メロンダウト

メロンについて考えるよ

男性の息苦しさは多様性では救えない

仏教の経典に「受想行識も苦なり」「一切皆苦」「色は苦なり」

などあるけれど男性の息苦しさは社会がどのように変化しようともなくなりはしないのだろう。

社会の外部条件によって男性のロールモデルが変化し、求められる男性性が変わっていることは確かにあると思う。

ブレイディみかこさんもどこかの記事で「今はアフォードできる男性が求められている」と書いていたしこちらの記事

gendai.ismedia.jp

に書かれていることも社会が変化した以上のことは書かれていない。社会が変化して求められる男性像が変わったことにより男性は適応を求められるようになったは僕の実感としてもそうだと思うしまったく同意する。

同意するのだけどそれはそれでどこか幼稚な思想のようにも見えてしまうのだ。

一昔前に「あるがままでいい」や「ありのままでいい」とか世界にひとつだけの花とか流行った時期があった。上記記事で書かれていることはその「ありのまま生きられない問題」に近い。

社会の条件が変化しても求められるロールモデルも変わっていく以上、結局は適応勝負になってしまい男性の息苦しさはなくならないのは、それはそれでその通りだと思う。

 

だからありのままでいい。ありのままで生きて多様性を認めてみんな個人のまま生きていこうは正しいように聞こえる。それこそが我々男性を男性性から解放する唯一の思想なのだとみんな言っていたし今でも言われている。多様性というのがそれだろう。しかしそれは言説や音楽として正しくても現実に落とし込んだ場合、途端に何を言っているのかわからなくなる。

人はみな現実において限られた条件の中でなにかを選択して生きていかなければいけない。その中で主観的な選択を迫られる場面が必ずありその時に多様性という言葉は何の役にもたたない。ニートがいいからニートでいいというわけにもいかない。バンドマンが音楽で食べていくんだと言ってもそうはいかない。40過ぎて48グループにはいってアイドルをやるんだといってもそうは問屋が卸さない。

ましてやそういう志しがある人間のほうが少数派ですらある。誰もが人生において夢や自己実現を追うような物語を持っているわけではない。なんのチェックポイントも持たず物語を得る機会もないまま大人になった人だっている。

そういう人にとって多様性や自己実現やありのままという言葉を叩きこんだとしてもそんな言葉にどれほどの意味があるのだろうか。

多様性や夢や物語がない人でもそれでも生きていかなければいけない。そういう人にとって最終的に残された指針として男性像だったりロールモデルが残されることになる。

主観的なレベルにおいては多様性やありのままという言葉はなんの影響力も持たない。多様性は常に外の世界を見る視点として理想的だと語られるに留まる。支配的になることはない。人間は自分の見ている世界の認識でしか世界を想像できないのだから。主観的なレベルにおいて多様性がいかに無意味な言葉かという戦慄を持った無垢の弱者にとってすれば外の世界を見る時にも多様性は無意味なものに見えて当然なのだ。

人間は外部と内部を切り離して認識できるほど上等な生き物ではないし外部の世界を語る時に内部の経験を引っ張り出して語ることのほうが多い。外部を切り離して「やっぱそりゃ多様性だよ」って語るほど多くの人間は愚かではない。内部の経験を引き合いに出して現実はこうだよと語るほうがむしろ普通であり説得力すらある。そうやって個々人が内部の経験を引き合いに出すとひどく主観的なものになり多様性に反するものしか出てこないので識者達が「今の世の中は多様ではない」などと言い出すことになる。

 

人間がこの世界に生きている限り、現実からは離れようがない。その結果、程度問題としてみなリアリストになり結果としてみなが「適応が一番だよ、多様性なんてなんの役にもたたない」と言うことになる。そして僕はそれは当然のことだろうと思う。

みながみな多様性だよと言う世の中のほうが気持ちが悪い。みんな自分の経験の範疇で語れることを語るほうがむしろずっとありのままだろうと思う。その結果、わけのわからない男性像や息苦しいロールモデルが生まれることになろうともそちらのほうがむしろ好ましい。ありのまま生きれる人は「多様性を発揮できる限定的条件のもとに生まれた幸運な人」であるだけである。物語など必要ない。人間は産まれて死ぬまで生きなければいけない。

そこに物語があろうとも、なかろうともだ。