メロンダウト

メロンについて考えるよ

勇気という言葉は死んだのか?

「勇気」という言葉を最近めっきり聞かなくなった。

僕はジャンプをもうかれこれ15年以上読み続けているのだが「勇気」という単語が出てくることはほとんどなくなってしまった。

 

小さいころ忍玉乱太郎というアニメで勇気100%という主題歌があったことを思い出す。

 

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100%勇気というキャッチコピーとしては浅はかすぎるようにも聞こえるのだが僕はあながち間違っていないではないのかと思えてならない。子供時代にも、そして大人になっても。

だからこれから書くものは、はてな民もといネット民の大嫌いな中二病と意識高い系がごちゃまぜになったややもすると腐臭がするひどい駄文になってしまうのかもしれないが僕は勇気を出して駄文を書こうと思う。勇気をどうしても今、推したいのだ。

 

 

勇気というとドラゴンクエストの勇者やフィクションに出てくるような抽象化された概念のように聞こえてしまう。いまひとつ手触りに欠けるのだがおそらく個人が人生の舵を取るうえで最も重要なものの一つに数えられるのが勇気であろう。

あらゆる問題を解決するのに大事なのは自己や社会を乗り越えるための勇気だと思う。

 

 

勇気なんて言葉を薦めること、意識が高いというのはけっこうな罪になることがあることも重々承知しながら書いているのだが啓蒙や啓発なんて意図はまったくない。ただ勇気はとても大事なものであるという思いっきり個人的な主観を並べ立てているに過ぎない。

 

人は意識的か無意識的かどちらにせよ好悪によって姿勢を決定して行動し発言しているがそういったあらゆる「主義」。

プラグマティズムナショナリズムパトリオティズム、ヒロイズム、ニヒリズム、マッチョニズム、アナーキズム啓蒙主義、形式主義、自由主義市場原理主義新自由主義、楽観主義、尊皇攘夷、保守、革新などなど

主義 - Wikipedia

 

これらに意識が高い低いの差異はあれどどんな主義であろうと関係なく必要とされる能力が勇気である。

 

 

 

主義主張を貫くのも勇気であれば他人の主義主張に踏み込んで触れようとすることも勇気であり、また同様にそれを否定しようとすることも勇気だ。

これはまさにコミュニケーションそのものなのだが、昨今コミュニケーションで大事だと言われているのは多様性を認めるということで、僕はそれにはけっこう懐疑的である。

もっと人はそれぞれ違うということに踏み込んでいくという姿勢、まさに勇気こそが重要であるのかなと考えている。

 

他人への勇気

 

海外の人と話す時なんか宗教的タブーや主義主張なんか全然違うし下手に「なんでムハンマドを尊敬しているの?」なんて聞けば顰蹙を買う可能性が高い。これは日本でも同様の事態に遭遇することがある。

たとえばアニメを好きな人に「なんで3次元のアイドルじゃなくて2次元のアイドルが好きなの?」と聞けば相手は憤慨する可能性がある。だから現在の円滑なコミュニケーション方法ではそもそも聞かなければいいし相手が話し出せば同調してあげることが良いとされる。相手の多様性を認めてあげることが重要であると言われる。

しかし2次元のアニメキャラクターをかわいいではなく愛することは個人的にはけっこうな謎である。理由をこれでもかと問い詰めるほどに聞いてみたい。そこにポジティブであれネガティブであれ自分の知らない世界が隠れているのだろうから。

 

かなり迷惑な行為なのは重々承知なのだが真に相手に触れるっていうことはそういうことなんだと思う。相手の内面をえぐる勇気と同様に聞かれた時には自分の内面をさらけ出すのも勇気だ。

 

 

多様な社会で生きるということは多様な価値観が存在するという言葉を言い訳にするのではなく、多様性という壁を越えてその人に触れようとする勇気こそが重要なのではないのか。それは時にものすごく煙たがられるしややもするとめんどくさい人間という烙印を押され友達がまったくいなくなるような悲劇的な事態にもなりかねない危険なものだ。しかし人間関係はそもそもがめんどくさいものであり、そういった摩擦でしか成し得ないものだと僕の短い人生では感じている。

 

 

僕はなんだか妙にスマートでなんでもそつなくこなし喋っても全然何考えてるかわからない人が苦手なのだが、それはおそらくそういった人達が多様性に毒されすぎているからだろう。のれんに腕押し、何を聞いても多様性という最強の予防線があるおかげで無敵になっていて押しても引いても殴っても切り付けても全く血が流れないからだろう。

 

他人との関係における勇気について書いたが自己の中の勇気についても書いていく。

 

自分を抹殺する勇気

上で主義主張を貫く勇気と書いたが個人の人生という短すぎる経験でまさに偶然そうなったとしかある意味では言えない主義主張というのはけっこう簡単にひっくり返ってしまう恐れがある。

 

卑近な例を挙げると彼女を急に好きじゃなくなって別れたり、寿司以上のごちそうはないと考えていたけど焼肉のほうがうまいと気づいたりと人は変化に富む生き物だ。

食い物や趣味などならどうってことはないがこれが自分の主義主張になるとけっこう困り者になる。

 

最も身近な労働に関して言えば、雇われのサラリーマンの時にはブラック企業を散々たたいてきたが独立して資金難にあえぎサービス残業や人件費のカットをしなければ路頭に迷うといった事態に遭遇したら過去の自分の言動を思い返し罪の意識に苛まれることになるだろう。

何かを捨てなければいけない選択を迫られた時に非情になることもまた勇気だ。

 

また、恋愛に関して言えば初恋の人を忘れられないといった純愛主義もいつか勇気を持って捨てるべきものだろう。初恋以上の純愛に遭遇することなんかけっこうな奇跡だ。時間が忘れさせてくれると言うが時間は忘れさせてはくれない、薄めてくれるだけだと思う。

 

 

ありとあらゆる主義主張を持つことも勇気が必要だ。それを捨てることも勇気で、時に愚かな人間に落ちる自分を許すこともまた勇気が必要だ。

 

 

やはり駄文になってしまった・・・ので最後にオルテガの名文を引用して終わりにしよう。

 

世間とは意見を持とうと努力しないものたちの意見の集まりである

 

無謀な駄文でも意見を発信していく努力と勇気は否定されるものではないのだ、と安心して寝よう。

おやすみなさい

 

 

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