メロンダウト

メロンについて考えるよ

コミュニケーションは能力の問題ではない

コミュニケーション能力という言葉に昔から違和感がある。

 

コミュニケーションを能力という側面から見た場合、誰もが生まれた時から人と接して生きてきているのだから中学生ですら10数年は人とコミュニケーションをとり続けてきた経験がある。だから全員がコミュニケーションにおいて達人であるとも言えてしまう。

10数年も同じ言語をしゃべり続ければもう能力というパラメーターで測れるレベルではない。他の競技と同じようにだ。野球で言えば変化球がよく曲がる人、150kmを投げる人、アンダースローで投げる人ぐらいの個人差でしかないように感じる。キャッチボールができない人というのはかなり稀だ。それはコミュニケーションにおいても同じである。

 

コミュニケーション(発揮)能力

じゃあそもそもコミュニケーション能力ってなんなのかって考えるともう体調とか精神状態の話でしかない。普段、おとなしいけどお酒を飲むとめちゃくちゃ面白い人とかがいたりするがあれもコミュニケーション能力ではなくコミュニケーション(発揮)能力の問題だ。幼児以外はみんな何十年と齟齬がありながらも他者とコミュニケーションを取ってきた経験があるのだからポテンシャルで言えば全員が達人なのだ。

 

だからコミュニケーションに関して能力の多寡を問題にすることがそもそも間違っている。

コミュ力という言葉自体が実際の体を成していない。能力ではなくいかに自分を信じて家族や友人と話すように初対面の人や面接官に話すことができるかという発揮力といったほうがしっくりくる。

 

友人に話すように就職活動の面接官に接することができるかと言えばほとんどの人は難しい。しかし就活において大切なことはとにもかくにもリラックスすることである。特に新卒の就活などは何をしゃべるか、何ができるのかよりもただ自然体でいることだけが重要だったりする。新卒の大学生を実務能力という点で見た場合によほどの人でないかぎりまだ誰も何者でもない。

 

だから就活ではコミュニケーション能力がとりわけ重要視される、しかし逆に考えるとコミュニケーション能力ぐらいしか評価する基準がないのである。研究職などの専門職以外においては。

コミュニケーション能力というのは上述したように能力の問題ではなく発揮できるかどうかの問題であって能力の多寡はほとんど関係ない。ネガティブな人間でもそうだ。

ネガティブな人間だからこそ持ちうる思慮深さや神経質な側面も立派なコミュニケーション能力である。またポジティブな人が持つ推進力ももちろんコミュニケーション能力である。

 

コミュニケーションを100点満点でパラメーターとして評価した場合

その能力の数値は100と10ほど大差はない。せいぜい100と50程度でしかない。しかしそれを発揮する能力という側面で評価した場合には、10と100ぐらいには絶望的な差が出てくる。

 

だからコミュ力を鍛えようというのはそもそもが間違っているのだ。正しくは発揮力、もしくはもっと実際的な言い方をすれば適応力を養うことが肝要である。

 

 

スポーツをやっていた人間ならわかるが100mを11秒で走る人が10秒で走るようになることはかなり難しい。それこそ尋常ではない努力を必要とする。しかし20秒で走る人が15秒で走ることはかなり簡単だ。脂肪を筋肉に変えるだけでまぁ走ってしまうだろう。15秒で走る人が正しいフォームで毎日走っていれば13秒で走ることもほとんどの人は可能だ。

コミュニケーションもスポーツに似た側面がある。

コミュニケーション能力を鍛えようとした時に多くの人がやろうとしていることを100mで例えると、13秒で走る人が骨格的、遺伝的に甚大な努力を必要とするのに11秒で走ろうとするようなものである。

13秒で走る人はもうそれ以上を目指す必要はないのだ。コミュニケーションは競争ではないのだから。

13秒で走れるようになったら安定感を求めて常に一定のペースで走り続けられるようになることとそれを発揮する状態のほうにシフトしていくべきである。

 

具体的に言えば音楽を聴く、良書を読む、心を休ませる、運動するなど正しい状態に体と精神を持っていくことだけがコミュニケーションにおいてはただただ肝要なのである。

 

それもまた時にひどく難しいのであるが・・・