メロンダウト

メロンについて考えるよ

ポジティブな愛とはなんぞ(・.・;)

生きてます

これだけど

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現実に生きている個人としての肌感覚で言えば最もな意見なんだけどけっきょくポジティブって何なんだろう。傍目にはポジティブに生きているこういう人もおそらく松岡修造やふわちゃんよりは卑屈なわけで。

もっと狭義に考えればある側面ではものすごくポジティブだけど別の側面では悲観的だったりする。高所恐怖症だったり閉所恐怖症だったり自閉症発達障害躁うつ病なんかもそうかもしれない。

結論から言ってしまえばこういうポジティブに生きようっていうのは幸運な人が幸運ゆえに言うことができる言葉だと思っている。現実には個々に人生があってそのなかで得られた物語を主軸に自分を構成するしかなくその戦慄からは逃れようがない。定量的に見ればポジティブな性格のほうが生きることが楽しくなる。それは誰もがわかっている。しかし現実の複雑な関係の中ではそうも言ってられないことがある。たとえばポジティブな人の中には俺がポジティブでいるためにおまえはネガティブでいろ的な暗黙の空気をつくってキャラ付けしたりする人がいる。そこまで極端ではなくても単に顔の骨格がネガティブなつくりになっていて他人からネガティブな人物だと言われそれに従うほかにない人もいる。

あるいは逆もしかりで本来ポジティブでもないのにそのグループの中で比較的ポジティブだからとポジティブキャラを演じているような人もいる。自分がポジティブだとかネガティブだとか本当にみんなわかっているのか、そこのところがかなりの疑問である。

性格なんて与えられたものでしかなくて人間関係なんてキャラ付けでしかなくて愛なんてものは偶然に過ぎなくてと冷笑的なことを言おうと思えばいくらでも出てくるけどそんなことを言いたいわけではない。むしろ逆である。

ブコメなり自己啓発書なりでもなんでもいいがこの世界にはポジティブになれなんて言説はくさるほどある。筋トレをしろだのヒーリングミュージックを聞けだのランニングしろだのしまいにはライフはハックできるなんてものまである。まあそういうのは書いてあることは正しいと思うし実際僕も筋トレしたりするけどそういうのは個々の状況によるものであって結局は自分のことは自分で考えるしかない。病気の人が有酸素運動なんてしないようにポジティブになったら破壊しかねない環境や人間が個々にあったりする。その点でなにかドーンとポジティブになれなんて言うこと自体が単に想像力に欠けている。人は程度の差こそあれ現実に根差すしかなくその現実から生えてくるものがネガティブであれポジティブであれそれを咲かせるしかないのだよ。ネガティブな人が急にポジティブなふるまいをしてみたり全然思っていないことを言えば必ず上滑りし、気色悪いものになるはずでそれは一切の魅力とはならないはずだ。

 

当該ブコメは恋愛に関するエントリーで言われてることだけどそもそもポジティブな人を好きな人って本当はどれほどいるのだろう。卑屈までいくとちょっと犯罪臭が出てくるがネガティブぐらいであれば要素としてはむしろプラスに働くのが恋愛だと思っていた。違うのかはわからない。たとえば女性が最も色気を感じる男性は悲しそうな表情をしている男性というデータもどこかで見たことがある。僕の感覚ではポジティブな人はアプローチする機会が増えるから乗数的な意味で恋愛経験が多いのだろうけどすこしネガティブな人のほうが長続きしている印象を受ける。

その意味でもポジティブが単に良いものとされるのが恋愛ではないはずでそんなシンプルに考えられる代物ではないんじゃないかな。恋愛ってやつは、おそらく。

 

まあこういうポジティブになれなんて言うのはものすごく気持ちいいよ。僕もそうやって言いたいし。しかしまあそれで解決するなら誰も困ってない。テクニックとかポジティブとかコミュニケーション能力とかそういう能力もめちゃくちゃ大事だけどそうやって資本主義的な契約で獲得する成果物的に扱うのが最も危ういのが恋愛であってそうやって獲得したとして果たして

 

そこに愛はあるんか?おん?

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