メロンダウト

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意識高いだけの健康推進論者は滅ぶべし

為末大さんのツイートが炎上している件について

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筋トレに関する同題名の記事でも書いたことだけど、この手の言葉には健康を目指していたり筋トレをしている人間のほうが「優等」であるという意識が見えてしまう。

あるいは非喫煙者は喫煙者よりも優等であるから鬼の首を取ったかのように叩いていいとか、サラリーマンのほうが優等であるから無職を叩いていいとか階級に根拠を寄せた言動は本当に醜悪だと思う。

個人の人生をどうデザインするかは個人の自由です。幸福追求権には健康も含まれているし他人に迷惑が及ばない愚行も当然、許されている。

だから他人の人生に口を出すべきではないし、近しい人が健康でいてほしいと思うのならそれすらも命令であってはならない。つまり健康を語る時、その思いは願いであるべきだと思うのです。

その前提を健康推進論者は完全に忘れている。社会正義だとすら思っている。

 

健康と医療費の問題に関して、健康推進論者が言う「不健康な人間は健康な人間の医療費を搾取している」といった理論がなぜかわからないが支持されているのをよく見る。

しかし人間、おそかれはやかれほとんどの人間が病気になって死んでしまうわけで健康的生活はそれが早くなるか遅くなるか、またはQOL(クオリティーオブライフ)の違いしかない。

 

さらに言えば経済的には健康診断などを繰り返し受けてガンを初期で発見して根治したり予防医療を活用して医療費を使っている人間のほうが医療費の面では圧迫している。

健康診断を全くうけないでいきなりステージⅣのガンが見つかりまったく医療にかかる余地もないまま亡くなる方のほうが医療費の面では「優等」だと言える。

 

さらに健康なまま老人になり年金生活をしているよりも早期になくなるほうがマクロ経済的にも優等であるとすら言える。

こんな話はすこし考えればわかることなのになぜか健康は絶対善、人間はこれみな健康であるべきというのが絶対的に正しいと嘯かれる。

人間が不老不死になり永久に生産活動が可能になるのであれば健康推進論は正しくなる。そんな世界がくれば病気は堕落であり透析患者は劣等であるという論理が成立するかもしれない。

 

しかし残念ながら人間、いつかは死ぬんですよね。その時に透析のように医療費がかかってしまう病気になってしまうかはほとんど運であってそこに責任を求めるこの長谷川論法には正直言って辟易している。

 

ナチスが世界で初めて国策として健康推進をかかげ禁煙政策などをしていたが、ファシズム体制の地獄さは語るまでもないことです。優等さに根拠を寄せた論理はつまるところナチスの優生思想にたどり着く危険性がある。

 

それでも健康は良いものだし僕個人も筋トレなどしているので健康のすばらしさは歳を取るごとに感じるようになった。だから健康は美徳であるとすら感じている。

しかしその「徳」こそがとても危ういものであることは自覚しなければいけない。その理由は哲学的な話になってしまうけれども

 

「単一の徳は必ず不徳に転じる」からなんですよね。

 

優しさが行き過ぎれば臆病にかわる。勇気が行き過ぎれば蛮勇に変わる。誇りが行き過ぎれば傲慢に変わる。自由がいきすぎれば放蕩となる。

民族がいきすぎれば差別に変わり、健康がいきすぎれば優生となって生まれたのがナチスドイツと歴史は教えてくれる。

 

冒頭に戻ればつまり健康のように絶対に正しいと疑いなく信じれるものこそがいきすぎた思想となる危険性をより強く持つ。健康はその絶対性ゆえに優生的なものに容易に変わりやすい。

 

健康がいいものだというのは誰の目からも明らかです。しかしいいもので明らかなものだからこそ疑うべきものと考えダウトする。

それが仏教の最大の教えでもある中庸だと思うのです。

 

ファシスタたらんとした者

ファシスタたらんとした者

 

 

plagmaticjam.hatenablog.com

 

(注釈)念のため書いておきますと私は仏教徒ではありません。