メロンダウト

メロンについて考えるよ

政治的正しさとは簡単に敵を設定しないことである

パチンコを打っていたことがある。銭形平次牙狼ファフナーあたり。当時、あまり他人にパチンコ打ってるよと自分から言うことはなかった。パチンコにたいして差別感情を持つ人間がいるのでめんどくさかっただけだが

ある日、居酒屋で話の流れで若者に言ったら怪訝な顔をされたことがある。ああ、そういう人かと思ってそれ以上は話をしなかったが政治的正しさとはつまりこういう現象から距離を取ることだと思い返す。

 

余談だがパチンコと人生は似ている。短期で見れば運だが長期で見れば蓋然である。なるようにしかならん。どれだけ祈ってもスーパーリーチの当選率が変わるわけではない。なにはともあれたちゆかない、のである。すこしの諦観を持ちながらも蓋然性の枠に収まる範囲にしか収支は転がらない。人の生も生まれた国、性別、社会、地域、人間関係とほとんど偶然に支配されている。自己とは何かと考えるころには自意識上の自己よりも根深く蓋然がその人の自己を設定してしまうだろう。

人生もパチンコも似たようなものだ。努力で玉を多少なり出せるように誰の人生も生きようはある。どんなクソ台を打っていようがどんなクソ人生を生きていようが、ね。

つまり人生とはなどというワンフレーズポリティクスに惑わされないためにみんなでパチンコを打とう。というのは今回の記事と全然関係ない。

 

 

政治とは敵を設定することだと大昔の誰かが言った。誰かではない。カール・シュミットである。友敵理論と呼ばれるものだ。彼が言ったのは政治概念としての構造であり善悪を論じているものではない。政治は性質として敵をつくり友を集めるものだ。それが現実である。みんなで仲良く生きていこうというのはみんなで仲良く生きていきたくない人達を敵にする。人類共通の理念など持ちようがないのであるから政治つまり調停が必要なのである。

佐藤あずさ氏の件でネトウヨ諸君がなにかおかしなことを言っているみたいだ。詳しい話は知らないのだがはてなブックマークでもネトウヨは馬鹿であるといった言説がいろいろな表現で繰り返されている。つまりは敵化である。

 

いろいろなところでいろいろな対立構造が見られるが僕達は根本的にわかりあえないという現実を忘れているのではないだろうか。簡単に敵を設定し敵がいなくなれば世界は良くなるといった二元論で片づけられるほどこの世界はシンプルではない。

敵はいる。それが現実である。しかし敵化すべきかはまた別の次元の話である。リベラルはネトウヨからすれば敵だろう。しかしネトウヨの根本的な問題は愛国主義ではなくすべてを政治化、敵化してしまう「過敵化」にある。韓国も中国もアメリカもリベラルも敵だといった具合だが、触れるものすべてを傷つけるなんてギザギザハートの子守歌じゃないんだからまずはその敵化をやめるべきである。

 

敵はいるが調停の場(政治)に持ち込むか否かにその人の政治的正しさがあらわれる。政治とは原理的に紛争の場である。紛争の現場に持ち込むべきものであるかそうでないのか、何が問題か、何が敵か、何が尊いか、何がコモンセンスか、何を政治として語るべきか、そして何を敵化「しない」かを政治化する前に考え飲み込むべきである。

 

政治的正しさとは簡単に敵を設定しない胆力のことを言う。

つまり1000ハマりしたら台パンしてもいいのである。

 

今日の一曲

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