メロンダウト

メロンについて考えるよ

安倍政権と議会制民主主義の終わり

おひさしぶりです。コロナウィルスで休みになったのですが休みになるとなぜかブログを書かなくなるという・・・休みモードの時ってブログ書けないですよね。ということで半分死んでるみたいな状態で生きてます。

麻雀ゲームの天鳳を再開したりプレステ4買ってみたりVITAで風来のシレン5原始に続く穴99階まで一日がかりでいったりGoproでツーリング動画でも撮ろうと買ってみたり冬なのにBBQしたり今年は雪見てないなと思いたち原付で200kmはしって雪見にいったりしてます。混んでるところには行けないし外食もしづらいしほとんどひきこもっているのになぜかブログは書かないという。

 

もう一週間以上休んでるんですけど暇なので書こうと思いブログを書いていきます。コロナウィルスと安倍政権を見ていて思ったことなんですが

 

安倍政権のやっていることってモリカケの時から変わっていなくて機を見るに敏というか戦略的にのみ政治をやっているマキャべリストに近いのではと思えてきました。安倍政権のやっていることは野党からの批判にたいしてそれに応えるのではなく回避することに終始している。モリカケの時も財務省の公文書改竄の時も桜を見る会の時もそうだった。シュレッダーにかけたから書類はない、反社会勢力の定義とはなんだ、誰かが勝手に忖度してやった等々

すべての議題、批判に応答するのではなく責任を回避する方法を意図的にとっていることは明らかです。政権支持率を維持するには戦略的にはそれがベストなんでしょうけどこの自民党のやっていることって今の世の中をとてもよくあらわしていると思うんですよね。

自分の責任ではないと被害者ポジションを確保することで自己の無謬性を徹底的なまでに確保する。それが唯一の生存戦略になりつつある。クリーンな人間、クリーンな政治、クリーンな社会、一切の罪を許さない風潮はたとえば覚せい剤で捕まった芸能人が全番組、全CM、全作品放映中止になることからも明らかです。一昔前に「寛容さ」がよく取り沙汰されていましたけど現在でもこの風潮は変わっていないと思っている。

多くの個人はそうではないと言うだろうし実際に個人レベルで言えば寛容な人のほうが多いだろう。しかしそういう人は何も言わなければどうでもいいとすら思っているゆえに寛容なので社会的な影響力を持たない。投票しない人間は寛容なのか無関心なのかわからず政治的には無いものとされる。

そうではない側の投票するし社会的にも発言する有言層における社会で支配的なのはエラーを許さないほうの空気なのは間違いないだろう。

そうして些細な間違いを許さない空気が支配的になるとそういう層にたいしてとる戦略も違ってくる。それをよくあらわしているのがテレビと政治である。

テレビも昔はこういう番組は間違いかもしれないけれどどうだろうといった挑戦的なものが多くあったけれど今はどれもコンプラ遵守な保守的なものになっている。

企業社会においてもセクハラやパワハラなどするようないいかげんな人間はふさわしくないとされるようになったしそれは政治においても同じである。

昔の政治家はけっこういい加減な人も多く最も記憶に新しいのが小泉元総理だが彼の政策は賛否はともかく挑戦的なものだった。竹中平蔵と共に格差拡大の礎となった数々の愚策を僕はまったく支持していないけれど彼の政策や人間性が革新的だったことだけは確かである。もっと前だと田中角栄なども挙げられるけど昔の政治家はその政策の評価云々はともかく評価される側であろうとしたしたから野党の批判にも応えなければいけずその結果、総理がよく変わっていた。当時それは悪いことのように言われていたように記憶している。こんなにころころと国のトップが替わる国はないとみんなよく言っていたがそれは逆に言えば国会が機能していた証明でもあったのだ。

 

今の安倍政権を見ているとそういった構造はもう終わったんだなと確信せざるを得ない。政治家が政策を出し、それにたいして野党および国民が評価し批判して漸進していくような民主主義はもう終わった。昔の辞任の基準で言えば安倍政権はもう5回ぐらいは終わっている。

政策なんて二の次で政治家はとにかくクリーンっぽく見えなければいけない。クリーンではない政治家はクリーンな社会にふさわしくない。しかしそうしてクリーンなイメージを維持しようとすると批判に応えること自体できなくなる。批判に答え、間違いを認めた瞬間にそのイメージは瓦解するからだ。そうして批判を回避し、問題を有耶無耶にし話をそらし、すかし、かわしているうちにニュースとしての賞味期限がきれる。

そうやって安倍政権は長年続いてきた。もはや議会制民主主義の終わりと呼んでいいものだろう。

人に寛容ではない社会は議事録を開いた瞬間に負けという政治をつくる。ゆえにもう議事録も公文書もなにもかも破棄する他にないのだ。間違いが確定した瞬間に終わる社会ではそれが唯一残された戦略なのだから。

そうして何も言わず無謬性を確保しながらクリーンなイメージだけを追及して票を集めることに成功しているのが小泉進次郎氏であるが

このままいき小泉氏が総理にでもなったら本当にもう外国の言うがなすまま、議事録はとにかく破棄、公文書も公にせず基幹統計は改竄で国民にはとにかく口当たりのいいことしか言わず記者クラブでメディアにも質問通告をさせるようになるのでは・・・

と書いていて思ったのですが既にもう起きていることでしたね。

短編小説を書いてみた~告白~

ダンデライオンってタンポポの英訳みたいよ

そうなんだ

かっこいいと思わない?

そうだね。ライオンのたてがみからきてるのかな。

いや、違うみたいなの。もともとはフランス語のダンドリオンて言葉からきててダンドリオンはライオンの歯って意味みたい

ライオンはライオンなんだね。でも歯とタンポポって関係なさそうだけど

いや、それがタンポポの葉っぱの模様がライオンの歯の模様と似てるらしいのよ

ライオンの歯・・・て全然イメージ湧かないな。

そうよね。ダンデライオンて言葉をつくった人は今の日本のタンポポのイメージと全然違うとらえ方をしてたってのが面白いと思わない?

うん、でもそんな昔の人だったらライオンの歯の模様をどうやって知ったんだろう。今でも学者ぐらいしか知らないんじゃないのかな、ライオンの歯の模様って。

不思議よね。

捕まえないと歯の模様を見ることもできないだろうし、罠でとらえたのかな

どうしたんだろうね。でも捕まえることはそんなに難しい話じゃないと思うわ。石器時代からマンモスと戦ってきたのよ、人間は

それもそうだね。それでもライオンの歯の模様を知っていたとなるとダンデライオンて言葉をつくったのは貴族階級とかになるのかな

そうかもしれないわね。ライオンの歯の模様を知りながらタンポポの葉っぱの繊細さを知っていた人というと相当かぎられてくるわね

そうだね

 

ダンデライオンについてはもうひとつ面白い話があるの

なんだい?

ダンデライオンつまりタンポポは辛くて苦しいことの象徴ととらえられてたの

あんなに小さくてかわいい花がかい?

うん、タンポポの根っこってね。食べるとからいらしいの。それでね。辛いことの象徴。当時の価値観でいうとイエスキリストが受けた苦しみの象徴としてタンポポは見られてたのよ。

そうなんだ。やっぱり今の日本人が持つイメージとは全然違うんだね

そうね。それが同じ物であっても考えられてるイメージとか印象は違うのが面白いの。私達は同じ物を見ている時に全然違うことを考えたりするの

そうだね。面白いね。同じ物を見ている時に同じ物を見ているのかってデカルトとかそんな感じだったよね。西洋哲学もそういう疑問から出てきたのかもしれないね。

同じ物を見ている時に同じ物を見ているとは限らない・・・そうよね・・・うーん・・・

どうしたの?

私は君が私と同じ物を見ているのかわからないの

どういうこと?

つまりね、だから、その・・・他の人が君をどう見ているかはわからないけど・・・あの・・・私はその・・・すごく好きみたい・・・なの

~沈黙~

ありがとう。君は僕にとってもタンポポだよ

それは・・・どっちの意味の?

 

終わり

ゲーム依存はあるがそれは出口としてのみ存在する

香川県におけるゲーム規制についてはてなではどうもゲーム規制には反対の立場の人が多いみたいだけれど、僕はよくわからないでいた。

ゲームに関してのみならず依存症全般について本当のところ何が問題なのかあまりにも明らかになっていないのではないだろうか。みんな本当のところ依存症というあまりにもあやふやな病についてどの程度わかっているのだろう。

実際、ゲームが依存性を持つことはあると思う。フォートナイトで人生ぶっこわれた人も世界中にいるだろう。中国ではFPSのやりすぎで過労死したといった報道もあった。他にもギャンブルや覚醒剤は当然として買い物依存症もある。アルコールやカフェインもあるしなかには水依存というのもあるらしい。最近だとSNS依存、スマホ依存、ネット依存などもある。

依存症について検索していると~~依存はかなりの種類がある。それらすべてを依存性物質として規制するのは無理な話だ。水依存の人がいるから水を規制しようとはならない。検索していて気になるのは~~依存の~~の部分はほとんどなんでもあてはまることである。本当に問題なのは依存している「状態」のことを指しているのではないだろうか。

それはこちらの動画

依存症についてあなたが知っていることはすべて間違っているでも述べられている。英語なので英語が得意でない人は字幕をONにしてみてほしいのだけど

www.youtube.com

 要約すると依存というのは孤独、あるいは悲しいという状態とほとんど同義だと述べている。そしてそれを解決するには悲しくない状態=繋がりを再構築することが依存症の解決方法だと。

 自分の狭い観測範囲でも友人が多い人や闊達な人は依存状態に陥ることが少ないように見える。お酒におぼれるのはだいたい何かがうまくいかない人や孤独な人だったりする。タバコをやめられない人もタバコの煙にしか思いを吐き出せない人だったりする。

なにぶんそんなに長く生きていないので断定的なことを言える歳でもないけれど人間にとって孤独だけが問題なのではないか。そんなふうに思うことがある。貧困や病気など悲劇はいろいろあるけれど孤独ではないうちはまだなんとかなるように見える。孤独だけが問題だとすれば依存症はその表層でしかないのではないか。

厚労省のページなど見てもそれは見てとれる。

依存症に共通することは、家族とのケンカが増える、生活リズムがくずれる、体調をくずす、お金を使いすぎるなど何かしらの問題が起きているのにも関わらず、
ほどほどにできない、やめられない状態に陥っているということです。
このような状態にある場合、依存症と同じように対応を考える必要があるといえます。

依存症のことを考えるときに大事なのは、そのことによって本人や家族が苦痛を感じているのかどうか、
生活に困りごとが生じているのかどうか ということです。
本人や家族が苦しんでいるのであれば、それは改善が必要な状態ですので、依存症に関する正しい知識を身に付け、
適切な対応をとっていくことが必要といえます。

「本人や家族が苦しんでいるのであれば」の部分は本人や家族が苦しんでいるのでなければそれは問題ではない、依存症ではないと読むこともできる。

ゲーム依存の議論が出てきてからいろいろ調べて見てたけれど依存症はうまくいっていない状態における出口でしかないのではないだろうか。

香川県議がゲームをやるとニートやフリーターになると発言していたけれどそれは完璧に因果関係が逆である。ニートのような孤独な状態になるとゲームに依存する「状態になる」と言ったほうが正確だろう。リストラされたお父さんが家で昼間からお酒を飲むようなものでそれは酒が原因なのか孤独やうまくいっていない状態が原因なのか考えるに明らかに後者、つまりうまくいっていない状態が原因だと言える。

本当にゲームが依存性物質として問題であるのならばeスポーツのプロゲーマーも依存症患者と呼ぶべきとなるけどそうはなっていない。彼ら彼女らはゲームで生計をたてて仲間とゲームをし大会などで世界と通じているので社会性があるから孤独ではないゆえに依存症とはならない。部屋でひきこもってゲームしているニートとやっていることは変わらないのに、である。両者を比較すれば問題はその人が孤独であるか、孤独ではないか、お金を稼いでいるか否かとなる。両者には実存的な違いはなく問題はその人がゲームをしているのかさせられているのかとなる。

つまりゲーム依存は確かにあるがゲーム依存はそれ以前の状態によってゲーム依存者であるかどうか判定されてしまっている。その意味でゲームがニートやフリーターをつくるのではない。ニートやフリーターが暇だからゲームをする。そんな当たり前の結論を香川県議はなぜわからないのか。

なのでありていに言ってしまえばゲームは社会だと認めてしまえばいい。FPSでチームをつくるのも社会だと。スプラトゥーン甲子園に出場するのも高校野球と同じだと。市場化し、社会として成立させ、お金を流通させて技能として認めてしまえばいい。

そうなると永久に現実に働かなくなるといった批判がきそうであるが現実に働くというのもけっこう意味不明な命題である。現実に働いていてなんの役にもたっていない仕事などごまんとあるしリモートワークしているエンジニアなども「現実に」働いているわけではないと香川県からしてみれば言えてしまうだろう。PC依存という難癖をつけるのかもしれないが。

 

社会が社会として成立するには他者からの承認が必要であって依存症と言われる状態も承認不足の一種が社会性の欠如と見られているわけで

ものすごい素朴に言ってしまえばそんなもの単に認めてしまえばいいじゃんとしか思わないのだ。認めたくないのであればすくなくとも依存などという言葉を使うべきではない。