メロンダウト

メロンについて考えるよ

非出来事性に収斂していく世界

metoo運動への対応として男性はそもそも女性と接触する機会自体を無くしていこうといった考えが浸透しているようだ。

 

metoo運動は公共性という概念が持つ作用をとても顕著に表している。

そもそも人の存在が他人にとって迷惑だというところまでいきつくのではないかと危惧している。あらゆる段階で他人への干渉がなくなって行けば人間関係自体が消滅していく。個人は個人の人生を個人の欲望のままに個人が望む範囲において楽しむ権利がある、などと書くとすばらしい世界のように響くが

僕はこういった自由個人主義的な立場にはかなり疑問がある。

 

選択の自由、個人主義を限界まで突き詰めていくとなぜ生まれてきたのか、なぜ死んではいけないのかにいきつくからだ。人間は誰ひとりとして自分自身が望んで生まれてくるわけではない。望まれて生まれてくるものだ。望まれずに生まれてくる人もいるがしかし自分の選択の結果自分が生まれるなんてことはありえない。生まれてくることは自由ではない。しかし生きることは自由だなんてことがはたして成り立ちうるのだろうか。

 

metoo運動のように人が望む範囲において人は人に干渉していいというのであれば子供を生むことがいずれ罪になるかもしれない。おなかの中の赤ちゃんに意志はまだない。生まれてくることを強制しているという点でハラスメント的である。metoo的な理念で考えれば子供を生むことは悪であると言えてしまう。そこには境界をひくのだろうけれど一度抽象化し誰の手にも負えなくなった信仰や理念は軽々と人の意志など越えて影響していくだろう。赤ちゃんには意志がないからハラスメントではないという詭弁を使うのだろうか。では虐待も罪ではないのだろうか。戦時中に生まれた子供は生まれた時から戦時中だから悲劇ではないというのだろうか。人間は望んで生まれてくるわけではない。望まれているか望まれていないかの違いはあれど赤ちゃんの立場から主観的に見れば人間はただごろっとこの世界に放り出されただけだ。

極端な話だが、自由や個人主義ですべては掬えないという一例にはなるだろう。

 

現実の社会における人間関係においても程度の差こそあれそもそもが人は人に影響しあいながら欲望を形成しあうものではないだあろうか。恋人関係でもなぜ彼氏彼女夫妻が好きなのかはその人に愛されているからより大切に思うように関係性があって欲望もある。性欲、食欲、睡眠欲以外のほとんどすべての欲望は後天的で他者がいて初めて成立する。

そして他人からの愛や友情のすべてはそのはじまる段階においてすべてハラスメント的であると言ってもいい。礼儀作法などにより限りなく迷惑でない形で始めることもできるが上述したように人は人と距離をとる性質がある。その意味において愛も友情もすべての関係のはじまりは未確定な他者に侵入している時点でハラスメントであると言える。

そしてこれらハラスメント的なものを否定するリベラルやフェミニストにたいして反発が出るのは当たり前のことだ。ハラスメントであるってそんなことはわかりきってるけど、でも関係性は始めなきゃ始まらない。出産もその子が幸せになるかなんてわからないけどそれでも生むわけですべてのことを自由で解決しようとするのは無理筋であり人間の業自体を否定しているのと同様である。そしてこれら自由にたいして僕達は反論する言葉を持っていない。

事前の合意に基づかない人間関係は原罪だからだ。動物や植物を殺して食べなければ生きていけないように原理的にハラスメントである人間関係もはじめなければ生きていけないだろう。

極端な話にうつるかもしれないが昨今のヴィーガン騒動もあわせて考えると動物を殺して食べる必然性はないのが論拠になっているのと同じようにmetoo

たとえば男性は女性に近づいてはならずセックスは風俗だけで行うのが個人主義的で自由で諍いのない行動であると考えられるようになる可能性が高い。そのような世界は文学的に考えれば地獄そのものだろう。

 

人間の業や原罪を無視してすべてを自由で解決するのは人間の関係性の否定までストレートに繋がっている。ベジタリアンヴィーガンになるぐらいの危険性をmetoo運動は秘めているように見える。

かといって上司が上下関係を利用して部下の体を触るや大声で罵倒するような具体的なセクハラやパワハラは問題である。個別案件にたいしては個別的に対処すべきであって大きな何かに抽象化してワンフレーズにすることで理念化し正義となり暴走することがある。

metooはそうならないように望みます。

 

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