メロンダウト

メロンについて考えるよ

依存症は反省も後悔もする必要ない

僕はタバコを吸っている。しかし僕はニコチン依存症かと聞かれればすこし考え込んでしまう。

それは依存というのは状態の話であって習慣ではないからだ。

先に自分で書いたますだを貼っておこう。

anond.hatelabo.jp

 

依存が習慣ではなく状態であるのはどういうことかというと

僕は読書をする時に外で読む癖がある。受験勉強していた時に公園で英文を朗読したり通学中に歩きながら参考書を読んでいた習慣で現在でも読書する時は外が多い。部屋で一人で読んでいると悶々としてくるのだ。

川岸で釣りをしながら読んだり公園のベンチに寝ながら読んだりしている。そしてタバコを携帯していくのだが外で読書している時はタバコをまったく吸いたくならないのだ。ジムにいって汗を流した時もそうで冬にスキーに行った時もそうだ。吸いたくならない。

じゃあ僕はタバコに依存していないのかと言えばけっこう依存している自覚がある。依存というのは劣情なのであまり話したくないが仕事している時だったり夜の帰り道を一人で歩いている時には吸いたくなってしまうし実際に吸う。

この外で読書している時と夜の帰り道の違いは何かと言えば暖かさであってさびしさであって充足感であって、そして幸福感である。

仕事に追われたり夜のとばりに潰されそうになったりした時、自分が自分ではなくなりそうになった時にタバコを吸えば煙にのせて想いを空へ還してくれるような気がするのだ。それはまさに気分だけの問題で実際にはタバコを吸ったって隣にハートウォーミングなかわいこちゃんが出てきてくれるわけはないし仕事が片付くわけでも明日休みになるわけでもない。なんの解決にもならないのにそれでも吸う。それがおそらく依存と呼ばれるものの正体であって僕が依存を習慣ではなく状態と呼ぶ理由だ。

 

毎日釣りして読書して運動して愛する人とご飯食べることができれば僕はタバコなんかすぐにでもやめられると確信している。だから自分はニコチン依存症であるかと聞かれれば依存症であって依存症ではないと答える。

依存症が問題なのではなく不実や不幸だけが問題なのだ。タバコやその他の依存症と呼ばれる癖に関して依存対象そのものには反省する必要も後悔する必要もない。省みるべきは自身のさびしさであって愚かさであって環境のほうだ。

依存症にかぎらずどうしようもなく寂しかったりどうしようもなくやりきれなかったりそうした時になにかに救いを求めるのは人間であれば当然の行為であってそこに善悪などない。しかしそれが覚醒剤であれば罪になる。買い物であれば破産するし、セックスであれば利用されるし、 タバコであれば周りに迷惑をかけることになる。

依存対象が家族であれば愛と呼ばれるし友人であれば友情と呼ばれるし神であれば宗教と呼ばれる。仕事で求められる人材としてではなく存在として手放しで信用できる関係を築くことが依存状態にならない唯一の術なのだろう。

この国の息苦しさの元凶は否定ではなく肯定だ

東京に慣れない。学生時代からもう10年にもなろうというのに慣れない。そんなことは個人の気質の問題であってそんな主観的感情だけで東京は住みにくいと表明するほど幼稚ではないのでただ僕という個人が東京に慣れないと・・・それ以上でもそれ以下でもない。

しかしJPOPの歌詞から知識人、一般人までいまこの日本の時代を表現する時に出てくる言葉が閉塞感であり「息苦しい」というものだ。なのでこの時代に感じる息苦しさはなにも僕個人だけの感覚だけではなくどこかみんな感じている部分だということらしい。

 

この閉塞感という雰囲気は具体的な話をすれば失われた20年や戦後レジーム、デフレなどが挙げられるだろうがここではすこし精神論に絞って話をしていくことにする。

 

神経質な否定が息苦しさを生むのではない。

インターネットが家庭にも広まり一般的に使われるようになってインターネット上でたびたび炎上が起きるようになった。これは他罰的だとか神経質な行いだとかまた他人を蹴落とすことを喜ぶ人達による行動だと言われる。

しかしこの他罰的という行いは一見すると俗悪的だが共感の裏返しであり同調だ。例えば、僕も見聞があるが女子高生がグループ内の雑談で別のグループの誰かを嫌いと表明する。そうするとその時の語尾に必ず「だよね」とつく。

A子「あの娘、男に媚びまくってぶりっ子で嫌い」

全員(顔を見合わせながら)「だよねぇ」

とこれは女子高生だけでもなくママ友でも男性でも同じことがたまに起きる。はてなブックマークのスター、facebookのいいね、twitterリツイートでも本質的にはその同調は「いいね」ではなく「だよね」という共感だ。

 

そしてこのだよねという肯定こそがこの息苦しさの根幹に位置するのではないかと考えている。

他人に共感することは一見優しいがその行いは精神論で言えばイデオロギーの共有である。なにがしかの意見を他者と共有することでそこに強固な繋がりが生まれる。それがいわゆる常識になって結果として常識に外れた人間を否定する原動力になる。

以前Twitterで飲食店の冷蔵庫にはいって炎上した件があったが、あれも実存的にいえば自由な行いであって掃除すれば済む話である。あの件が炎上したのは「冷蔵庫に人間が入るのは馬鹿」という認識を誰もが肯定できたからだ。だから常識から外れた人間を否定するという結果になった。つまり冷蔵庫にはいるのが馬鹿という認識を持たないかぎりは冷蔵庫にはいるのを否定するという発想は生まれないということだ。

不倫で降板させられたタレントも視聴者の怒りなどではなくむしろ常識や貞操観念によって降ろされた。不倫したところで視聴者に害があるはずもない。

 

 

常識を肯定する力は無敵

常識をたてに言葉を発してくる人は誰もが「私の、僕の何が間違っているんだ」という顔や心持ちで意見を主張してくる。しかし常識は多数人のイデオロギーの集合体であって個人を定義するものではない。常識が行政まで届けば法律になり社会的な抑制力が生まれる。しかし常識がまだ多数派の意見というだけでは他人の行動を脅かしてはならない。それこそがむしろ常識だ。

つまり常識を押し付けてくる人が何を言っているのかといえば上記の女子高生の会話と同じことを言っているにすぎない。他者が自らの価値や理念のとおりに行動しないと「ハブ」にする女子高生の同調圧力と同じだ。幼稚である。その常識を盾にした無敵の心持ちがどれだけ心地よいか知らないがその有無を言わさぬ肯定圧力がこの国の息苦しさを生んでいるとしか思えないのだ。

つまりいちど黙れということだ。

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沈思黙考

なぜ黙ることが大切かというと自分がどう考えているかなんて本当はものすごくどうでもいいことであって実際の人間関係で大切なのは折り合わない他者とどう付き合っていくかということだと思っている。だいたい人間同士、本当にわかりあえる他者は限られていてどうしたって他人にたいして面倒くさいなあとかあいつ嫌いだなあという感情を持たざるを得ない。

よく本音で喋ってよなんて言う人がいるが本音なんか喋ったらだいたいその場が凍りつくようなことしかない。合コンでお気に入りの子がいて他の女の子は興味ないし時間の無駄だからもうお開きにしようなんて言えばその場が凍り付いてしまう。だから建前を話す。そして建前を話してなごむその場の空気が本音も建前も超えて大切なんだよ。

差別だってそうだ。これは東浩紀さんのラジオを聴いた時に納得した話があるので紹介すると

 

東さんがある日、息子を連れてフロリダだったかどこかアメリカのLGBTの方が出席するパーティーに行く日があったらしい。その道中の車内で東さんは息子にLGBTについて「男が男を好きになるってどう?」と聞いたら息子は「気持ち悪い」と言った。そして東さんはこれからLGBTの方がいるパーティーに行くのにこれはまずいなと思った。しかしここで大事なことはそのパーティーで息子がどう振舞うかであってその場をどう乗り切るかということだけであって差別思想そのものはたいした問題じゃないという事を言っていた。

 

この話は大切な話だと僕は思っていて人間であればあるイデオロギーや差別思想、常識に染まることは当然であってそれ自体は問題ではない。その自分の歪んだ思想を持ってどう他者と折り合っていくかということだけが問題で思考そのものは問題ない。

 

だから常識を肯定して共感することもまたいい。何かを嫌いになってもかまわない。何を肯定したって否定したっていい。だからみんなが感じているであろうこの息苦しさや閉塞感を打破するには、(それは一見するとむしろ息苦しさそのものに見えるが)他者に発言する場合には一度その思いを沈めて黙って考えることが肝要なのだろう。むしろそれが常識であればあるほどに。

イギリスのEU離脱から政治リテラシーについて考える~人類は馬鹿という言論に正当性はあるのか~

イギリスのEU離脱が決定したようだ。アメリカのトランプと共に世界がどんどん混沌としていっている。

今回のEU離脱は労働者階級の激情に触れたことがきっかけらしい。それが良い結果をもたらすのか逆に破滅に向かうのかそれは日本に住んでいる限りは自分なんかにはわからないことだ。しかし今回も(民主党に政権が変わった時もそうだったが)色々なニュースを見ていると大衆の愚かさや即興的な変化に飛びついたなど人類を馬鹿扱いする言論が多数見受けられる。

前世紀に出版されたオルテガの大衆の反逆という本が最も有名だ。反知性主義の原典と言ってもいいかもしれない。

 

大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

 

 

 

オルテガは本書で人間を少数者と大衆に分けて考えている。それは今回のイギリスの件で見られたホワイトカラーとブルーカラーの隔絶という経済的な問題ではなく精神的な枠組みとして。

大衆は少数者の努力によって作られた社会インフラを当然のことと考え享受しあまつさえ自らが高度に発達した現代社会の担い手であるとすら勘違いする。基本的人権の暴走とも言えるかもしれない。殊勝さを忘れ激情を当然のこととして振りかざす。今回のイギリスの離脱で彼らがそうしたように。

オルテガと今回のイギリスの件をそのまま写しこんでしまうのはニュアンスが異なる。しかしこの大衆は愚かであるという言論に関しては当たっていることはおそらく間違いない。

 

そして僕はおそらくオルテガの言う大衆にあたるのだがちょっと待てよと言いたい。そもそもそんな高度な政治リテラシーを持ちながら全員が生きていくこと自体が不可能なのではないのか?

 

 

政治とか経済、社会問題というのはそうとうにピーキーな問題が山ほどあって個別の問題に関してもどちらを支持するのか本気で考え始めたらものすごい時間がかかる。ましてやそうした高度なリテラシーを全事象について考え始めたら学者かニートになるしか方法はない。

生きていれば働いてお金を稼がなければいけないしペットに餌をあげなきゃいけない。飯つくって洗濯物して電気代やガス代、通信料にはてにはNHKの受信料まで払わなければいけない。そんな日常を多くの人が抱えているのに「政治について考えなさい」などとテレビのコメンテーターから有識者まで言う。

そうして「わかった、考えるよ」と多くの人は答えるがたいていがテレビタックルとかワイドショーの御用学者の意見などを参考に扇動されてオルテガのいう「最悪の民主主義」を実現することになる。もしくはケインズ美人投票か。

そもそもがそんなバッチリこっちだなんて言える問題は政治に関してはかなり少ないはずで大衆に判断がつくはずがないんですよ。自分は政治経済学部に在籍してたのですがある問題やイデオロギーに対立する論説なんか必ずあるわけで、それも政治や経済に関してそれこそ人生を賭して書かれたものがまた別の政治廃人に否定されていたりするわけで一般人が答えを出せなんて到底無理な話でしかない。これは何も政治を諦めろなどという悲観的な話ではない。現実的に、まともに生きていたらただ自然とそうなるという現象の話だ。政治や経済は金にならない。大学の臨時教員などそれだけで食べている人もかなり少ないしポスドク問題などもそうだ。

 

 

だから大衆が愚かだという答えは間違っていないが、大衆が愚かであるというのは日常と政治のトレードオフであって普通の人間は日常を犠牲にしてまで政治や経済の問題を考えるのは無理だ。

そして今回のイギリスのEU離脱は大衆の反逆ではなく日常がたちゆかなくなった人間の反逆だ。それはオルテガのいう自助努力もしない怠惰な野蛮人なのだろう。しかし日常での自助努力がもはや機能しないほどの絶望があるのだとしたらその反逆にはむしろこれでもかというほどの正当性がある。

日本も6人に1人が貧困、貯金0が31%と数字だけ見ればいつその激情に触れたっておかしくない。

政治が日常に肉迫した時に、そのときこそ大衆の反逆が起きることをイギリスは証明したのだ。