メロンダウト

メロンについて考えるよ

SNS社会とミシェル・フーコーと理性の逆流

SNSは怒りによって拡散するといった記事を読みました。はやかわ五味さんが個人的にめちゃくちゃタイプなのですが、その話は置いておいて

 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66352

フーコーの話をしようと思う。

ミシェル・フーコーは「狂気」を論じた。

狂気とは何かを理解すればSNSをすこし客観的に見ることができる。あおり運転をして暴行するような人間やもっと言えばオウム真理教などは「普遍的」に間違っているわけではない。理性よりも狂気に価値が置かれていた時代もあった。僕達は理性や道徳のほうが狂気よりも上位の概念として在るべきだと考えているけれど、それは様々な歴史の場面において獲得されてきたものに過ぎないとフーコーは語っている。

狂気のわかりやすい例として魔女狩りや宗教などがある。14世紀から16世紀のルネサンス期において狂気は人間を基礎づけるものとして社会的に認知されていた。端的に言えば神が実在できていた。神がいるなどと言うと今の社会においては狂人扱いされるが当時は神がいると叫ぶ狂人は逆に承認を集めるほどだったのだろう。その意味で狂気は社会から排除されずに存在していた。

それが17世紀にはいるとすこし様相が変わってくる。

17世紀後半になると資本主義的な経済活動が世界を形作るようになった。それと同時に狂気のとらえ方も変わることになる。資本主義が世界を覆うようになると同時に合理主義が人々の思考を支配するようになった。合理的に考えて神はいない。合理的に考えて狂気は善ではない。そして合理的に考えて経済活動の総量が少ない貧困者や障碍者は蔑まれるようになる。資本主義以前の世界では宗教が人間を基礎づけていてその中で清貧という価値観が社会的に優勢だった。貧困が悪ではないという価値観は宗教という狂気によって支えられていた。しかし狂気が社会的に承認されなくなると貧困もその立場を失うことになった。

代わりに台頭してきたのが真面目な労働者であることだった。労働に従事しないものは社会に適応していないと見られ、侮蔑される対象となった。

理性的な労働者と非理性的(狂気)な非労働者の2極に人間は分類されることになり、後者は隔離されることになった。

 

18~19世紀になると合理主義のかわりに道徳や人権に重きが置かれるようになる。17世紀の狂人にたいする扱いは隔離であったが近代になると狂人は治療の対象となる。フロイトなどによって精神病理学が生まれ、狂人を理性的な人間に回復させようとする手法がとられるようになる。日本でもオウム真理教信者の洗脳を解くことを苫米地さんがやっていたが、狂人は隔離の対象ではなく治療されるべき存在となった。

つまり悪いのは人ではなく狂気そのものだと考えられるようになる。狂気そのものを抹殺しようとするようになった。

身体を拘束するのではなく精神を理性に従属させることで狂気を消滅させてしまおうとした。

 

おおざっぱに書けばフーコーは狂気の歴史において上記のようなことを書いている。

ここまででは単なる歴史の変遷に過ぎない。しかしフーコーがなぜ哲学者として知られているかといえば以上のような狂気の歴史において理性の普遍性について疑問を呈したからである。

狂気とは未開の状態では発見されえない。それを狂気だと認める理性側の人間の眼差しによってはじめて狂気は我々の世界に現前するのだということを書いている。

 

近代以前の中世において狂人は承認を集め社会的にも適応できていた。17世紀になると 狂人は隔離された。その後、道徳により悪いのは狂人ではなく狂気だとされ治療が施されるようになる。

では今はどうなのだろうか・・・

 

僕たちは過去に例を見ないほど狂気を簡単に見つけることができるようになった。あおり運転、セクハラにパワハラブラック企業、電車内で騒ぐ人、アイドルの不祥事、性の喜びおじさん、騒音おばさん、アリさんマークの引越社、welqなどなど数え上げればきりがない。

 

これらの人々を必要以上にSNSでたたく人々にたいして感情的だといった意見が採用される。しかし歴史的に見れば狂気を殺してきたのは理性である。そしてSNSで暴走しているのも「理性という感情」に他ならないが同時に理性は普遍的な感情ではない。

僕たちはただ理性が支配的な時代に生きていて理性的な人間でいられるように教育された幸運な世代に過ぎない。しかしだからこそ自らの理性にたいして自覚的であるべきだと言える。理性は人を傷つけてきた。狂人を隔離し、時に抹殺してきた。狂人側から見れば理性こそが狂気に見えたりもしたことだろう。

 

人々の感情によって監視されるSNS社会と言われて久しいがこの世界はもう理性的に過ぎるほど理性的な社会である。その理性の逆流現象がSNSによって問題を生んでいる。

不倫や歩きタバコぐらい別にどうでもいいだろう、酒によって知らない人に絡むぐらいそんなたいした問題ではない。何を理性的に語るべきか判断し、いかに楽しく狂うことができるか、これだけ理性に依った社会においてはそんなことを考えたほうがいい気がしている。

身体的な実感としてもそれは感じる。一個人が理性なんて突き詰めたところでろくなものではないし面白みがない。歴史的に見ても理性は社会的な「機能」としてベターな価値なだけである。

うまくまとまらなかったのでブクマでも書いたチェスタートンの言葉を引用して終わりにしたいと思います。

狂人とは理性を失ったもののことではない。理性以外のすべてを失ったもののことである

ギルバート・キース・チェスタートン

 

やがて悲しきおじさんLINE

ミソジニーってなんなんだろうとすもも氏の記事を読みながら思っていた。

相変わらずはてなでは袋叩きにされているすもも氏だけれど、彼の言わんとしていることはわからないでもない。一言でいえば「男はつらいよ」であり、それを実証的に論じようとしているが、はてなでは恣意的だというふうに叩かれているみたい。しかし僕はけっこうすもも氏の言っていることがわかってしまうんですよね。

僕はミソジニーは一定程度正しいとすら思っている。

https://note.mu/sumomodane/n/n514814103a9e

 

男性の純粋な男性性は原理的に社会性を帯びていない。承認されにくい。男性のモテる要素を考えればわかるがほとんどが後天的に獲得したすえにモテるという結果がついてくる。一部、超イケメンで生まれながらにモテるみたいな人もいるけれどそれは特殊なケースと言っていいだろう。学歴も職業もお金も地位も人間関係も後天的な要素だといえる。「男性」であることは男性にとってアドバンテージにならない。

それが最も根源的な男女における恋愛格差を形づくる要素だとすもも氏は言いたいのだろう。

女性は処女であることにも価値がある。女子大生や女子高生のように社会的には弱い存在だとしても性的にはむしろ強いみたいな逆転現象が起きる。社会的に弱いことでむしろ求められるのは女性特有のものだろう。

男性の場合、童貞はネタ的に消費されることはあってもそれがモテる要素になるかというとそうではない。また、あか抜けていないで会話もしどろもどろになってしまうような男性も女性からは敬遠されがちである。

だから恋愛経験のない男性にたいしてはよく「とりあえず誰でもいいから彼女をつくれ」、童貞にたいして「とりあえずソープに行って童貞を捨ててこい」などというアドバイスがされる。女性に置き換えたらこれらのアドバイスがどれだけ暴力的かと考えてしまうが男性に関してはむしろ有効に機能することがある。

男性がモテる要素はすべてが経験に裏付けされている「状態」のことを言うのであって男性であることに価値などない。女性の場合はそうではない。女性であること自体に価値がある。

 

 

そうした男女における性的な視線を分解することで社会的な議論とするのは僕はかなり大事なことであると思う。恋愛は現実にそれほど個人の物語に依拠しているわけではない。昔はヤンキーがモテていた。それが社会的に承認されなくなると途端に恋愛対象から除外されたように女性の視点もそこまで何か理性的で普遍性のあるものではなく、むしろ社会的な文脈に依存していると考えるのが妥当だろう。

今はその文脈が経済的価値になっているというだけの話にも見える。

 

その意味ですもも氏がやろうとしていることには一定の社会的価値があると僕は思っている。現在の男性の現状を分析することで恋愛市場にける社会的文脈を構築することは公益に資することとすら言える。恋愛する人が増えれば少子化も解消する。少子化が解消すれば経済も回復するかもしれない。

すもも氏の記事のコメントに恋愛は個人でするもので一人だけ特殊な人がいればいいというものがあったが、恋愛を個人の問題にするのはその人の人生において正しいだけであって反論にはなっていない。

 

今、恋愛市場において何が最も大きな問題になっているかと言えば

人格の飽和

時代のズレ

個人主義

の三つだと考えられる。

 

女性は経済的価値基準で男性を選ぶ傾向があるのは様々な統計からわかっていることだが、これだけ経済的な価値が至上とされるのはなぜなんだろうと思う。

経済的な価値などよおく考えればどうでもいいことのようにすら思うからだ。愛する人と二人で食べて寝て一緒に暮らしていければそれでかまわないというのであれば、二人とも非正規であってもそれなりになんとかなる。余裕のある暮らしとは言えないだろうけれど、非正規の一人暮らしのように困窮するわけではない。

それでも経済的価値に重きを置いて考えるのは人格による格差がなくなっているからだと考えられる。この人は優しいからとかこの人は誠実だとかいうのは建前として言われることはあっても、誠実なんてことを言い出したらだいたいの人間は誠実である。80%ぐらいは誠実で90%は優しくて99%は暴力を振るわないし99.9%は犯罪をしない。みんなある程度以上、理性的に暮らしているし会話がうまくなかったりすることはあっても人格として社会的に不適合だという人間はそんなにいない。

そんなにいないので恋愛対象を判別する時に指針としては機能しない。

だから残る指針は男性が女性を見る時には性的なものとなり、女性が男性を見る時には経済的価値になる。

 

 

それと連動して問題となっているのが経済的価値が時代とズレていることだろう。

言わずもがな日本経済は衰退した。経済大国としての日本はもうない。20年近くデフレが続いてきた。今の20代30代はバブル期の日本が豊かだった時を生きていた世代を親に持つ人ばかりだが、その時代の感覚で経済的価値を査定していると考えられる。もうバブルのように中流階級がマジョリティーを占めていてみんなが豊かだった時代ではない。格差がひろがり非正規が増加した現在では過去の中流はいまや富裕層と言っていいが、当時の視線のまま経済的価値を査定しているのでその条件を満たす男性がいない。それゆえその条件を満たす富裕層に女性の需要が集中して一般的な男性は求められない。

 

人格の差異を認識できるほど荒い世の中でもない。経済的価値は全体のパイが減っている上に色眼鏡をかけて査定してしまっている。だから「普通の男」は求められない。

 

上述したような環境なので男性からアプローチするしかないわけだが社会人になるとそれもセクハラだったり告ハラとか言われて袋小路になる。だからみんな恋愛をしない。しかもそれに個人主義という大義名分までついてくる。世の中のお墨付きで独身でもいいってことになっているのだからますます恋愛しない。

偶然に物語が降ってこないでもない限りもう社会人男性は恋愛などしない。そうこうしているうちに過去の恋愛で獲得してきた経験も色あせていって女性からは求められなくなる。どうしていいかわからなくなるが心の奥底では何かが泣いている。そういう時期も過ぎればもうどうでもよくなるが無性にセックスだけしたくなる。

しかしそう思った時には過去の恋愛経験が無意味になって純粋な男性性に回帰しているのでおじさんLINEを散弾銃のようにぶっぱなす。

きもい。なにあのLINE。おじさんきもい。無視しよ。なんで返信こないの。これだから最近の女は。女はだいたい自分が求められる側だと思ってる。返信ぐらい返せよ。

立派なミソジニーの出来上がりである。

政治をゲーム化するN国党

N国に投票した贖罪としてN国批判記事を続けて書いていきます。

経済学にゲーム理論というものがある。めちゃくちゃ簡単に言えば自分がこう動いたら相手はこう反応するだろうといった具合に行動の指針を戦略的にのみ考えるロジックをゲーム理論と言う。

立花氏の手法は政治的というよりも民衆の反応を予測して戦略を組んでいる点でゲーム理論に準拠した方法を取っているように見受けられる。メンタリストのDaigoもその手法を評価しているみたいだけれど、政治的に正しいことと戦略的に正しいのを同レベルで考えるとやばいことになる。

ビジネスや恋愛などとは違い、政治の現場においては政治的な価値のほうが戦略よりも上位に来るべきである。戦略のみを重視し、大衆を扇動し、動員し、数を集めることだけを目的として政治を動かせば必ず間違える。

 

なぜか?

社会はありとあらゆる契約の上に成り立っているからだ。ルソーが社会契約論で何を言ったかと言えば様々あるけれど最もベタな言い方をすれば社会は契約関係があって初めて成り立つということである。

ルソーは社会は契約のもとに成り立つと説いた。ヘーゲルは「私」ではなく「公」を意識しなければならないと説いた。ロックは自由を説いた。マルクスは平等を説いた。フリードマン新自由主義を説いた。

 

僕達の社会において当たり前に存在する概念はほとんどが後天的にできた価値基準である。自然にできたものではない。自由も平等も本来、僕達には備わっていない価値観だ。歴史の悲惨さを見ればすぐにわかる。僕達はすぐにそんなもの忘れる。殺し、犯し、奪い取る動物である。明日から殺人が無罪となれば日本だけでも10万人ぐらいは殺されるんじゃないかな。

自由であること、国家が治安を守ってくれること、司法が正義をくだしてくれることが当たり前だと思い込んでいる。

他の価値基準で言えば金、法律、司法、国家、マーケット、私有財産などもすべて自然なものではない。あなたが持っているお金や住んでいる家があなたのものであることは自明のものではない。すべてが一定の価値基準の上に成り立つ契約のもとに世界は成立している。

人間は世界を基礎づけている価値を知らない素の状態だと簡単に暴力になびいたり、目先の損得に走る。

だからN国党のように戦略的に政治を動かすのは先人達が築いた政治的、経済的価値そのものへの冒涜だとすら言っていい。

僕達が当たり前に享受している様々な価値を当たり前だと信じ込んで目先の損得で投票行動を行うのをポピュリズムという。

自由や平等よりもNHKに払う年間2万円弱のお金のほうが大切だと思う人は本来いないはずだ。

 

その意味でN国党をほめまくっているメンタリストのDaigoもポピュリストと言っていいだろう。戦略的なことが正しいと考えている人間は価値の比較をしない点で政治的に正しくない。

 NHK問題などどうでもいいというとN国信者から批判がくるかもしれないがあえて言うとNHK問題などどうでもいいと僕達は考えるべきである。NHK以上に大切な価値観を保守すべきか変えるべきかこそを考えてこそ政治的に正しい

政治をゲームのように戦略的にハックして大衆心理を動かすのは正しくない。それが賢いことなのか頭がいいことなのか論理的なのかどうなのかなど関係ない。政治的に正しいかどうかが政治におけるすべてである。

 

 

そもそもポピュリズムとは民主主義における現象であって政治でも思想でもない。

いつだったかBABYMETALは存在として痛快であると誰かが評していた。今までのメタル的な枠組みを解体していく様が存在として痛快である、と。

N国党の立花氏の動画をを見ていても似たようなことを感じる。今までの政治の枠組みを壊していく様はBABYMETAL的である。マツコデラックスに突撃したり既得権の象徴でもあるNHKをぶっこわすという行動しかり

今までの政治家像からは考えつかないような振る舞いは「存在として痛快」である。しかしそれだけである。彼は政治家ではなく現象家でしかない。

 

なんてことを書いているけれど本当になんで僕はN国に入れたのだろう

他に入れたい党もなかったとはいえひどい投票をした。はぁ。。。