すこしニッチな話なのだけどすこし前に格闘ゲーム界隈で騒ぎがあった。
簡単に経緯を説明すると、eスポーツチームのREJECTが主催するハイタニ登竜門という若手発掘企画のトーナメントに出場していた21才の大学生が自身の配信上でプロ選手への暴言と受け取られる発言をしたことで炎上、トーナメントの出場を辞退する運びとなった。
具体的にはSFL(ストリートファイターリーグ)に出場していたものの成績が振るわなかった選手にたいし「弱い」「コネで出場している」などの発言をしたことで炎上、他選手へのリスペクトに欠く振る舞いであるとしてベスト8まで進んでいたトーナメントを辞退し、繰り上がりで他の選手が出場することになった。
ハイタニ登竜門の出場規約に他の選手へのリスペクトを持つことという文言があるため、出場を辞退する運びとなったのは当然ではあるのだろう。また、そのまま出場していた場合には試合内容よりも炎上した選手のほうに注目が集まってしまうことになるので出場を取りやめるのは本人にとっても運営にとっても妥当な判断であるはずだ。オペレーションとしては出場を取りやめる以外にないのだけれど、この騒動を見ていて思ったことは「社会化されたキャンセル・カルチャーの無自覚さ」についてである。
一般にキャンセルカルチャーといえばアメリカのMetoo運動がそのはしりと言われていて罪を犯した個人にたいして集団で社会的制裁を加え、場合によっては排除する運動であるのだが、こうした動き(キャンセル・カルチャー)にたいしては批判の声が少なくない。たとえば社会的制裁を加えることは罪刑法定主義の原則に反しており法治国家の市民がとるべき態度ではないという批判。あるいは、ひとりひとりの処罰感情は小さいものであってもそれらが集まることで大きなものになれば「総量としての罰」は量としての妥当性を欠くなど。
キャンセル・カルチャーにたいしては様々な批判がある。特に日本ではラディカル・フェミニズムによってセクハラや性加害がことさら大きな問題として扱われるようになって以降、スキャンダルを起こした人間を糾弾することで社会の表舞台から排除してきたが、こうした動きに業を煮やした勢力によるキャンセルカルチャーへの対抗言論も登場するようになった。特に政治的な言論空間にあってはリベラルと共にフェミニズムの勢いがなくなって久しく、国民も右傾化していると言われており、政治的な話題だけを追っているとキャンセル・カルチャーを支持する人は少なくなっているのではないかという印象を受ける。
ただ、ハイタニ登竜門の件やここ数日話題になっているマンガワンの件を見ているとキャンセルカルチャーの勢いが失われたなんてことはないのだなと認識を新たにしている。
キャンセル・カルチャーはリベラルの手を離れ市民化したことで手がつけられなくなったと考えなければならない。
リベラルが行使してきたキャンセルカルチャーは様々な問題はあれど一定の正当性があった。metoo運動以前のハリウッドでは女性が声を上げると仕事を振られなくなるような封建的な振る舞いが横行していた。告発された映画監督のワインスタインは自身の映画に出演する女優やスタッフにたいして性暴力を行い、口外すれば映画に出られなくなると脅迫したり場合によっては守秘義務を結ばせるなどしていた。ワインスタインの性暴力にたいして勇気を出して告発した女性によってアメリカだけでなく世界中で同じような苦境に陥っている女性が声をあげるようになった。それがMetoo運動として広がり、後にその社会的制裁が性暴力以外の事例にも適用されるようになりキャンセルカルチャーと呼ばれるものへ変質していく。
このような歴史からわかるようにそもそものmetoo運動には一定の正当性があった。権力勾配を利用して性暴力を働くのはシンプルに悪人のそれだからだ。また、キャンセルカルチャーになったことにも妥当性はある。人が虐げられる行為はなにも性暴力だけではないからだ。キャンセルカルチャーが性暴力以外の他の事例についてはどうなんだと適用していくのは自然なことだった。そしてそれが政治的論争に発展していくのも当然のことだった。なぜならキャンセルカルチャーとは言い換えれば人民裁判による社会的制裁のことであり、やってることは紀元前のアテナイで行われていた陶片追放そのままであるため、法治主義に反しているからだ。
いずれにせよキャンセルカルチャーの是非は「政治的には」その判断が分かれるところだ。しかしながら逆を言えば政治的論争から離れたところで起きた場合、その判断はわかれない。分れないどころかそれが政治的に判断が分かれる問題であることに無自覚であるままキャンセルされるようになる。それが今起きていることであるように僕には見える。
僕なんかはこのようなブログを長年書いているためか政治的に何が論点になってきたのかウォッチしてきたのでキャンセルカルチャーは賛否が分かれる議論であることを知っている。そのためかはわからないがハイタニ登竜門の件を見ていると反対意見の少なさに驚いてしまう。
ハイタニ登竜門の件でネット上の意見を見ているとまるでキャンセルカルチャーが自明の制裁であるかのように言及しているコメントが数多く見受けられる。もっと言えばキャンセルすることが社会的責任であると考えているようにすら見える。出場を辞退したことに反対する意見はほとんど見つけられなかった。まるで社会を自然現象かのように捉え、枠組みから外れた行動をとった人は社会人として適切ではないと言っているかのようだ。
ここではキャンセルカルチャーには批判がつきものだという政治的議論の常識は通用しない。誰もキャンセルされた人を擁護しない。このような議論にならないキャンセルカルチャーを見ていると少なくともまだ賛否ある政治的議論のなんとやさしいことかと思うほどだ。ここ最近、エキストリームセンターという言葉で中道は現状追認に過ぎないとして批判されているが、ようやくその意味がわかってきたような気がしている。
政治性から離れ無自覚に行使されるキャンセルカルチャーはその非政治性ゆえに、より暴力的なのである。
なぜなら政治的議論(法治主義の是非を勘案すること)のないキャンセルカルチャーは人がキャンセルされる理由をコミュニティー、人格、人間関係の問題に求めるからだ。
ハイタニ登竜門の件でも代表的な意見は「どれだけプレイがうまくても人格が伴わなければコミュニティーでやっていけない。社会はそういうふうにできている」が主だったものである。キャンセル・カルチャーの議論を追っていた人からすればこれは最悪の意見に聞こえるはずだ。
社会に生きていれば人格は重要な要素であるのは誰もがわかっている。暴言を吐く人からはみんな離れていく。それは人間関係の摂理のようなものだ。しかしながら、だからといってそれを罪として扱ってはならないというのが法治主義の理念である。裁きと暴力は国家に委ねる。それが法治主義の大前提である。だから人が人をキャンセルする時は慎重にならなければならない。
そうでなければ人間は簡単に素朴な好悪感情である人間関係の摂理とやらで人を排除したり村八分にするからだ。そうならないように国民国家があって法律がある。
ようするにMetooを始めた当初のリベラルの正当性(権力勾配にたいする告発)も失われたうえ、キャンセル・カルチャーに反発する理由である法治主義も失われた状況で行われる「単なるキャンセル」は人間関係という曖昧な指標によって行われるので紀元前のホモ・サピエンスがやっていたこととたいした違いはなく、より残虐になっているのではないかということだ。
と、書いてはみたもののeスポーツは興行であるという性質上、好き嫌いは切っても切れない要素であることも事実なので芸能人がCMを降ろされるようなものと考えれば大会を辞退するぐらいは当然の処置なのかもしれないと思うのであった。