、原発の問題を外部化していただけであった。使用済み核燃料の再処理施設がある六ケ所村の問題にも同様のことが言える。それは沖縄の基地問題も変わることはない。当然ながら逆もあり、東京の経済的な利潤が過疎化した地方の公共事業にあてられているなどの例もある。なんにせよこの手の問題は関係性が前提としてあるのでそれを土台に議論を構築しなければならず、そしてその関係性を考慮した時、敬意というのは大切な要素であることは間違いないだろう。敬意を持たない相手とは関係できないというそれこそ一般論としてそうである。

 

ひろゆきはよく大衆を称して頭の悪い人と言っているが、本当に頭が悪いのは自らが何によって支えられ、構成されているのかを自覚しないままでいる人のほうであろう。

冒頭の増田もそうであるが、沖縄の基地問題を考える時、本土の人間は沖縄に敬意を持ってあたるべきであり、座り込みが24時間でないという揶揄を行うのは現状を正しく認識していないか、もしくは認識してなお「そういう条件がある場所に住む人々」を馬鹿にしているかのどちらかだと言える。

日米安保を解消するというのであれば別であるが、国防という切っても切れない関係性がある限り、基地建設反対派だけでなく沖縄に住む人々全員にたいし本土の国民は敬意を持つ義務がある。そう言わざるを得ない。言論ゲームとして敬意を持ちだすのは悪手だという増田の指摘もわからないではないが、現実の沖縄の問題を考えた時、言論ゲームのやり方で回収していい話では断じてないし、沖縄で巻き起こる感情も蔑ろにしていいものではない。ロジックに感情を組み込まないのはロジックとして不十分なのだ。

当事者としての感情を論理的に考えた場合、敬意を持つべきだと当事者の立場から言うのはけだし自然な物言いだと言える。その発言にたいし「これだから基地建設反対派は頭が悪くて云々」という態度を取れることこそが現状の問題及びその問題によって生じる感情を知らないか、もしくは知っていてなお蔑ろにしている証左なのではないか。

対人でも政治でもなんにせよ人と関係しているのであれば敬意を持つべきで、敬意を放棄して発言するのはその関係性に無自覚な人が行うことであると個人的には思っている。

 

私が嫌いなのは、幸せの理由を知らない奴。
自分がどうして幸せなのか、考えようともしない奴。
自力で沸騰したと思っている水が嫌い。
自然に巡ってくると思っている季節が嫌い。
自ら昇ってきたと思ってる太陽が嫌い。
人は誰かに助けてもらわなきゃ幸せになれない、そんなこともわからない馬鹿が、
嫌いで嫌いで死にそうだ

終物語老倉育のセリフより

太田光氏が陥った抽象化の罠について考える

太田光氏が統一教会擁護かのように受け取られる発言をして毎週のように話題になっている。実はけっこう興味深く見ている。おそらくは司会者として議論のバランスを取るように、あえて逆張り的なことを言っているのだと思われる。

先週も太田氏は統一教会に洗脳された信者を家族が連れ戻す行為を拉致・監禁と発言し炎上していた。洗脳された人とその家族の問題はかなり難しい問題でナイーブな側面があるのでここで言及することはしないけれど、個人的に気になったのは太田氏のスタンスである「バランシング」についてだった。

よく議論では双方の論点が衝突した時には善悪二元論で決着をつけるのではなく落としどころを探るのが重要だと言われる。たとえば男女の問題は共存を前提に取り扱われるべきで善悪で議論するのではなく双方が住みよい形に社会を構想していくのがあるべき言論ではあるだろう。他にも年齢・美醜・能力のような場合、公正や人権などの抽象的理念を持ち出しバランスを取ることによってなんとか社会が成立するという側面がある。このような議論に関しては太田氏のようなバランシングが重要なスタンスになってくるはずだ。

しかしながらそうではない場合があり、善悪を線引きしなければならない場合もある。たとえば最も広く知られるところで言うと、交通事故を起こした際には過失割合がつけられ、どちらが悪いのか、あるいはどちらのほうがより悪いのかが決まることになる。さもなければ事故を起こした当事者同士の議論・交渉により落としどころを探るということになるが、直接的な利害が絡む事故の場合、当事者同士の対話で落としどころを探るのは到底無理であるため、第三者に入ってもらい善悪を判断してもらうのがしかるべき対応となる。

 

つまり議論にはバランスを取るべきものと善悪の割合を判断すべきものがある。

前者(バランスを取るべき議論)は複雑な要素が絡み合うものであるため、より抽象的に考えるべきで、行き過ぎた具体化(女性は○○、男性は○○など)をすれば即座に差別に繋がることを警戒すべきだと言える。

後者(善悪の割合を判断すべき議論)に関してはむしろ逆で過度な抽象化のほうこそをむしろ警戒しなければならないように思う。なぜなら、具体的な利害が絡む問題を過度に抽象化すると問題の焦点がブレてしまい、判断すべき善悪の基準が霧散してしまうためである。事故や事件にあった時に誰かが双方のバランスを取るよう「宥めた」としても現実が変わるわけではない。むしろ宥めることによって被害への見積もりが甘くなり当人の救済にとって邪魔になるということがある。事故や事件の当事者に必要なのは善悪を執行してくれる機関であり抽象化やバランシングを施す人ではない。

 

そして統一教会による洗脳の問題は明らかに後者、つまり善悪を判断すべき事件だと言える。

合同結婚式に代表されるようにカルト宗教にはまった信者は家族と引き離されることがある。親しい人と引き離すのはマルチでもよく使われる手口であり、統一教会の場合、教会から引きはがそうとする外部の人間をサタンと教え信者を囲っていたことが明らかになっている。そうして連れ出され洗脳された信者とその家族の問題は明らかに具体的な善悪判断を必要とする問題であるため、前述した理由によりバランシングという抽象化を施してはいけない問題だと言える。それは仮に家族が洗脳され誘拐された場面を想像してみるとすぐさま理解できることではあるだろう。太田氏のように「相手も救済しようとしている」と言うことは問題の焦点をぼやかすだけで意味がない。家族を誘拐された人にとって見ればほとんど何を言っているのかわからないはずだ。家族と引き離し生活させるのが救済だというのであれば「救済対救済」という構図になるが、宗教団体が信者を家族から引き離すのは明らかに倫理(定言命法)に反しているので、カルト宗教による洗脳を救済と呼ぶことは、そもそもできない。

 

とはいえ逆張りでバランスを取ろうとする太田氏のような人が出てくるのもわからないではないのだ。というのも統一教会の問題は政治と宗教という一見すると最も抽象的な議論がそこにあるように見えるためだ。現在、統一教会に関して他に議論されている献金政教分離の議論は他の宗教との兼ね合いも出てくるため、抽象的に考えざるを得ない。そこで統一教会≒宗教全体という錯誤が生まれているのではないかと思われる。しかしながら統一教会の問題は宗教一般の問題に接続できるものとそうでないものがある。

政教分離のような抽象的問題とはまったく別のフェーズで考えなければならないのが洗脳された信者とその家族という問題なのだろう。そこは明確に切り分けて考えたほうが良いように思う。統一教会の問題を宗教全体に敷衍し、たとえばキリスト教や仏教も洗脳という人がいるが、そのような過度な抽象化はやめたほうが良い。この場合、つまりある宗教を信じている場合、「どのように」洗脳されているかだけが問題であるからだ。つまり信者を家族と引き離して韓国に飛ばす宗教は他になく、誘拐という具体的な問題だけが問題なのである。

 

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とりわけ社会的な議論、男女や差別の問題に触れすぎると「グレーゾーン」「バランス」「着地点」などの言葉に引きずられることがあるように思う。私もこの手のバランスを取るような記事を書くことがよくあるけれど、たぶんそれらの言葉は万能ではないし、持ち出して良い時と悪い時がある。最近の政治的な議論はよく党派に分けられていると言われ、国葬に関しても安倍総理の最後の分断と言われていた。実際に政治はアベか反アベかという状況は確かにあったし今も残っていると思う。しかしながらそれと同時期に出てきたのが、その党派性を乗り越えようという政治スタンス、つまりは中道であったと振り返ることができる。中道は党派に振り分けられた政治情況にたいしては一定の役割があるのは確かであろう。しかしながら中道の弊害については誰も語ることはないままに現在まで来ている。友と敵の対立を乗り越え中道を進もうとする人々は私も大いに賛同するところであるが、しかし中道が暴力たりえないということもまたないように思う。友と敵があり、そこで起きる対立は時に善悪の線引きを必要とすることがある。その時、中道がその対立を無化しようとするが、その無化こそが暴力になりえる場面がある。保守も、リベラルも、そして中道もそれだけでは不十分な理念なのだろう。

過度にバランスを取ろうと試みる太田氏の発言を見ていたらなにか我が事のようにそんなことを思ってしまったのであった。

僕達は非婚化しているのではなく情報婚化しているのではないか

なにか読んでて市場動向調査のような感想を持った。
内容としてはいわゆるMGTOW(Men Going their own way)に近いと思う。
合理的見地から見ると男性にとっての結婚は経済力のない女性に共依存を強いられるものだという。具体的な話としては頷くところが多かったのだけれど、この手のデータで論破的な語りには違和感を覚えてしまう。それを書いていきたいと思うのだが、現実的には結婚に限らずこの既存の枠組みからの退却はいくとこまでいくのだろうとも思ってもいる。
MEGTOWと似たようなものでアメリカでは最近、グレート・レジグネーションというものが起きているらしい。グレート・レジグネーションとは何か意味ありげな言葉だけどそんなにたいした意味はない。働かないという単にそれだけのことである。
アメリカは賃金格差が日本の比ではなく、働いても物価高に賃金の上昇率が追い付いていない。一方、巨大TEC企業の給与はバブル並みの水準となっている。この格差をひっくり返そうとしても、例えばメリトクラシーその他の議論に触れればいかに馬鹿馬鹿しいことかと思う人が少なくないだろう。あるいはマルクスを読めば、Uberのようなギグワークで働くことは事実上奴隷のようなものだと悟る人がいても不思議ではない。そのような状況であれば先進国の特性を生かし社会保障にフリーライドするほうが合理的だという結論に達する。それがグレート・レジグネーションに至る社会的背景だと考えられる。すこし前に話題になった中国の寝そべり族にも似たような背景がある。
 
このような「他国の仕事の話」は「日本の結婚の話」とは直接には関係がないように思われる。しかしながらその成立過程に注目してみると、グレート・レジグネーションとMGTOWは非常によく似ていることがわかる。それが何かと言えば、検索性にある。
前提として、ここ10年余りの技術的発展により、僕達はすべてを検索できるようになった。インターネットがインフラと化した世界では仕事、恋愛、食事、医療その他ありとあらゆる場面で検索を利用し事前の情報により判断している、もといせざるを得なくなっている。
そしてそれは何も日常の場面だけに限らない。価値観や思想も検索によって構築し始めたのが昨今のトレンドとなっている。このところ話題になっていたメリトクラシーや反出生主義もその系列の話で、いわゆる「ネタバレ」の一種なのだろう。
グレートレジグネーションも例に漏れない。働くことが馬鹿馬鹿しいと考える人が出てくるようになったのは、労働がなんたるかを検索によってネタバレされるようになったのがひとつ大きい要因だと推測できる。
同様に女性の上方婚志向をデータで検索、暴露し結婚は墓場だと言うMEGTOWも出てきた。MGTOWは事前に検索したデータによって女性を定義づける。それはちょうどクックパッドを見すぎてレシピの外に出ることができなくなることに似ている。レシピ通りに作ったほうが美味しい料理ができるし万人受けする味になる。しかしレシピは個人の好みを想定しない。あくまでレシピの美味しさは標準化された基準にもとづくものに過ぎない。結婚もとい恋愛もレシピに似ているところがある。にもかかわらずMGTOWは女性は~~という標準化された基準をもとに料理(結婚)をつくろうとしている。つまりそこにレシピはあっても「舌」がないのである。もっと大きく言えば人間がいないとも言える。
このような状況と対比して「検索以前」を振り返るに、結婚は墓場だというのは既婚者がタメ息混じりに言う台詞だった。しかし今はそうではない。独身者がその正当性(レシピの正しさ)を主張するため、事前に、料理を食べる前に持ち出す言葉となっている。その違いはつまり行為と言葉の順序、その前後の逆転なのであろう。そしてその逆転現象を生んでいるのが検索ではないかと愚考しているのだ。
 
もちろん一概に検索といっても検索すること自体に問題はないと書いておかなければならないはずだ。
会社・飲食店・書籍・歯医者の評判を調べるぐらいの日常的なことであれば問題はないはずだ。料理をする時にレシピを検索することだって決して悪いことではない。日常生活では積極的に検索を活用すべきだと思う。また、検索に伴うインターネットの評価システムがブラック企業を社会から排除し働き方が改善されるのもポジティブな効果であることは間違いない。しかしながら問題はそうした日常を営むうちに僕達が検索という行為自体を相対視できなくなってしまったことだ。
というのも僕達はいまや日常のあらゆる場面で無意識に検索することを繰り返しており、検索するほうが賢い判断だと、環境的に刷り込まれながら生活している。
食事に行く際、前情報なく飛び込んだお店がハズレだったり
就活していてハロワに紹介された会社がハズレだったり
結婚してタメ息を吐く前にマッチングアプリでお互いの適正を確認しあったり
あらゆる場面で事前に検索することにもはや慣れすぎていて、それ自体、つまり検索するという行為になんの疑問も持ち得なくなってしまっているのがそもそもの問題であるように思うのだ。検索するという行為になんらの「色」はなく、出てくる情報の善悪を判断するのがリテラシーだと皆が考えている。しかしながら検索とはどこの誰が書いたかわからない言葉に突っ込んでいく点では暴走行為に近いものがあり、原理的には相当危険なものだとも言えてしまう。セキュリティーソフトを入れ、ウィルスチェッカーに引っかからないサイトに記載されている情報は「見て良いもの」だと無邪気に思っている節がある。一昔前みたいにブラクラやフィッシングサイトに警戒する人も随分少なくなっているのではないだろうか。それはインターネットが整備されたという点では確かにポジティブなことかもしれない。しかし危ないサイトを排除していくとネット環境は整備される一方、心的なセキュリティー脆弱性は逆に高まることになる。僕達はいまやかなり無邪気にSNSを巡回しブックマークしたサイトを閲覧しているが、その無邪気さゆえ無警戒に情報に触れてしまうようになっている。おそらくはそれが今、様々な問題に通底していることである。そしてその弊害は無視できるものではない。端的に言えばそれがどれだけ正確な情報・言葉であろうとも、それを見ることですでに罠に落ちているということが往々にしてあるように思うのだ。より正確な情報へ、より適切な考え方へ、より耳さわりの良いタイムラインへと突っ込んでいって事故を起こすのがつまり反出生主義だったりMGTOWだったりグレートレジグネーションだったりはしないだろうか。一言で言えば人は嘘よりも真実のほうに騙されやすいというそれだけのことなのだが僕達はそれをいとも簡単に忘れてしまう。
この意味で昨今話題になる問題のほとんどは検索という行為が孕む宿痾であるかのようにすら見えてしまうのである。
以上のような観点からそもそも検索という行為を根本から考え直す必要が出てきているのではないか。
 
検索によって殺されるものの代表が価値観である。
たとえばMGTOWは結婚に反対の立場を取っており、確かにその主張には一定の合理性がある。しかしながら仮に少なくない女性が上方婚志向を持っていたり共依存的な支配関係を築くことが事実であったとしても、女性への失望をを経験的に知るのと検索によって知るのではまったく違う価値観を形成することになる。事実主義的な判断を好む人はどうあれ女性を嫌いになるのであれば同じことだと考えるのかもしれないが、個人的にはそうは思わない。大事なのは、女性を差別している云々というどうでもいい話ではなく、本人がどのようにそれ(女性嫌悪)を捉え、あるいは捉え返す余地を残せるままでいられるかであるからだ。
経験によって女性嫌悪になったのであればたとえミソジニーになろうともその言葉には失恋の重みが乗ったり、あるいは絶望を友にするような『文学』を獲得することができるかもしれない。しかし検索によって「女性は上方婚志向を持つ経済的動物で恋愛感情は持たない」と判断した時、その言葉は浅薄なものになってしまう。
ミソジニーの道程を考える時、検索で得られたデータによってミソジニーになった場合には、それをデータとして破棄する必要がある。MGTOWのように女性は○○な生き物だというデータによって女性嫌悪になった時には、それを捨てるしかない。そこには何も残らない。総体としての女性が経済的動物だと判断しても現実に行動する時には意味がないからだ。唯一あり得るのは女性が経済的動物だという前提にたったうえで自身がお金を稼ぐであるが、それでは女性嫌悪を捉え返すことにはならない。ようするに「検索によって得られたミソジニー」はミソジニー自体を破棄する以外にミソジニーを乗り越える術がないのである。
しかしながら経験によって女性嫌悪になったのであれば、原因となった女性をn=1と捉えることで、その他の女性を捉え返すことができる。統計によって女性を定義するMGTOWとは違い、失恋した男性は一人の女性がそうだったという枠に自身のミソジニーを安置させることができ、総体としての女性への希望は失われないですむ。つまり内なる絶望と外への希望を同居させることによりミソジニーを抱えたまま次の恋愛をすることができる。ゆえにミソジニーという価値観を捨てなくてもかまわないでいられるため、経験と価値観に連続性を持たせることができる点でMGTOWのそれとは違い、「彼のミソジニー」は意味があるものだと言えるだろう。
 
僕達の考え方(MEGTOW、グレートレジグネーション、メリトクラシー、反出生主義等)を形成している外部要因を改めて捉え返すと、そこには一見すると真実だが「価値形成プロセスには意味のない真実」がたくさん転がっていることがわかる。データを見て女性を嫌いになるなどそんな無意味で愚かしいことはないと、よく振り返って考えればわかることではある。しかし僕達は「検索社会」を生きているゆえ、データや統計に過大な権威を与えがちである。ゆえんデータは間違わないという先入観は、インターネットがインフラ化した世界にあっては強烈な魔力を放って僕達を魅了している。もちろんデータや統計は大事である。しかしデータはあくまでもひとつの要素であって、矛盾したものを複層的に重ねるべき価値観を形成するプロセスには不十分なものではないだろうか。
 
最後に
言葉遊びのようなまとめで申し訳ないのだが、冒頭記事を振り返るとMGTOWは情報と結婚している情報婚だと言えそうである。
女性よりも情報のほうを信じ女性を嫌いになるその事前性は、検索によってin-formedされたものであり、そこには奇妙な無邪気さが見え隠れする。データによって判断されたものだから間違いないのだという無邪気さ、検索に突っ込んでいく無邪気さなど、考えようによっては一時の感情に飲み込まれる「駆け落ち」にすら見える。
ネタバレと駆け落ちする。男女の問題でも仕事の問題でも至るところで見られる現象だと思う。
そしてそれを生み出しているのが検索という行為への無警戒さなのであろう。無邪気に大人を信じる未成年は騙されやすいようなもので、年齢的に言えば僕達はまだ小学生のようにインターネットに接しているぐらいには考えたほうが良いのかもしれない。大人がどれだけ正しいことを言っていてもついていっては駄目な時があるように、検索で得られた情報がどれだけ正しくてもそこについていくかは別の問題であるのだ。しかしその情報に誘拐され、あまつさえ情報と結婚するような人が少なくない。そしてその誘拐された相手を愛してしまうこと(ストックホルム症候群)もままあることである。
 僕達はおそらく非婚化しているのではない。女性が上方婚化しているように、少なくない人々が情報婚化しているのではないか。