僕もややもすると黙って死ぬかもしれないので書けるうちに書いておこう。
シロクマさんのシロクマさんらしい記事
アトム化した個人はどこからきたのかというと、結論から言えば正規雇用と非正規雇用の溝からではないだろうか。
氷河期世代を論じる際、その論調の多くは「個人の努力」や「時代的な不運」などの身もふたもない話に回収されてしまいがちであるが、現実のシステムのほうがはるかに重大な問題であるように見える。
・日本における多様性の起源
前提として確認したいのが、氷河期世代の前と後における最も大きな違いはみなが正社員になる企業社会が終了したことにある。
バブル崩壊以前の日本は一億総中流と言われ、その時代には生き方としてのスタンダードがあったと見聞きする。男性は正社員で働き女性は専業主婦、終身雇用を前提に35年ローンで家を建て、老後は年金生活のような生き方だ。もちろん一概に言えたものではないけれど「標準化された生」は今よりもはるかに多かったはずである。個人的な観測範囲でも、一定以上の年齢になるとこうしたモデルの中で暮らしてきた人は少なくない。
そしてバブル崩壊以降、個人がそれぞれの人生を生きる時代になった。
そこで正社員以外の生き方を肯定するために持ち出されたのが多様性や個人主義のような概念なのだろう。
そもそも日本における多様性や個人主義がどこからきたかという話なのだが、ある人はグローバル化の影響で働き方も多様になったと言う。ある人は小泉政権の派遣法にその起源を求めるかもしれない。インターネットが多様性を促進したと見る人もいる。昨今ではSNSが個人をバラバラにしたと言う人もいる。さらには民主主義の宿命だと言う人もいる。
どれも間違いではないように見える。SNSやグローバル化によって「個人」や「多様性」が進んだことは否定できない。しかし時期的に見た場合、日本における「最初の多様性」はバブル崩壊と同時に訪れた労働者の正規ー非正規化に遡ることができる。
バブルが崩壊すると氷河期世代が就職難に遭い、正社員になれない人々がたくさん出てきた。それは言い換えれば企業が国民を正社員として雇いきれなくなったと言えるが、その現実をどうにか肯定しようとしたのが日本における多様性の最初の姿なのだろう。もちろんバブル崩壊当時は多様性という言葉は使われてはいなかったかもしれない。しかしながらヒッピーやフリーターのような自由主義に依拠した言葉は当時から盛んに言われていたようで、たとえば80~90年代のポストモダンなどの思想もそうした時代性を背景に出現した思想に写る。その後のコンビニ化やニュータウン化なども「個人かつ非正規労働者」の消費形態に合わせて出現したとも言える。
いずれにせよ個人の未規定な生を前提とした言葉の数々は現代の多様性とそこまで違いはない。個人はインターネットやSNSが出現する以前からすでに個人だった。そこを見誤ってはならないように思う。
そのように時代を振り返った時、働き方としての正ー非が日本における多様性もとい最初の分断で、そうした現実が先にあり、多様性は後付けの言葉に過ぎないということが言える。その「前後関係」を軸に考えた時、今ここにある多様性をどう解釈するか、その見方も変わってくるのではないだろうか。
・日本における多様性はどう「使われてきた」か
多様性は、今となってはポジティブな意味合いで使われることが多い。古い慣習は多様性のもと、ほとんど排除されつつある。家父長制や男尊女卑を唱える人はほとんどいなくなった。また、差別にたいする意識もすこしずつアップデートされてきている。LGBTQにたいする理解も進んできている。多様性のおかげである。
しかし多様性には弊害もある。
そして日本における多様性の弊害は「バブルが崩壊し皆が正社員として働くことが不可能になったにもかかわらず正社員制度をそのまま温存してきてしまったこと」にあるのだろう。端的に言えば非正規雇用を多様性のもとに肯定してきてしまった。その苦しみを最も多く引き受けてきたのが氷河期世代と呼ばれる人々なのだろう。そしてその問題を引き受けているのは氷河期世代だけではない。ほぼすべての労働者が正規と非正規の溝にはまりこんでいる。
正規雇用と非正規雇用は日本では当たり前になっているが、労働形態によって賞与や福利厚生の待遇が違うことは差別の一種であり、このような体制で労働者を雇用しているのは日本と韓国だけである。諸外国ではフルタイムとパートタイムで分けられることはあれど、日本ほど福利厚生に差があることはほとんどない。また、一部日本企業のように正社員経験のみをキャリアとして取り扱うことはまずない。嘘みたいな話だが正社員を英訳すると「Seishain」と訳されることもあるほど特殊な労働形態のようである。韓国の正社員制度も元をたどれば日本由来らしく、日本は労働形態及びその労働形態から醸成される「労働観」がかなり特殊な国だと言わざるを得ない。
諸外国において労働者は労働者であり、それ以外の何者でもない。もちろん職種や能力によって賃金に差はあれどやはり労働者は労働者である。そのため、労働争議のような場面で集団としてまとまることができるし政治的な主張も一定の合意を調達できることでデモも行われやすくなる。
一方、日本のように労働者を正ー非に分断すると労働者としてまとまることができなくなり、それがストライキやデモを事実上抑制しているのであろう。
・正規ー非正規の小さな対立
正規ー非正規で労働者を分けると労働者同士の争いが生まれその対立のほうが重要なものになってしまうという側面がある。
非正規労働者は正社員になるのが喫緊の課題になるので、自らの待遇に我慢しむしろ従順であろうとする。正社員になりたいがために。
正社員は非正規労働者が生み出す剰余価値の恩恵を受けているので自らの地位を守ろうと保守的になり、使用者(経営者等)にたいしストライキを起こそうとは思わなくなる。そして当然ながら、正社員を前提に組織される労働組合も保守化する。
ようするに正規と非正規に分断すると、労働者が目の前の小さな対立に終始するようになる。非正規で働く人は正規雇用になればやっとの思いでなれたその立場を守ろうと考えるだろう。新卒で正規雇用された若者もそうした労働形態が存在することを知っているので保守的になる。
いずれにせよ正社員という立場が極めて重要な日本の労働市場では新卒で採用されるかがキャリアにおいて重要なものになってしまう。結果、新卒であぶれる人が多かった氷河期世代が「日本社会では」問題になるという構図だ。
他国のように普通に職務遂行能力で採用してきていれば、氷河期世代は新卒で採用されなくとも普通に実務能力をあげれば良かった。しかしキャリア(正規雇用期間)がないと中途で採用されるのが難しい日本社会では「新卒時の問題が世代の問題としてそのまま残り続けてしまう」。結果として何も解決しないまま今に至る。つまり氷河期世代にとってみれば「あのころの現実」が今もそのまま転がっているという状態だ。つまり氷河期世代の問題の核は「氷河期」ではなく「世代」のほうにある。世代が持つ不遇の変わらなさ、その硬直性こそが問題であるように思う。
シロクマさんの記事では氷河期世代がデモやストライキを行ってこなかったと書かれているが、当の氷河期世代にとってみればそんなことよりも正規採用されることが現実生活においては主な戦いだったはずだ。非正規労働者はデモやストライキを行うよりも正規で採用されるのを目指すほうがはるかに現実的だ。しかし当然ながら叶う人と叶わない人が出てくる。氷河期世代以降もその数は違えど似たようなものである。
現実に追いつこうと戦う非正規労働者と、その現実を守ろうとする正規労働者。どちらもがミクロな現実に終始している限りデモやストライキを行う動機を持たない。非正規雇用者がデモを行い正社員制度を解体しろと言っても自らの待遇は変わらない。むしろ目の前にある正規雇用を目指すほうがはるかに現実的である。正規雇用者はいわずもがな正社員という優位性にしがみつこうとする。
翻って考えるに昭和期(バブル期とバブル以前)の日本でデモやストライキが起きていたのは正ー非、有期ー無期、派遣ー常勤など労働形態の多様性がまだそこまで存在していなかったからなのだろう。一億総中流と言われ労働者のほとんどが正社員であることがデフォルトだったため、労働者同士の画一性及び画一性に基づく共同性も守られていた。しかしバブルが弾け労働者全員を正社員として雇用することは不可能になると労働者はバラバラになった。それでも正社員制度は残り続けた。その正社員制度にひきずられる形で労働者同士のミクロ(個人)な差別と競争が起きてきたのがここ30年の状態だと言える。
・正社員制度が生む政治的・経済的弊害
正規ー非正規という根本的な問題を解消しなければおそらくは何も解決しない。政治や経済成長率といったマクロでもそうだ。労働者が労働者であるという自覚すら持てず、正規か非正規かという「目の前の現実」にその対立軸が回収されていってしまうからである。
政治的に言えば、ミクロな現実的対立軸から醸成される正社員的視座こそがデモを行う人を非現実的だと見なし、「現実的ではない」や「大人ではない」として蔑視冷してきたのがすこし前までの政治風景だった。社二病というやつだ。つまり、誰もが知っている現実(ミクロな正社員競争)が民主主義を通じ多数派になったことで自己責任論というパターナリズムを醸成し政治的な課題を個人の努力に帰責してきたのである。ひと昔前によく言われていたのが「まず働け、正社員になれ、現場を知れ、話はそれからだ」というものだが、いざ正社員になれば、上述した通り小さな優位性を守ろうというバイアスがかかるので保守的になり社会運動には興味をなくす。そして誰もいなくなる。ようするに個人主義とは個人が救われればそれで終わりなのである。そして救われる手段が目の前にあればそれを目指すのは自然だ。しかし個人が個人の戦いに終始している限り社会は変わらない。そのような個人の過剰なリアリズムが政治にも影響しマスとしてのノンポリや若者の保守化を生み、政治的な硬直をも招いてきたという理路なのだろう。そのように多くの労働者もとい国民が近視眼的現実に埋もれデモやストライキという大きな視座は失われていった。残ったのは個人の不満を吐露する場、つまりツイッターである。
とはいえ個人という有り方を今更否定することはできない。問題とすべきはそのような形に個人を押し込んでいるシステムのほうであろう。
まずやるべきことはこの無意味な現実(正規ー非正規の競争)を捨てることであり、そして無意味な現実をつくっている正社員制度を「差別だとして」解体することにあるのではないか。
今のままでは正規と非正規のどちらもが正社員制度を解体する動機を持たない。しかしやはり問題ではある。となれば政治的なイシューとして取り上げるには「非正規雇用は差別である」と言うほかにない。
もしくは、経済的に言えば、日本経済の低迷でしばしば話題となる生産性の低下も正社員制度に由来するという批判もできる。正規ー非正規という意味のない対立があると生産性は低下していく。正社員が正社員という地位を守るために仕事してるふりをするのは日本では珍しくない。非正規は非正規で正社員と平等ではないためモチベーションが上がりにくい。むしろ非正規も仕事してる風を装うことで正社員になろうと画策することだってある。そのような状況では職務内容よりも社内政治のほうに比重がかかるということもあるだろう。また、会社に貢献しているテイを装うために無意味な会議やサービス残業をする人が出てきたりもする。
バブル崩壊後、日本経済は失われた30年とも言われ、それはしばしば政治や金融の問題へと矮小化させられてきた。しかし30年前、バブル崩壊と同時に労働形態が正規ー非正規に分化したことで無意味な対立に国民が終始していた(させられていた)ことも原因としては考えられるだろう。生産性がずっと上がらないというのも、政策の失敗も考えられるが、結局のところ労働者が労働以外のことに尽力してしまうというのがある。そうした諸々を生んでいるのが正規ー非正規という日本独自の謎の枠組みであり、それによって生じている問題は思いの外多いのではないか。
デモを行う人々への正社員的冷笑
正社員制度による年功序列的視座が生み出す年齢相応の立場にない人への差別
生産性の低下
格差及び格差による少子化
正規ー非正規の競争が生む「近視眼的リアリズム」
「近視眼的リアリズム」が生む「目の前のニンジンを取れなかった人」への自己責任論
等々
シロクマさんが「現在のフランスや昭和期の日本では声を上げていた」と書かれていたのを読んで、正社員制度がもたらす労働者の多様性(分断)がその差異と符合する、と一読した時に思いかなりの長文になってしまった。
書きたいことはひとつで、デモやストライキを行うには労働者の立場をある程度フラットにする必要があるということ。「話を始められる」のはそれからであるように思う。