メロンダウト

メロンについて考えるよ

文章にリスクとかどうでもいいからそもそもブログなんか読むな

すべてのブログはすべからく炎上する。ブログよりも意見と言ったほうが正しい。そもそもなぜ本やブログに自分なんていう小さい生命体が持つ矮小な意見を書くのか?

それは違和感だろう。これはインターネットが発明される前からあるものだ。小林秀雄柳田國男江藤淳三島由紀夫がなぜ思想なんてものに傾倒していったか。そしてそれらに同調する人々はなぜ存在していたか?

それは自分と世界との違和感に他ならない。自らが100%この世界に適応できていると感じている人は絶対に本やブログなんか書かない。自らが望む世界がすでに実現されているのならばそれはもはや天国であり思考を働かせる必要はなくなる。

 

つまり意見を発する人はそれが支持されるか支持されないかに関わらずこの社会との違和感を感じている人間という意味で同種だ。

lineblog.me

この記事がどこまでそんな価値を追い求めて書いたのかは不明だが・・・

違和感によって発せられるという根源的性質を持ち合わせる意見は大前提として事実に関しての認識や常識があってそこに何か一石を投じる性質を持ち合わせている。ゆえにすべての意見は批判である。

 

そういった意味でははてなでよく見る対立軸のHagex氏もイケダハヤト氏も変わらない。変わらないというのは語弊があるが自らの意見を発しているという姿勢に関しては変わらない。その軸となるものが違うだけだ。

 

 

仮にイケダハヤト氏が神様であると考えよう。絶対にありえない仮定だが・・・

神様といえば最も具体的な人がキリストや仏陀になるのだろうが彼らが神様に近いのは「批判」する要素がほとんどどこにも見当たらないからだ。批判すべき性質がない。

転じてイケダハヤト氏を神様だと仮定すると彼の言うことは粗だらけでつっこみどころがありすぎる。それは倫理においても、常識においても、またマジョリティーが感じる好悪においてもだ。

 本人は特殊な考えで、その思考に没入しているという点で自己実現としてはあながち間違ってはいないのだろうが彼の思考に社会的価値はない。信じればおそらく不幸になる可能性が高いという点で批判対象になっている。仏教を信じて不幸になったという例はほとんど見かけることはないがイケダ氏の高知に移住して消耗しないで暮らそうという理念自体は資本主義世界に生きている以上はそれがたとえ極わずかであろうとも、厭世観に身を委ねる必要がある。もしくはマイルドヤンキーのように生まれつき地元だけの価値観で暮らしていくかのどちらかの素養が必要だ。

東京で結婚して子供を自然の中で育てたいから地方に移住するなら良い、しかし東京で消耗して地方に「逃げる」という行動は心のどこかに影を落とすことになる。仏教用語では無明というが本人がどれだけ幸せそうに見えても意識不可能な思考領域に影を落とすことになるだろう。

 

さらに彼がネット上で注目されている決定的要素の一つが「誰でも容易に批判できる」ということがあるだろう。

批判と批評とは厳密にはすこし違い言葉それ自体を見てもわかるが判断することと評価することは似ているようで文章にするとけっこう違う。批判というのはかなり簡単だ。

ある特定の意見にたいして逆の考えを前提として書けばいい。イケダハヤト氏のすぐれた側面はこの逆の側面という批判の舞台を懇切丁寧に用意してくれているところだろう。こう書きなさいよ、こうこうここがおかしいでしょって普通の人なら気づくことをわざとつくっている節がある。そこに乗っかる人がけっこういるということだ。

しかし批評は違う。批評に関しては中立の立場で評価することが求められる。批判のように立場を明確にして半分悪口のようにぐわあああああああっと文章を書いたら批評ではない。

批評家という職業があるのは批判とは似て非なるものだからだ。いっぽうで批判家という職業はない。批判は誰にでもできてそんな文章にたいした意味はないからだ。

 そしてだいたいにおいてブログでのやりとりで表に出てくるのは批判のほうであって難しい批評のほうはあまり読まれることはない。

知っている限りはてなブログで批評と言える文章を書いているのはfujiponさんぐらいではなかろうか

fujipon.hatenablog.com

 

他のブロガーは、僕も含めだいたいバイアスがかかっているように感じている。イケダハヤト氏だから誉めてはいけないとかフミコフミオ氏の言うことだから大丈夫とか

意見や批判という体をなしたキャラクター戦争という側面が特定の話題に関しては強い。

 

 

fujiponnさんのこちらの記事

「なんでリスクをとらないんだ!」って煽ってくる人こそ、真の「リスクをとらない人」なんですよ。 - いつか電池がきれるまで

から引用させていただくと

炎上しやすい人をターゲットにして批判し、周囲の「そうだそうだ」という声を集めてPVを稼ぐという「炎上便乗ビジネス」みたいなものも出てきます。
彼らは、敵対しているように見えるけれど、共犯でもある。

 

まさにその通りで炎上する人を悪として批判していますが外野から見たらどちらも自分の人生に一片のかかわりのない人の意見に過激な言葉で反論している時点でたいがいである。

炎上することをバズるというがこれはカタカナ語であってbuzzという英語の本来の意味は

ejje.weblio.jp

 

蜂などがブンブン飛ぶ、うわさする、ブザーで知らせるという意味であっておよそ炎上の原因となる善悪の相克などと言われるような意味はない。

そしてネットでの炎上もこちらのただうるさいだけという意味のほうが適切だろう。

 

そもそもイケダハヤト氏、毎回例にあげて申し訳ないが彼が高知でトマトを育てていようが誰も興味ないし赤の他人の思考も本来はどうでもいいことのひとつだ。問題はただ目に飛び込んでくることである。実存的な例で言えば蠅が周りを飛んでいたら殺虫剤をまくようなものだ。

 

 

つまりブロガーが絶対に書かないであろうことを書いてしまうと

 

読者は蠅が入ってこないようにちゃんと戸締まりして家に鍵かけてたまにバルサンたいてクラシックでも聞きながら寝てろってことだ。

僕のブログもふくめ意見を書いているブログなんかもはやだいたいうるさいだけなんだから読むなっていうことだよ。

 

So that you can live your own life.