昨今、多様性という言葉がよく聞かれるようになった。他者の価値観への寛容性とも言い換えることができるが僕はこの言葉をポジティブに捉えることができないでいる。どころか冷徹で残酷で無機質な、いや機械的ともいっていい常套句、逃げ口上だと思っている。
「君の描いた抽象画もステキだね、でもあっちのアニメもかわいいよね。うん、どっちもそれぞれいいよね」
などというスタンスには多様性という言葉を借りたどうでもよさや一定の壁に似た距離感がある
天気のような意味のない内容の会話を除いて日常会話から国会の議論まで人が言葉を真剣に重量や熱量を持って発している時の目的というのは自分が他人に影響を与えたいから発しているものだ
逆に聞く立場であれば自分が他人から影響を受けたい、相手を知ってその領域に触れたいと思うからこそ初めて人の話が聞けるようになるのだ
よく思い出してみればいい
中学校の終業式に校長先生が意味のない挨拶をしていたがいじめっこからいじめられっこ、成績の良い人も悪い人も誰一人まともに聞いていなかったことを
僕「僕と付き合ってほしい」
彼女「ゴメン、私は付き合いたくない。でもね、多様性だから悲しむことなんてないよ」
つまり多様性とは単なる事実としてでありもしくは雰囲気でありけっして人間関係を標榜するようなものではなくコミュニケーションを円滑にするものでもない
むしろとても悲しいものである
共感や同情など人と人が交わっていく中では一様性こそが重要なのである
海外の人と話をするときにも盛り上がるのは多様性の話ではなくむしろ文化や慣習がすりあった時の一様性の部分であり、そうして肌の色も言語も違う人と心のようなものに触ることができるのだ、いや触ると勘違いできるのだ
多様であるというのは楽であると同時にコミュニケーションを放棄する言葉でもあり思考放棄の典型でもある
多様性というのはその汎用性や価値観の違いを認めるスタンスのようなものでポジティブな意味でとらえられており、多様性を認めることが大人であるようなことまで言われる
社会が多様であるというのは単なる事実であり、僕達はみな社会人である前にそれぞれ特殊な個人なのだよ
George