メロンダウト

メロンについて考えるよ

日本でストライキが起きないのは正社員制度ゆえではないか~多様性の起源から考える~

僕もややもすると黙って死ぬかもしれないので書けるうちに書いておこう。

 

シロクマさんのシロクマさんらしい記事

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

アトム化した個人はどこからきたのかというと、結論から言えば正規雇用と非正規雇用の溝からではないだろうか。

氷河期世代を論じる際、その論調の多くは「個人の努力」や「時代的な不運」などの身もふたもない話に回収されてしまいがちであるが、現実のシステムのほうがはるかに重大な問題であるように見える。

 

・日本における多様性の起源

前提として確認したいのが、氷河期世代の前と後における最も大きな違いはみなが正社員になる企業社会が終了したことにある。

バブル崩壊以前の日本は一億総中流と言われ、その時代には生き方としてのスタンダードがあったと見聞きする。男性は正社員で働き女性は専業主婦、終身雇用を前提に35年ローンで家を建て、老後は年金生活のような生き方だ。もちろん一概に言えたものではないけれど「標準化された生」は今よりもはるかに多かったはずである。個人的な観測範囲でも、一定以上の年齢になるとこうしたモデルの中で暮らしてきた人は少なくない。

そしてバブル崩壊以降、個人がそれぞれの人生を生きる時代になった。

そこで正社員以外の生き方を肯定するために持ち出されたのが多様性や個人主義のような概念なのだろう。

 

そもそも日本における多様性や個人主義がどこからきたかという話なのだが、ある人はグローバル化の影響で働き方も多様になったと言う。ある人は小泉政権の派遣法にその起源を求めるかもしれない。インターネットが多様性を促進したと見る人もいる。昨今ではSNSが個人をバラバラにしたと言う人もいる。さらには民主主義の宿命だと言う人もいる。

どれも間違いではないように見える。SNSグローバル化によって「個人」や「多様性」が進んだことは否定できない。しかし時期的に見た場合、日本における「最初の多様性」はバブル崩壊と同時に訪れた労働者の正規ー非正規化に遡ることができる。

バブルが崩壊すると氷河期世代が就職難に遭い、正社員になれない人々がたくさん出てきた。それは言い換えれば企業が国民を正社員として雇いきれなくなったと言えるが、その現実をどうにか肯定しようとしたのが日本における多様性の最初の姿なのだろう。もちろんバブル崩壊当時は多様性という言葉は使われてはいなかったかもしれない。しかしながらヒッピーやフリーターのような自由主義に依拠した言葉は当時から盛んに言われていたようで、たとえば80~90年代のポストモダンなどの思想もそうした時代性を背景に出現した思想に写る。その後のコンビニ化やニュータウン化なども「個人かつ非正規労働者」の消費形態に合わせて出現したとも言える。

いずれにせよ個人の未規定な生を前提とした言葉の数々は現代の多様性とそこまで違いはない。個人はインターネットやSNSが出現する以前からすでに個人だった。そこを見誤ってはならないように思う。

 

そのように時代を振り返った時、働き方としての正ー非が日本における多様性もとい最初の分断で、そうした現実が先にあり、多様性は後付けの言葉に過ぎないということが言える。その「前後関係」を軸に考えた時、今ここにある多様性をどう解釈するか、その見方も変わってくるのではないだろうか。

 

 

・日本における多様性はどう「使われてきた」か

多様性は、今となってはポジティブな意味合いで使われることが多い。古い慣習は多様性のもと、ほとんど排除されつつある。家父長制や男尊女卑を唱える人はほとんどいなくなった。また、差別にたいする意識もすこしずつアップデートされてきている。LGBTQにたいする理解も進んできている。多様性のおかげである。

しかし多様性には弊害もある。

そして日本における多様性の弊害は「バブルが崩壊し皆が正社員として働くことが不可能になったにもかかわらず正社員制度をそのまま温存してきてしまったこと」にあるのだろう。端的に言えば非正規雇用を多様性のもとに肯定してきてしまった。その苦しみを最も多く引き受けてきたのが氷河期世代と呼ばれる人々なのだろう。そしてその問題を引き受けているのは氷河期世代だけではない。ほぼすべての労働者が正規と非正規の溝にはまりこんでいる。

 

正規雇用と非正規雇用は日本では当たり前になっているが、労働形態によって賞与や福利厚生の待遇が違うことは差別の一種であり、このような体制で労働者を雇用しているのは日本と韓国だけである。諸外国ではフルタイムとパートタイムで分けられることはあれど、日本ほど福利厚生に差があることはほとんどない。また、一部日本企業のように正社員経験のみをキャリアとして取り扱うことはまずない。嘘みたいな話だが正社員を英訳すると「Seishain」と訳されることもあるほど特殊な労働形態のようである。韓国の正社員制度も元をたどれば日本由来らしく、日本は労働形態及びその労働形態から醸成される「労働観」がかなり特殊な国だと言わざるを得ない。

諸外国において労働者は労働者であり、それ以外の何者でもない。もちろん職種や能力によって賃金に差はあれどやはり労働者は労働者である。そのため、労働争議のような場面で集団としてまとまることができるし政治的な主張も一定の合意を調達できることでデモも行われやすくなる。

一方、日本のように労働者を正ー非に分断すると労働者としてまとまることができなくなり、それがストライキやデモを事実上抑制しているのであろう。

 

 

・正規ー非正規の小さな対立

正規ー非正規で労働者を分けると労働者同士の争いが生まれその対立のほうが重要なものになってしまうという側面がある。

非正規労働者は正社員になるのが喫緊の課題になるので、自らの待遇に我慢しむしろ従順であろうとする。正社員になりたいがために。

正社員は非正規労働者が生み出す剰余価値の恩恵を受けているので自らの地位を守ろうと保守的になり、使用者(経営者等)にたいしストライキを起こそうとは思わなくなる。そして当然ながら、正社員を前提に組織される労働組合も保守化する。

ようするに正規と非正規に分断すると、労働者が目の前の小さな対立に終始するようになる。非正規で働く人は正規雇用になればやっとの思いでなれたその立場を守ろうと考えるだろう。新卒で正規雇用された若者もそうした労働形態が存在することを知っているので保守的になる。

いずれにせよ正社員という立場が極めて重要な日本の労働市場では新卒で採用されるかがキャリアにおいて重要なものになってしまう。結果、新卒であぶれる人が多かった氷河期世代が「日本社会では」問題になるという構図だ。

他国のように普通に職務遂行能力で採用してきていれば、氷河期世代は新卒で採用されなくとも普通に実務能力をあげれば良かった。しかしキャリア(正規雇用期間)がないと中途で採用されるのが難しい日本社会では「新卒時の問題が世代の問題としてそのまま残り続けてしまう」。結果として何も解決しないまま今に至る。つまり氷河期世代にとってみれば「あのころの現実」が今もそのまま転がっているという状態だ。つまり氷河期世代の問題の核は「氷河期」ではなく「世代」のほうにある。世代が持つ不遇の変わらなさ、その硬直性こそが問題であるように思う。

 

シロクマさんの記事では氷河期世代がデモやストライキを行ってこなかったと書かれているが、当の氷河期世代にとってみればそんなことよりも正規採用されることが現実生活においては主な戦いだったはずだ。非正規労働者はデモやストライキを行うよりも正規で採用されるのを目指すほうがはるかに現実的だ。しかし当然ながら叶う人と叶わない人が出てくる。氷河期世代以降もその数は違えど似たようなものである。

現実に追いつこうと戦う非正規労働者と、その現実を守ろうとする正規労働者。どちらもがミクロな現実に終始している限りデモやストライキを行う動機を持たない。非正規雇用者がデモを行い正社員制度を解体しろと言っても自らの待遇は変わらない。むしろ目の前にある正規雇用を目指すほうがはるかに現実的である。正規雇用者はいわずもがな正社員という優位性にしがみつこうとする。

翻って考えるに昭和期(バブル期とバブル以前)の日本でデモやストライキが起きていたのは正ー非、有期ー無期、派遣ー常勤など労働形態の多様性がまだそこまで存在していなかったからなのだろう。一億総中流と言われ労働者のほとんどが正社員であることがデフォルトだったため、労働者同士の画一性及び画一性に基づく共同性も守られていた。しかしバブルが弾け労働者全員を正社員として雇用することは不可能になると労働者はバラバラになった。それでも正社員制度は残り続けた。その正社員制度にひきずられる形で労働者同士のミクロ(個人)な差別と競争が起きてきたのがここ30年の状態だと言える。

 

 

・正社員制度が生む政治的・経済的弊害

正規ー非正規という根本的な問題を解消しなければおそらくは何も解決しない。政治や経済成長率といったマクロでもそうだ。労働者が労働者であるという自覚すら持てず、正規か非正規かという「目の前の現実」にその対立軸が回収されていってしまうからである。

政治的に言えば、ミクロな現実的対立軸から醸成される正社員的視座こそがデモを行う人を非現実的だと見なし、「現実的ではない」や「大人ではない」として蔑視冷してきたのがすこし前までの政治風景だった。社二病というやつだ。つまり、誰もが知っている現実(ミクロな正社員競争)が民主主義を通じ多数派になったことで自己責任論というパターナリズムを醸成し政治的な課題を個人の努力に帰責してきたのである。ひと昔前によく言われていたのが「まず働け、正社員になれ、現場を知れ、話はそれからだ」というものだが、いざ正社員になれば、上述した通り小さな優位性を守ろうというバイアスがかかるので保守的になり社会運動には興味をなくす。そして誰もいなくなる。ようするに個人主義とは個人が救われればそれで終わりなのである。そして救われる手段が目の前にあればそれを目指すのは自然だ。しかし個人が個人の戦いに終始している限り社会は変わらない。そのような個人の過剰なリアリズムが政治にも影響しマスとしてのノンポリや若者の保守化を生み、政治的な硬直をも招いてきたという理路なのだろう。そのように多くの労働者もとい国民が近視眼的現実に埋もれデモやストライキという大きな視座は失われていった。残ったのは個人の不満を吐露する場、つまりツイッターである。

 

とはいえ個人という有り方を今更否定することはできない。問題とすべきはそのような形に個人を押し込んでいるシステムのほうであろう。

まずやるべきことはこの無意味な現実(正規ー非正規の競争)を捨てることであり、そして無意味な現実をつくっている正社員制度を「差別だとして」解体することにあるのではないか。

今のままでは正規と非正規のどちらもが正社員制度を解体する動機を持たない。しかしやはり問題ではある。となれば政治的なイシューとして取り上げるには「非正規雇用は差別である」と言うほかにない。

 

もしくは、経済的に言えば、日本経済の低迷でしばしば話題となる生産性の低下も正社員制度に由来するという批判もできる。正規ー非正規という意味のない対立があると生産性は低下していく。正社員が正社員という地位を守るために仕事してるふりをするのは日本では珍しくない。非正規は非正規で正社員と平等ではないためモチベーションが上がりにくい。むしろ非正規も仕事してる風を装うことで正社員になろうと画策することだってある。そのような状況では職務内容よりも社内政治のほうに比重がかかるということもあるだろう。また、会社に貢献しているテイを装うために無意味な会議やサービス残業をする人が出てきたりもする。

 

バブル崩壊後、日本経済は失われた30年とも言われ、それはしばしば政治や金融の問題へと矮小化させられてきた。しかし30年前、バブル崩壊と同時に労働形態が正規ー非正規に分化したことで無意味な対立に国民が終始していた(させられていた)ことも原因としては考えられるだろう。生産性がずっと上がらないというのも、政策の失敗も考えられるが、結局のところ労働者が労働以外のことに尽力してしまうというのがある。そうした諸々を生んでいるのが正規ー非正規という日本独自の謎の枠組みであり、それによって生じている問題は思いの外多いのではないか。

 

 

デモを行う人々への正社員的冷笑

正社員制度による年功序列的視座が生み出す年齢相応の立場にない人への差別

生産性の低下

格差及び格差による少子化

正規ー非正規の競争が生む「近視眼的リアリズム」

「近視眼的リアリズム」が生む「目の前のニンジンを取れなかった人」への自己責任論

等々

 

シロクマさんが「現在のフランスや昭和期の日本では声を上げていた」と書かれていたのを読んで、正社員制度がもたらす労働者の多様性(分断)がその差異と符合する、と一読した時に思いかなりの長文になってしまった。

書きたいことはひとつで、デモやストライキを行うには労働者の立場をある程度フラットにする必要があるということ。「話を始められる」のはそれからであるように思う。

厚労省のツイートから考える利己主義と弱化男性論

厚生労働省のツイートが物議を醸している。事の経緯としては先日、厚生労働省が自殺対策に関するツイートをしたことに端を発する。そのツイートの中で厚労省は若者、女性、子供への自殺対策が必要と記している一方、中高年男性への言及がなかったため、炎上に発展したようである。

 

けっこうテンプレ的な話ではあるのだが、男性の自殺率について論じられることはあまり多くなく、良い機会なので書いてみようかと思う。
 
いわゆる弱者男性を論じる時、男性の自殺率についてはたびたび話題となり、男性差別の論拠として用いられることがある。事実として統計上、男性の自殺率は女性に比べ毎年二倍近い数字を示している。しかしながら男性がその窮状を訴え声をあげたとしても感情的に寄り添われることは決して多くない。女性に比べると男性の自殺は物語としての引きを持たず、論点や統計でのみ議論の俎上にあげられる。そのため、公的機関により件のような発信が行われた際は積極的にツッコミを入れていく必要があると言えるだろう。
無論、厚労省のツイートは近年女性の自殺率が増加傾向にあるというトレンドから行ったものだと推測できるが、何を問題として取り上げるかという判断基準もといケア基準こそが男性が置かれている状況を表してしまっているようにも見える。
 

・日本の国民性調査と個人的経験

 
男性が感情的に寄り添われにくいとはよく言われることではあるが、それ以前の話としてそもそも日本人は他者にたいするケア意識が低いのではないだろうか。それを示す調査がある。
 
イギリスのチャリティー団体が2018年、144の国を対象に『World giving index(世界寄付指数)』という調査を行っている。この調査では寄付、ボランティア、人助けの3項目を数値化し各国ごとにランキングがつけられている。その結果、日本は先進国で最低の数字だった。
それぞれ「他人を助けたか」では142位、「寄付をしたか」では99位、「ボランティアをしたか」では56位となっている。日本は先進国の中で最も他者を助けた経験が少なく、寄付やボランティア意識も低いというのだ。ただ、ひとつ注意しなければならないのは、この調査における人助け指数は「外国人や見知らぬ人を助けたことがあるか」という聞き方で行われたものである点だ。日本には居住する外国人が少なく治安が良いため、そもそも人を助ける場面に遭遇しにくいという点から、この調査だけで日本人が冷酷だと判断するのは早計だと言える。しかしながら寄付やボランティアの数字も低く出ているため、社会的ケアへの意識という側面から見れば日本人は他者にたいし無関心な傾向にあるという参考程度にはなりそうである。
 
補足的にもうひとつ有名なデータをあげると、2007年にアメリカのピューリサーチセンターが行った調査がある。この調査では「国は貧しい人々の面倒を見るべきか」というアンケートが行われた。その結果、4割の日本人が否定的な回答、つまり国は貧しい人々を助ける必要はないと答えた。これは調査した47ヶ国中最低の数字だった。自己責任社会の論拠としてよく引用されるデータであるが、15年前の調査であるため現在は少々改善されているのかもしれない。
 
いずれの調査にしろ日本人は先進国で最も「他者(stranger)」にたいして冷淡な人々だという結果が出ている。古き良き日本人像を持っている人からすれば日本はおもてなしの国と認識しているかもしれないが、実態とは少々乖離している。おもてなしが行われるのは互助関係や利害関係、それに観光客が主なものであって顔の見えない他者にたいしては自国民であっても関心を持つ人は少ないのだろう。ましてや男性となればその「おもてなされなさ」を強烈に感じてしまう人は少なくない。それが日本の実情ではあるのだろう。
 
こうした調査を裏付けるわけではないがひとつだけ実体験をあげてみる。あくまでも個人的な経験ということを前置きして書くと
昔、職場から帰る途中、男性がうつぶせ気味に倒れていて大丈夫かと思い声をかけたことがあった。口の端から泡のようなものが見えていてお酒で酔ってる状態じゃないなと思い慌てて救急車を呼んだことがあるのだけど、助ける自分を誰も助けてくれなかったことにすこし落胆したことがある。その男性は一見すると寝ているだけのように見えた。しかし近づいて見ると呼吸が浅いうえ、うめき声を発しているし脈も速かったので、大声でお医者さんか看護師さんいませんかと言ったのだが、みな通り過ぎていくだけだった。今考えると単に人通りが少なかっただけというのもあると思うけれど。
結局どうしていいかわからず呼吸ができるようにすこし横向きにして支えるだけであとはそのままにするしかなかった。もっと助けを求めればよかったのかもしれないが、大声で助けを求めそれに誰も応じてくれないのがあんなに堪えるものだとは思わなく、それ以上どうすることもできなかった。情けないことだが緊急事態にもかかわらず羞恥心のようなものもあったと思う。その後、救急車が到着して薬物かなにか(オーバードーズ)ではないかと伝えられ搬送されていった。その後、どうなったのかはわからない。
 
 

・絶望と日常の不通

 
こうした僕個人の経験はn=1であり、国民性にまで敷衍するのが間違っているのは承知している。というよりも僕の経験は少々特殊であり、倒れている人がいれば助ける日本人はかなり多いはずだ。あるいは、上記の統計も日本人には勇気がないというのが主要因ではないかとも思っている。決して日本人が優しくないわけではない。それどころか世界でも秀でて優しい人々だと思っている。
しかし「結果として」他者にたいする社会の無関心さやケア意識の低さがそこかしこに転がっているのは否定できない。n=1を3にしてみると、とび職をしていた人が怪我をして職を転々とするようになったら離婚したり、大学の時に友人(男性)が就活に失敗したら彼女にフラれたみたいな話もあった。弱者もとい弱化した男性にたいしては公助というシステムがあっても実際に助ける人は決して多くはない。むしろ逆に離れていく事例はよくあることだ。そうした人間関係のある種の希薄さが自殺にいたるひとつの原因であることはおよそ間違いない。
 
このような話は思想的にもしばしば言われることである。他者への無関心は利己主義に近い。
他者を目的や必要という枠で捉え、己の利にかなうかという基準で判断することが利己主義であるが、日本社会においては相手との関係、その目的が解除され完全なる他者(己に利さない存在)になった時に初めて他者への無関心という国民性、その非情さが牙を剥くという構図になっているのだろう。
 
もちろん、大前提として書いておくと、極めて重要なのはそういう人ばかりではないことを忘れないことであり、そんなことで絶望してしまうのは勿体ないと考えることではある。
しかしそのようなポジティブな思考を持つことは容易いことではない。統計的にも体感的にもネガティブな国民性(他者への無関心)が一定の説得力を持ってしまっているのが事実である以上、個々の経験からくる失望感を緩和することでポジティブに生きようと唱えても、その影響力はどうしても限定的になってしまう。人の無関心さに触れ関係性を切り離された人にたいし、改めてその関係性を構築しようとすることはやはり難しいことではあるだろう。
そもそも利己主義にアテられ自殺まで考える人の苦しさは、おそらくその時にならないとわからない。自殺というのはどうしようもなく結果論であるように思う。
なぜなら、すくなくとも僕達は普段、誰かしらとの関係の中で生きておりその関係を「利己主義」や「無関心な社会」などと結びつけて考えていないからである。ここでこうして書いていてもどこか非現実的なことのように僕自身感じてしまうぐらいである。僕達はデータを検索したりすることで社会に無関心という牙が存在していることを知っていても、その牙で実際に噛みつかれたわけではない。むしろ利己主義の中で生きるをの当たり前だと思っている。僕達は今ここにいる他者を自明なものとして受け入れ、「利」や「国民性」という小賢しい枠組みは鍵かっこの中に封印し、普段はそんな枠組みによって他者を捉えたりはしていない。それは日常と呼ばれたり、平和と呼ばれたりするが、いずれにせよ日常は利己主義みたいなフィクショナルな観念とは無縁なものに見える。
それは当然なことで、社会が利己的であろうが人間関係が目的的であろうかなんだろうが、僕達は多かれ少なかれ社会に適応し、その一員となることで生きていられる。しかしながら逆を言えば、そんな日常を内面化している僕達にとって、社会から切り離された人の気持ちを理解することは難しいということが言える。利己主義の残酷さというのは人間関係の自明性が根底から瓦解するその瞬間までわかりようがない。つまり、自殺とはやはり結果論なのだ。利己主義の残酷さは利己主義の外側に弾かれることで初めて顕在化する。今まで自明だと思っていた人間関係や社会が裏返るということがある。弱者になったことで離婚したり、フラれたり、路上に放置されるような経験を持ってして初めて今そこにいる他者がどれだけ希薄なのかを突き付けられるのが利己的な社会の特徴なのであろう。
 
 
したがって自殺まで考えるぐらい人間関係に見放されてしまった人にたいしどれだけポジティブな言葉をかけようとも、それが「こちら側の枠組みを前提に発する言葉」である以上、その言葉の射程はやはり限定的だと言わざるを得ない。こちら側(利己主義の側)からできることは、あなたが生きていることは私の「利」になると伝えること、つまり「私はあなたに生きてほしい」と言う他にないのだろう。そうでなければどうしても欺瞞的にならざるを得ないように思う。たとえば「あなたには生きている価値がある」とか「生きていれば良いことがある」というようなことを言えば、自殺を考えるほど人間関係への信頼を失った人からすれば「また私とは関係せず切り離すのか」と瞬時に見抜かれるはずだ。それが利己主義によって社会から弾かれた人にかかる呪いのようなものなのだと思う。
そうした言葉の不通、コミュニケーションの断絶こそが他者を他者として切り離す快適な社会の代償なのだろうと、そのように思うことがある。
 
 
 

・男性と女性の社会観の違いは自殺率と相関があるのか

 
いずれにせよ日本人の他者にたいする無関心、ケア意識の低さは問題がある。
そしてその無関心もとい切断処理が向けられる場面は男性のほうが多い。倒れている女性がいれば男性よりも多くの人が心配するように、男性と女性の助けられやすさには明らかな差異が存在している。男性にしか見えない「総体的社会観」は確かにある。逆に、男性は多くの女性が痴漢被害にあっていることを知らない。男性と女性では「経験則としての社会観」がそもそも違うのだろう。
女性の場合には歪な関心(性被害など)が向けられがちで、男性の場合には無関心が向けられる度合いが高い。同じ社会に住んでいても違う種類の視線を向けられる(向けられない)ことで、どう社会を捉えるかというその概念にはズレが出てくる。つまり、男女平等とはよく言われるものの、何を社会として認識しうるのかという「経験の与えられ方は平等ではない」という前提から男女の自殺率の違いは考えるべきではないだろうか。以上の点から男性と女性におけるn=1への遭遇率の違いと自殺率の相関は少なからずあるように思える。
男性の場合、人に助けを求めた時に救急車(公助や専門機関)以外応えてくれないみたいな場面は日本社会ではよくある光景だ。無関心にアテられるということが社会には存在しており、それは男性に向けられることが多い。逆に女性の場合には歪な関心、時には悪と断定せざるを得ないような暴力を向けられることが多いと見聞きする。
しかし、当然ながら性別の差異だけで語れるものではなく、グラデーションも存在している。男性が社会にアテられるように女性が社会にアテられるということも当然ある。
というのも昨今では女性も社会と無関係ではない。社会にアテられるのは近年自殺率が増加傾向にある女性にも同様に降りかかっている事態であり、女性の社会進出と自殺率の増加は決して無関係ではないように見える。今まで女性は家庭の中で生活することが多く、社会とはよくも悪くも距離を取っていた。しかしながら近年は共働きが当たり前になり女性にも経済力が要求されるようになると、女性も社会との接点が増えることとなった。その結果、女性の自殺率は男性の自殺率に近付いていくようになったと考えられる。女性の自殺率は増えているよりも近づいているというほうがいくらか正確な気がしている。
 

・まとめ

 
統計から見える他者にたいし無関心な日本社会、その一端(n=1)に触れた時、なにがしかの反応が人間には起きる。その「反応が起きる数」は女性に比べ男性のほうが多く、そして諸外国に比べ日本のほうが多い。
大声で助けを求めても「あ、誰も助けてくれないんだ」と瞬間的に悟る経験を重ねれば、それ自体はとるに足らなくとも、その一端が全体となり、人によっては社会にたいしある種の諦観や分別を持ってしまう。経験・統計・不運その他の積み重ねの結果、見知らぬ他者との連携・共助という概念が気づいたら消滅しており、いざ「そういう時(自殺を考えた時)」となったら自助と公助以外に選択肢がなく、思考回路がスタックし袋小路に陥るというのが、日本人が自殺に至るまでのひとつの特徴的な機序ではないかと考えられる。具体的な経験の積み重ね、統計から見える国民性、そしてマチズモなどの自浄自縛的観念、それらの要素が堆積し、死にたいのに泣けないような状態になり、少なくない男性が「黙って自殺する」のだ。そしてその沈黙を醸成するのは日々の生活における小さな失望(n=1)の積み重ねではないだろうか。
経験上、声をあげた時に誰も助けてくれない時の失望は強烈だ。それがたとえn=1であろうとも、である。したがってその「1」を生まないように注意して生活することが、男性のみならず女性の自殺率をも改善するための、まさに一助ではないかと、個人的には思うのだ。無論、それはとんでもなく難しいことではある。しかし無関心を装い何もしないということが巡り巡って誰かに小さな失望を植え付けることがある。
その誰かの絶望の芽にならないように生きていきたいものである・・・・せめても、せめてもである。
 
 
※自殺に関する議論は複雑で、単に社会が悪いと一概に言えたものではないとは思います。この記事は読み方によっては自殺が起きるのは「社会が悪い」と書いているようにも読めるけれど、もちろんそれだけで解決するほど甘い問題ではないはず。助けるという観点と同様に「死なない勇気」のような実存に踏み込んだ議論も必要になってくると思うけれど、僕には手に余るのでご容赦願いたい。

エルデンリングをクリアした感想と、まどかまぎかとの類似点

5年ぶりぐらいだろうか。まともにゲームをやった。最後に長時間ゲームをプレイしたのが無印のFF12で裏ボスのヤズマットを三日かけて倒した記憶がある。ヤズマットもたいがい理不尽だった。無印版だとダメージの上限が9999でヤズマットのHP2000万を削りきらなくてはならなかった。

同じくらい理不尽なゲームを今年はプレイした。エルデンリングである。プレイ時間は200時間近くになった。試行錯誤しながらクリアしたのが110時間。クリア後、周回にははいらずオープンワールドをただひたすら走り回るという脳死プレイにシフトした。走り回るだけでも楽しいのだが、攻略本を買いすべての洞窟や坑道を踏破していよいよやることがなくなってしまった。今度はsekiroをやろうかと考えている。ただ、長時間ゲームをやることは弊害もあると感じているので今年は自重しておきたい。たまにスマホゲーをやったり友達とスマブラやウィイレをやるぐらいが健康にはよろしいかと思う。

 

ということで、この記事はエルデンリングの感想だ。

 

私のような久しぶりにゲームをやった人からするとエルデンリングはとんでもなく面白かった。
最近のゲームをやりなれている人からすれば当たり前なのかもしれないが、装備の自由度が高く、自身で攻略の仕方を選択できるのが良かった。フロムゲー初心者は魔術を使ったほうが良いと聞いていたので、私は魔術ビルドで攻略を始めた。走り回りながら遠距離魔術で攻撃するスタイルだ。ボス戦でも遺灰と呼ばれる召喚術を使い、ターゲットを遺灰に向けている間に魔術を叩きこんでいた。しかし途中から、魔術スタイルだとエルデンリングの醍醐味を味わえていないことに気づいた。魔術だとフロムゲーの「達成感」を味わうことは難しい。フロムゲーと玄人っぽく書いているが筆者はエルデンリングしかやったことがないぞ。
さておき、フロムゲーを味わうためにビルド(戦術)を変えはじめた。時期で言えばレアルカリアという序盤のダンジョンを攻略した後ぐらいだった。直剣+盾という王道スタイルでやってみたのだが、いかんせんフロムゲー初心者の私には難しく死にまくることになった。これまで走って逃げるしかしてこなかったツケである。盾の使い方も避け方も下手すぎて話にならないレベルだった。

レアルカリアの次のマップに出てくる王都の門番竜のツリーガード戦は3時間ぐらい戦い続けていた。その後、モーゴット(王都の大ボス)にも苦戦し、さすがに無理ゲー過ぎると思いまたビルドを変え、最終的には右手に黒の刃と神肌剥ぎ、左手には盾+祈祷、防具は軽いものを選びローリングで回避しながら戦うスタイルに変更した。中距離から黒の刃の固有戦技である死の刃で割合ダメージを狙い、近接では祈祷でバフをかけながら出血派生した神肌剥ぎでダメージを重ねていくことで楽しみながらプレイすることができた。うまい人は爪やセスタスで殴り合いをしているみたいであるが、それに憧れてプレイするとストレスのほうが勝ってしまうように思う。自身の腕前に合わせたビルドで攻略していくのがエルデンリングを楽しむコツなのだろう。


それにしても面白いゲームだったのだが、何がここまで面白かったのかは、正直あまり言語化できる気はしない。
面白かったゲームなのは間違いないけれど面白いゲームと言えるのはかよくわからない。エルデンリングが面白いと思えるのは結果論に過ぎないようにも感じている。

プレイしている時にはコントローラーを投げたくなることが幾度もあった。特に神肌の二人という強ボスと闘っていた時だ。二人と言いながら三人出てきたり、理不尽すぎて完全にイライラしていた。一人、二人と倒し三人目と相対していた時、あと一発で倒しきれると集中していた瞬間、後ろから四人目に殴られ死亡した時は思わず声が出てしまった。あのデブとノッポのコンビは絶対に許さん。
それでも面白かったと言えるのは結局のところクリアできたからで、途中で投げた人にとっては面白いゲームとは言えないようにも思う。私も途中で投げ出していたらクソゲーだと言っていそうだ。そのぐらい理不尽の連続だった。ボスはもちろんのこと、理不尽なマップやモブの数々。初見だと何を言っているのか意味不明なNPC。プレイヤーにとってはまったく要領を得ないことばかりのゲームだった。しかしその要領を得ないものがだんだん輪郭を帯びてくるようになる。それがエルデンリングの面白さであるのだ。
初見だと攻略不可能かに思えるボスも一戦一戦をきちんと消化し「点」としてつなぐと、その点が線となり、攻略への糸口が見えてくるようになる。それが楽しい。レベル上げして物理で殴るRPGとは一線を画す面白さがある。エルデンリングのボスはすべてのアクションに回避方法が用意されており、ボスのアクションをひとつひとつ分析し、点として積み上げると攻略できるようになっている。その点を積み上げる苦労ゆえにボスを倒した時の喜びはひとしおとなる。どれだけ理不尽なボスだろうとも、いや、理不尽なボスだからこそ、より報われるように設計されているのだろう。

 

また、それはゲーム全体を貫く世界観にも同じことが言える。エルデンリングのNPCはほとんど何を言っているのかわからない。しかしながら意味不明なことを言うNPCも、複数のNPCの発言を繋ぎ合わせることで朧気ながら狭間の地(エルデンリングの世界)がどのような世界なのか、その輪郭が浮かび上がってくるようになっている。
すこしネタバレにはなるが、エルデンリングの世界観を説明してみると、社会現象となったアニメ『魔法少女まどかまぎか』に似ているところがある。エルデンリングは黄金律と呼ばれる世界のシステムを巡りそれぞれのキャラクターが奮闘する物語だ。それはちょうどまどかまぎか最終話で、きゅうべえが変身するまどかの願いにたいし「それは因果律への反逆だ」と言うのと似ている。エルデンリングも因果律もとい黄金律を中心に物語が進行する。その「律」をひっくり返すのかどうかという物語の最終軸はまどまぎとかなり似ている。因果律と黄金律、システム化された世界への反逆、適応、従属、その狭間を駆け回るのがエルデンリングのプレイヤーなのである。

 

話を戻そう。エルデンリングの世界観がどのように紡がれているのかだ。エルデンリングのNPCはまったく独立した意味不明な存在のように見えても、どこかで必ず物語として紡がれているのが面白い。NPCの要領を得ない発言もひとつひとつが「点」であり、ボス攻略のようにクリアした時にその点が逆算的に組み上げられ、プレイヤーへの報酬として提示されるのがエルデンリングの物語の特徴だと言える。まどまぎでほむらちゃんが第一話でどうしてあのような行動を取っていたのかがわかるようになるのと同じような感じである。帰納法的とも言えるけれど、とにかくプレイしている間は何が起きているのかよくわからない。しかしクリアするとなんとなく物語が見えてきて、なんのために理不尽なボスと闘ってきたのかがわかるようになっている。わかるようになるというよりも考察可能なピースが集まってくると言ったほうが正確かもしれない。とはいえ、最後までメインヒロインであるメリナが誰なのかはよくわからないのだが(笑


つまるところ、結論としてはエルデンリング面白いゲームだと言えるものの、その結論に到達するまでが並大抵ではなく、初心者の私にとってみればなんのためにこんな理不尽と闘っているのか自問自答することが多々あった。正直言えばストレスのほうが勝っていたように思う。もちろん、ストレスとは別にアクションの面白さは当然あるのだが、実際にプレイしている時はそれどころではない戦いの連続で楽しんでいる余裕は少なかった。
それでもなおエルデンリングをおすすめできる理由として、そのストレスや理不尽が報酬として必ず返ってくるようになっているためだ。
死にゲーはドMの人におすすめだとよく言われるけれど、死んで気持ちよくなってしまってはエルデンリングではない。死ぬことでイライラし、理不尽を蓄積し、その理不尽を克服した時のカタストロフィーにこそエルデンリングの醍醐味がある。したがって途中で投げ出さないことを条件にすればであるが、というかそれが一番の難関であるのだが、普通にイライラする人にこそおすすめできるゲームだと言えそうだ。


ぜひみんな今からでもプレイしよう。私はいつでも対人で待っているぞ・・・早くDLCこないかな