メロンダウト

メロンについて考えるよ

松本人志の件がよくわからない

松本人志(敬称略)の件が大騒ぎになっているのだけど、いまいち何が問題なのかが見えてこない。

後輩芸人が松本に女性を「献上」しているという報道があるけれど、直接的にレイプされたというわけではないようである。また、一般の女性であれば松本が権力の勾配を利用して性行為に及んだとは言えない。伊藤詩織さんのように酒を飲ませられたという報道も今のところない。有名芸人である自身の立場を利用し、女性を「ひっかけていた」ということであれば、「キモイ行動」であるし、社会通念的には批判されてしかるべきであるが、だからと言って罪と断定できるようなことではない。自身の地位を利用する形で性行為に及ぶ人はいくらでもいる。

また、能力や地位のある男性へ魅力を感じるのが女性の一般的な態度であるため、そのような意味では勾配を求めているのは女性の側であったりする。女性が勾配を求め、地位のある男性がその勾配を利用する。そうした構造は溢れかえっており、松本がその勾配を利用したからと言って何が問題なのかいまいち判然としない。問題があるとすれば不貞であるということぐらいだろうか。また、仮に告発者の女性が芸能関係の仕事をしていたとすればハラスメントにあたるため、問題となる。けれど今のところ告発した女性が何者なのかはよくわかっていない。

つまり直接的なレイプでもなければ、職権を利用したハラスメントでもなく、お酒を飲まされたわけでもなく、当然、責任能力がない未成年でもないため、なにが問題なのか正直よくわからない。こう書くとセカンドレイプだと言われるかもしれないけど、普通、性加害と判定される場合には有形無形の強制性によって性行為に及ぶ以外になかったと判断するに足る材料が要ると思うのだが、現状、なんの強制性によって告発者は松本と行為に及ばなければならなかったのか、そこが見えてこない限り松本のことを性加害者と呼ぶことは躊躇「しなければならない」だろう。

しかしながらいろんな人の論調を見ているとその躊躇がない人が多いように見える。松本が有名人だということからアカハラやセクハラと同列に扱い性加害者という人もいるが、他人と同僚は違う。関係性によって生じる無形の圧力の有無が違うため、押しなべて捉える議論はかなり危ない。関係性がなければ性行為に及ばなければいけない蓋然性がない。つまり被害者が害を被るだけの理由がない。

 

 

「俺の子供を産めや」という発言に関しても行為の最中にそういうことを言う人はいるため、「キモイ」以上の判断がつかない。行為や発言の部分を切り取って見るのであれば、性行為は暴力的なことばかりだ。たとえば首を絞めることや、局部を触ること、喉の奥まで陰茎を押し込まれるのが好きな人もいる。また、言葉攻めで性癖を満たすような場合、その言葉のほとんどは暴力的である。パートナーとであればいざ知らず、当座の夜に知り合いカジュアルに性行為に及ぶ場合に関しては猶更そうで、お互いの性癖がすれ違うことだってあるだろうしそうしたものの多くは、外部から見ればほぼすべて「キモイ」ものとなる。

つまり「俺の子供を産めや」という発言は確かにキモイのであるが、どういうシチュエーションや文脈で言われたのかわからないとそれが抑圧的であるのか、性的であるのか判然としない。また、実際に言ったのかどうかも、まだよくわかっていない。現状では仮に言ったのだとすれば「キモイ」以上の判断をすることができない。そしてキモイで人を批判することは、ラディカルフェミニストのやっていることと同じであるため、個人的にはそのような批判はしたくないし、すべきでもないと思っている。

 

いわゆる時代の流れという批判の仕方も好きではない。「女遊び」という文化を批判するのはかつて文化左翼がやっていたことと変わらないからである。

草津の件やジョニー・デップの件、また最近だとプレミアリーグサンダーランド所属であるジャック・ダイアモンド選手が虚偽の告発被害で出場停止になっていた件もあり、女性の告発を無邪気に信じるようなフェーズはもう終わりつつある。metooやリベラルの影響で、性加害が社会的な死を意味するようになった現代では告発者の言葉を「信じる」ことがむしろ危ない態度になっている。現代は情報化により誰もが私刑に加担できるようになったため、厳罰の時代とも呼べると思うが、罰が重くなれば罰の重さを利用しようとする人が出てくる。それは男性であれ女性であれ関係がない。告発者へ疑義を呈することはセカンドレイプであるというような、ひと昔前のリベラルを正義だと思い、女性を無謬だと信じるような無邪気なことをしていると虚偽告発の被害者へのセカンドアタックになりかねない。そしてそれに加担している人はかなりの数いる。

今回の松本の件でそれを如実に表しているものがある。告発者の女性が松本と行為に及んだ直後に送ったとされるLINEのメッセージで合意があったと思われるような文章を送っていたのだが、これにたいする論調は「性被害者は被害に遭った直後はそれを被害だと直視できず穏便に事を済ませようとするためLINEのメッセージは合意を証明するものにはならない」というものである。実際、性被害に遭った人が直後に被害だと認識できないのは紛れもない事実なのだと思う。

ただ、現状ではどちらが被害者であるかはまだよくわかっていない。そのため穏便に事を済ませようとパニックになっているのは松本のほうであるかもしれないのだが、そのような論調は見受けられない。松本がLINEのメッセージにたいしX上で反応し「とうとう出たね」とツイートしていたのだが、松本が虚偽告発の被害に遭いパニックになっている可能性は誰も考慮していない。そこに非対称性がある。

実際問題、これまで積み上げてきたキャリアを文春の記事ひとつで奪われるのは、比べるわけではないが、性被害に遭うのと遜色ない程度には傷つくことだと思うが、世論は加害者というレッテルを張った瞬間に加害者の言葉はすべて真実であるという前提で反応するようになる。しかし当然ながら、まだ、松本が被害者である可能性だってあり、その場合、性被害に遭った直後の女性が発する言葉に真実性がないのと同じように、虚偽告発の被害にあった松本の発言のほうにも真実性がないということになる。

女性の発言は時に「都合よく」解釈するのにたいし、松本の発言は責任能力を認めパニックになっていないという前提で議論するのはそれ自体が女性のほうを責任能力のないものだと考えており、どこか性差別的にすら見える。女性を未熟で搾取される側だと信じ、男性は責任能力がある権力側であると信じる。それが長年リベラルが取ってきた様式であるため、もう完全に内面化しているのだと思う。

 

 

結論としては、現状、松本が性行為をしたという以上の情報がない。それが加害なのか合意なのかもよくわかっていない。告発者と松本の間に仕事での関係性があったのかもわかっていない。行為及び行為にいたる過程でキモイ発言をしたのかも文春の記事でしか書かれていないためよくわかっておらず、実際にしていたのだとしても性行為の最中はだいたいみんなキモイのでキモイことは感情論の域を出ず、加害かそうでないかの判断材料にはならない。当然ながら、僕はポリコレにも組しないし、リベラルの政治的判断を個別の事件に「援用」するなど愚の骨頂だと思っている。

つまり、何をもってしてここまで騒いでいるのかよくわからないでいる。今のところ「有名芸能人が失墜するかどうかで熱狂している」だけに見えるけれどそれがいつもの光景だと言えばそうなのかもしれない。

「コミュパ」という言葉がこれから出てくるのではないか

芸能人が失墜する件が話題だけど、芸能人の権威がなくなる時代、というよりもなにかみんな芸能人みたいになってきたなと感じることがある。芸能人と言わず配信者やYoutuber、有名人でも呼び方はなんでも良いのだけど、人に見られている前提のふるまいを常に要求されている感を持っている人がわりといるのではないかと思うことがある。ひと昔前で言えばキョロ充というやつで、もっと古臭く言えば空っぽな日本人がそれにあたると思うけれど、こうした過ー受動的な傾向は近年、強くなってきているのではないだろうか。コミュニケーションの取り方にしても喋っていることがデフォルトで間があると困る人であったり、隙間時間があればスマホを見るように、端末や会話相手と常に接続していないと不安になってしまうようなそんな感覚を僕自身、覚えることがある。

 

テレビに出ている芸能人だったり、ネットで配信している人は常にしゃべり続けてるし、ネット上のプラットフォームでは回転率を上げるためかショート動画や短文メディアが今や主流となっていて、どんどん「間」が埋められていっている。芸能人などは視聴者に退屈させないようにするのが仕事なのでそれで良いと思うのだけど、なにかネット社会になって以降、その矢継ぎ早なコミュニケーションが市井にも滲み出してきているように感じている。

似たような話ですこし前に話題になったのがタイパやコスパといった概念であるけれど、タイパやコスパはあくまでも消費をベースにした話で表現をどう受け止めるかといった態度の問題であった。しかし表現を広義に捉えるのであれば会話相手が喋っている内容も表現のひとつと言える。そこに「パフォーマンス」を求めるとかなりおかしなことになる気がしている。当然ながら普通に会話する時にパフォーマンスを気にして喋ることはほとんどない。気にするとすれば恋愛関係になりたい相手を口説く時やプレゼン、商談、面接の時ぐらいのものだろうか。それ以外の場面でパフォーマンスを気にしてコミュニケーションを取ることはあまりない。しかし最近はどうもそういうわけでもないのではないか、といった印象を受けることがある。

個人的な話であれだけど、去年のお盆だったかに知人が実家に帰ったという話をしていた際、その知人が「家族で食事をしていて盛り上がらなかった」という旨の話をしていたけれど、盛り上がるか盛り上がらないかで測ってしまうこと自体がなにか違っているのではないかと感じたのを覚えている。その時、僕は「そんな盛り上がるものではないでしょ(笑)」と返したけれど、ただ、そうやってなにかにつけパフォーマンスを見てしまう感覚はわからないでもないのだ。

タイパやコスパといったものを内面化している人はもとより、これだけ情報社会化すると誰もがパフォーマンスに絡めとられざるを得ない。時間を気にしないで生きようと思っているとむしろ永遠にショート動画などを漁ることにもなりかねないし、コストを意識しないで生きていこうと思ってもそういうわけにもいかない。つまり全員が程度の問題はあれど物事をパフォーマンスで測らざるを得なくなっている。

そしてお互いがパフォーマンスを大事にしているといった前提でコミュニケーションを取るとどうなるかと言えば、相手の時間を奪ったり、ハラスメントに代表されるような感情的侵襲は総じて避けられるようになる。飲み会が回避されるようになったのも、結局のところ、相手の時間を奪ってはいけないといったパフォーマンスの話に着地するのだろう。そして、相手がパフォーマンスを気にしているという前提に立ちコミュニケーションすればお互いがパフォーマンスを最大限発揮させようと思い、自然、芸能人や配信者のような間を置かないかつ面白く相手を傷つけないコミュニケーションへと洗練化していくことになる。言うなれば「コミュパ」である。

その結果、今の若い人はかなりコミュニケーションがうまい人が増えている印象がある。

しかし視点を変えてみれば、そうしたパフォーマンスを意識してコミュニケーションをとるのはどこか強迫観念めいていて本当にそれで良いのかと思わなくもない。ベタに言えば幸福なことなのだろうかと。

ただまあ、時代的にもうそういうものに適応せざるを得ないのも事実で、考えてもあまり詮無きことなのは確かである。

災害でパニックになっているのはどこか考える

あけましておめでとうございます、と言えるような年明けにはならなかったですが、とりあえず、あけましておめでとうございます。

 

能登半島で起きた地震にたいして切り込み隊長(古い)が記事を書いていた

note.com

 

 

これを読んで思い出したのが災害ユートピアだった。災害ユートピアはいわゆるスクラップアンドビルド的な話で、災害によってそれまでの生活様式が崩壊すると人々は相互扶助を構築し、手を取り合うようになるというものである。

 

 

文明が発達すると個人が自由に生活できるようになるけれど、自由が行き過ぎると共同体が失われるのはよく知られている。近年では無人レジをはじめDXなどによって人と話す機会は減ってきているし、共同体の崩壊と言われて久しい。ここでその是非について書くつもりはないので割愛するけれど、いずれにせよ、日常生活において共同体はかつてよりかは必要とされていない。そんな生活を送っている。

そうした生活が破壊され立ち行かなくなると人々は手を取り合うようになり「絆」が再起動する。行き過ぎた自由に閉じ込められているのがディストピアだとすれば、そこから解放される災害時の連帯をユートピアと呼ぶことも、できなくはない。それが災害ユートピアの論旨となっている。もちろん災害そのものは、命を奪われる人がいるため、悲劇であることは間違いないものの、悲劇を共有することで人々が連帯するようになるのは事実としてそうなのだと思う。

 

 

そして災害ユートピアで指摘されていたもうひとつ重要な概念が「エリート・パニック」というもので、この概念は山本一郎氏の記事を読む際に役立ちそうなので紹介したい。

前提として、災害時にたいするテンプレ的なイメージとして「災害が発生すると人々は混乱し略奪や凌辱に走るようになり治安が崩壊する」というものがあるが、これは一般に流通しているイメージよりも少ないようである。よく海外と比較する形で災害時における日本人の振る舞いを称賛する言説を見ることがあるけれど、災害ユートピアによれば海外でも災害時は相互扶助のような善き行いが発生することが多いようだ。人は悲劇に相対した時、悲しみに暮れはするものの、悪行に走ったりなどは、ほとんどの場合、しないのである。

ではなぜ災害時に群衆がパニックになるといったイメージが定着しているのかと言えば、エリート層が治安の崩壊を恐れているからだと説明されている。

エリート層は、その手法は様々なれど、群衆は何も知らず静かに日常を送っていてほしいと考える。革命などが起きてエリートの地位が脅かされることを嫌うからだ。

*1

災害が起きた時に民衆が結託し、日常においては力なきバラバラの個人が集まることはエリートにとって不都合な出来事であるし、ましてや災害という悲劇を乗り越える物語の訴求力は政治的に言えばかなり強烈なものとなる。それによってエリートの地位が脅かされるかもしれないという予期不安によってエリートがパニックに陥る。それが「エリート・パニック」と呼ばれる。

災害は確かに悲劇であり、時にパニックに陥ることだってもちろんあるだろう。しかし人は災害にたいしパニックになるのと同じかそれ以上に災害にあった人がどうするかわからないという未規定性のほうにこそ慄く。そしてその度合いはエリート側、つまり自身は安全だと考えている人のほうにたいし強烈に働く。

 

エリートパニックが是か非かという議論はあるだろうし、今の社会でエリートと市民という分け方が単純に通用するとは思えない部分もあるけれど、ただ、当事者と第三者で分けた時、災害のみならず何か事件が起きるとパニックになるのは第三者のほうなのではないかと感じることは多々あるように思う。特にSNSでは。

 

実際、今回の震災においてもパニックになっているのは被災者のほうではなく、東京を中心とした統治側・安全側のほうであるように見える。山本太郎さんが被災地に行くことで物資が届かないかもしれないという予測でパニックになっていたりする。また、一般人が被災地に駆けつけることによって渋滞が起きているのが本当かどうかでもパニックになっている。けれど政治家一人が被災地に行ったところで物流が滞るなんてことはありえない。おそらくは政治家の振る舞いによって一般人も被災地に行ってしまわないかという予測によって不安になっているのだろうけれど、人々がどう動くかわからないと考え不安になることがまさにエリート・パニックの典型なのではないだろうか。第三者がその領分を超えて当事者の気持ちを代弁する。そうしてパニックが拡大していくことになる。

 

同じように、エリートパニックは言論としてもしばしば確認される。象徴的なのが「早く日常を取り戻してほしい」というものだ。どのメディアでもしきりに言われている。みな日常を願う。しかしその度合いは得てして安全な場所にいる人々のほうが強いものとなっている。東日本大震災の時もそうだった。メディアでは「絆」という言葉が強調されていた。しかし当事者にとって見ればそんなことは言うまでもないことなのである。困ればみんな助け合う。そこに絆は「勝手に」生まれる。日常を取り戻すと言われずとも取り戻す「しかない」状態にある。つまり、そんなことは言うまでもないことなのだ。

 

そもそも被災が全面的に悲劇であるというわけではなかったりする。表立って言われることはないが、日常がつまらないと感じている人にとってみれば災害によって高揚感を得ることだってあるだろう。子供にとってみても避難所の体育館で友達と夜を過ごすのはある種楽しい出来事だったりする。災害はある種のカタルシスをもたらすことがある。しがらみの多い生活を送っている人にとってみれば家も会社も潰れてすっきりしたという人も中にはいるだろう。

しかしながら「こちら側」が被災を喜劇として見ることは許されていない。被災地は大変だろうと考えなければならない。換言すれば被災者の多様性をある意味では認めていないという風にも言える。被災は悲劇であるという先入観を持って相対し、被災者はパニックになっていると考え、日常を取り戻してほしいと言う。しかしながらそうした言説が喧伝されるのはこちら側(エリート側)がパニックに陥っているに過ぎなかったりするのだろう。被災は「単なる」悲劇ではないし、喜劇でもない。

 

パニックをおこすのは当事者だけではないのだ。特にSNSではいつもそうである。コロナの時もそうだった。第三者が第三者でいられず当事者へ過度に擬態し、代弁し、セキュリティーを張ろうとすること、いつもそれがパニックの源だった。

 

無論、亡くなった人や遺族のことを考えれば、災害はユートピアを作り出し人々の連帯を取り戻すなんて言うこと自体が憚られるし、そんな単純な切り口で見ることはできないけれど、同じように災害は悲劇であるというのも単純過ぎやしないだろうかと。

けれどやはり、そうは言っても日々増えていく被害者の数を見ていると、そんな抽象的な話に意味なんかないよなと突きつけられるのも事実で、なんというか当たり前のことだけど人が亡くなるというのは殊更重いものなんだよなと・・・

*1:(ちなみに今日におけるリベラルエリートがハラスメントであったりポリコレのような概念をしきりに喧伝しているのも統治手法のひとつに過ぎないと個人的には思っている。)