メロンダウト

メロンについて考えるよ

20代でフリーになる若者に僕が思うこと

キャリアという言葉をすぐに使う人間が嫌いである。

それはただ個人の自尊心の内膜を吐露しているに過ぎない。50年だか60年だか生きているか知らないがそれでも人の人生の指針を明確に断定的にアドバイスするには短すぎる。参考にします!!!というはてな互助会程度の反応が適切だ。

 

投棄と唾棄

ブログを眺めていると会社をやめてフリーになるという人を散見する。ブロガーになる人もいたりするがそれはそれで好きにしたら良い。ネットにゴミを巻き散らかしたお金で飯を食べてもいい。インターネットは投棄が違法なわけではないし地球以上に広大で無限の土地があるのだから好きにすればいい。

あまり楽しいとも思えないがキャリアという言葉に苦しめられるよりも俗世から降りて割り切って金をかき集める手段としてインターネットを使うことは会ったこともない他人を唾棄し口を出すブックマーカーよりもよっぽど利口である。

 

現代は自らを抽象化させたもの勝ち

現代社会において金銭的に富むとは何かを考えた時に出てくる概念が具体性と抽象性だ。

新幹線が走れば歩くという具体性がなくなり電話が生まれれば対他性がなくなりメールが生まれれば声すら消えていく。技術革新は基本的に物事の具体性を排除し抽象化することである。人はそれを便利になったと呼ぶが逆にネガティブに考えると

具体性、身体性の価値が落ちていって技術を駆使しなければ生きていけなくなっているのだ。

 

これはアルバイトや派遣などの単純労働の賃金がもはや生活できるレベルではないほど低下していることからもわかる。アルバイトをする人間は自らの体という資本ひとつでしか収入が得られない。

しかし他人は技術革新により体、技術、知識などを駆使して抽象化させて行動するから自分の体ひとつで生活しようとすると現代では困難を極める。貨幣は相対価値であるから他人が生む剰余価値が大きすぎることでアルバイトは困窮していくという構図になる。

そしてそれはサラリーマンもある意味では同様だ。

NECに勤めていた友人はかなり重要なインフラのプログラムを書いていた。その後彼は退職したが彼が書いたプログラムはいまだに使われているようだ。

しかし彼の元に残ったのは技術だけで権利収入は残っていない。これはアルバイトが技術を駆使できないのと同じようにサラリーマンは権利を駆使できないという構造がある。ノーベル賞を取得した中村修二氏がアメリカに移住したのもまさにこの理由だった。

 

つまり金銭的に富むということは全てを駆使して自らの身体性をドロドロになるまで溶かし抽象化の渦に放り込むことでしか得ることができない。体ひとつで世の中を歩いていくことは現実的にもう不可能なレベルまでこの世界の抽象化は進行している。

そういった時に馬鹿を見るのはフリーになったブロガーではなく前時代的価値観で労働やキャリアこそ美徳であると教えられ矜持と教示に奮え生きてきた人間のほうだろう。

 

誰も車に走って勝とうなどと思わない。誰も手紙を書いて自分で届けようなどと思わない。誰もイカダで太平洋を渡ろうなどと思わない。

ことと同じようにそういう馬鹿馬鹿しいほど残酷な現実に気づいた時に誰もサラリーマンになどならない時代も・・・それはおそらく来ないが個人の社会の捉え方として仕事を選択する時にフリーになることはむしろとても賢い選択にも見える。

 

おそらく近い将来には誰も車の免許を取ろうと思わない。誰も将棋でAIに勝とうと思わない。という時代は確実に来る。

人間の身体的な能力で生きていけるだけ稼ぐことができるのはおそらく売春だけになる。

 

幸福か不幸かなどという話ではない

僕個人はどうアイフォンを使うかよりどう手を見つめるか考えるほうがはるかに好きな身体性よりの人種である。

しかしそんな好悪なんて余裕のある話は現実の壁の前では意味がない。事実は事実として捕らえなければいけない。前後不覚でどれだけ見てみぬふりをしようともだ。

 

現実は酔っ払って記憶が飛んで気がついたらラブホテルのベッドの横で寝ている化粧の濃い香水臭い姉ちゃんのようなものである。