メロンダウト

メロンについて考えるよ

日本人はあまりテロのことを語らないほうがいい

これは何もテロに限った話ではないが自ら経験したことのない話題についてはてなブックマークやtwitteにブログでたくさんの人がコメントを残したりしているが自分の守備範囲以外のことを一般化して語るのはあまりやめたほうがいい。僕もやっているが書き込むときは注意している。

およそ大人は「わからない」という言葉をほとんど使わないしあまり使うべきではないとされる。使うとしてもどこの何がわからないのかを言うべきだと。テレビ番組のワイドショーでもコメンテーターがわからないというのを聞くことはまずもってない。下手したらクイズ番組でもてきとうに答えを言ってしまったほうが良いとされるぐらいだ。

 

しかし大人になったってだいたいのことはわからないものである。子供はそのままわからないですと言ってしまうが大人の場合にはわからないと言うことは無知であり恥をかいてしまう恐れがあるのでその場の空気と感情の動きと一般道徳や自分のキャラクターや役割などによって言語化しているのである。これは生き抜くためには重要な技術であるが言ってしまえばその場しのぎ、もっと言えば刺激にたいする反応なだけであり過去の感情的経験などが伴っていない。

 

テロを語るときに日本人が論説や意見を発信する時には宗教も知らない、銃も知らないのでそれはただの自らの言節に無理やり紐付けしただけの一般化であり近代という常識であったりもしくはただの「刺激にたいする反応」であり全て形而上でしか語ることはできない。感情的経験を経ていない以上はすべて陳腐化してしまうだろうしそれらの意見や言葉は発すれば発するほどただただ虚しいだけである。

 

「およそ語られうることは明確に語られる」と言ったのはウィトゲンシュタインだが彼は同時に

「何が語りえないことで何が語りうることなのか明確にしていくこと」と続けさらに

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と結論づけます。

 

今回のフランスの自爆テロを鑑みるに

テロリスト側は自らの命をなげうってまでの殉教精神があったのだがおよそ僕が触れてきた世界ではこのような精神状態になることは絶対に理解できないし、仮に言語化しようとすれば漫画や小説に出てくる話と紐付けしなければならずそれを無理やりに語ることに意味などまるでない。ゆえに沈黙せねばならない

 

130人の被害者についてはただ日常の中で覚悟もその場の理解も及ばないうちに、わけのわからない間に爆発が起き、銃を乱射されて殺されてしまった。中にはすでに人生に絶望してこうした世界的事件の被害者として殺されたほうがむしろ本望だったという人もいたかもしれない。

ただ仮にそんな人がいたとしても頭を銃で撃ち抜かれ爆発で吹き飛ばされ死んでしまった時の痛みや遺族のことを考えればやはり一度黙るべきでしょう。

 

ましてや幸せに生きてて犠牲者になった人にかける言葉なんか見つかるわけがない。

「お悔やみ申し上げます」やRIPなどがいかに浅薄な言葉だと寒気がする。

 

 

 

僕たちはみんな語りえない

殉教した兵士もただ運が悪かっただけの犠牲者のことも沈黙せねばならない・・・のではなく沈黙するしかないんだよ

 

 

 

bylines.news.yahoo.co.jp