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いかにして恋愛は理性的なものへ落ちたか~弱者男性論とフェミニズムのマッチポンプ~

デビットライス( id:DavitRice )さんの記事を読んで思ったのだけど、こういう社会的文脈での弱者男性女性論ってそもそも論として違和感がある。

gendai.ismedia.jp

実際問題として統計上、恋愛しない人が増えているうえに少子高齢化も喫緊の問題なので恋愛が社会的な文脈で語られるのはわかる。しかし恋愛を社会的に語れば語るほど「語るに落ちる」ことになっている。

大前提として人間は社会の駒である側面と、そうでない側面を持っている。仕事などは前者の側面のほうが強いが、恋愛は後者の領域なので社会的駒としての文脈で語るとおかしなことになる。

恋愛を過度に社会的なものとして語ると恋愛が社会に飲み込まれてしまう。実際にマッチングアプリなどではそういう「社会的駒としての恋愛」が日常になっているのを見るにつけ、すでに恋愛が恋愛ではなくなり、取引になっている側面があることはみなが感じていることだろう。女性のステータス志向もそうであるし、男性が若い女性を好むのもそうであるが、そういった取引の末にのみ恋愛が成立する今の状況はかなり歪んでいるように見えてしまうのだ。所与の条件が与えられた現実に適応して振る舞うことを個人の責任に転嫁すべきでないことは明らかであるが、そもそもこういう「市場」になったのはなぜなのだろうか。それが不思議でならないのだ。

そのような問題意識は女性と男性の両方に共通しているはずである。

よくよく見ていると、取引でのみ恋愛が動いている現状にたいしてみなが形を変えて批判している状態になっている。

フェミニズムと弱者男性論はその意味で批判の源泉が同一であり、その源泉が何かと言えば「取引によって規定される恋愛市場の在り方」に他ならない。男性側から見ればフェミニズムのような考え方は男性の実存を置き去りにしているように見える。また、女性が強者男性を選ぶのは取引としての恋愛に終始しているように見えるであろう。

一方のフェミニスト側から見れば社会的立場が弱い女性は恋愛において正当な取引ができる環境にないと考え、女性のエンパワメントを主軸として意見を展開している。アファーマティブ・アクションなどによって女性の権力や言説そのものを擁護するラディフェミなども出てきている。フェミニストから見れば弱者男性論者はホモソーシャルの再生産をしている旧態然としたボーイズクラブに見えているのだろう。

フェミニストと弱者男性論者は主張の内容こそ違えど、総じて見るに「どちらがより正当な取引であるか」という主張をしている。両者の違いはその立場のみとなっている。どちらの主張にどれだけの統計的根拠、論理的整合性があるかという議論になっている。そのような議論に関してのみ言えばどちらにも同意できる部分がある。フェミニズムでたびたび取り上げられる女性の政治家や管理職比率に関してもそれらが低いのは事実である。弱者男性論で取り上げられているかわいそうランキングにも同意できる部分はある。

しかしながら両陣営ともに取引という卓上で話をしていることがそもそもの問題である。それが忘却されていやしないであろうか。

取引という卓上で自らのカードを披露し闘争している限り、恋愛が取引の外で語られることはなくなり、お互いがお互いをマッチポンプとしながら、恋愛と取引のつながりをさらに強固なものとしていく。そしていつからか恋愛が恋愛であることをやめてしまった。それはもうずいぶん前からであろう。そしてすでにもう取り返しがつかないところまできてしまっている。

実際に弱者男性論の中には取引に過度に適応した言説も言われるようになっている。「慈悲深い性差別主義者」のほうがモテるといったエビデンスが支持されており、「そのような現実」がある以上、「そのような取引のあり方」に乗ってやろうではないかといった言説が言われるようになっている。恋愛工学などが支持されていたりと、いかに現実の市場における取引で優位に立ち回るかということがすでに言われている。

 

いずれにせよ男性は金とコミュ力、女性は容姿にそのリソースを全振りして「求められる人材」であらねばならなくなった。就職活動をするのと同じように、恋愛においても取引される人材としての役目を市場が個人に課しているのである。恋愛市場そのものから降りるでもない限り、人間ではなく人材として恋愛をすることが求められる。そのように世界が見えてしまっている。もちろん現実の恋愛ではもっと複雑な要素が絡むので取引だけで成立しているわけではないことは留保しておくにせよ、すでに多くの恋愛関係において取引としての側面が支配的になっているのは否定しえないだろう。

 

このような恋愛市場の構造及びそれを取り巻く議論のありようを見ているとミシェル・フーコーを思い出す。

何がどうなってこんなことになっているのかを考えるヒントになるはずだ。

フーコーはおよそ次のようなことを書いている。

それを狂気だと認める理性側の眼差しによって狂気は我々の世界に現前する

と、このように書いている。

SNS社会とミシェル・フーコーと理性の逆流 - メロンダウト

理性によって眼差されることで狂気は狂気として「現れる」のであって、それを狂気だと認めない限り、狂気が狂気となることはない。たとえばクリスチャンのことを我々は狂人だとは思わないが、狂気だと眼差されればキリスト教は狂気だと見なされる。そして、それを信奉するクリスチャンは狂人として扱われるようになる。普通に考えて神はいない。そう考えることもできる。それでもなおこちら側が宗教の多様性を認めている限りにおいて宗教は狂気ではないまま在り続けられる。フーコーは理性と狂気の関係をそのように喝破した。

何を狂気とするかはこちら側、つまり我々理性の側による眼差しによって決定するのであって、狂気はそれ自体が狂っているわけではないということである。むしろ狂気を狂気だと認定するのは理性側のさじ加減ひとつであるので、理性こそを注視し、それを振り回す時には相応の覚悟をしなければならない。

これがフーコーから学ぶ最大の教訓であると思っている。いわゆる恋愛市場における議論についても理性的な話をするあまり、感情そのものを総じて狂気として認定した結果、みな「恋愛に狂えなくなっている」のではないだろうか。

たとえばフェミニズムはハラスメント批判をすることでハラスメント的なものを狂気として認定し、それを行う人々を狂人として我々の世界に現前した。告白ハラスメントという言葉をつくり、告白を狂気だと認定したりと、例をあげれば枚挙に暇がない。一方の弱者男性論者は負の性欲という言葉を使い、女性の感情的な性衝動を狂気として認定し、批判した。

恋愛に係るすべての議論において「どちらが理性的か」に終始している限り、あらゆる狂気を滅殺していくことになることはおよそ間違いないであろう。フェミニズムも弱者男性論もそのような点で同一だと言える。そして、恋愛に係るすべてを狂気として認定することで、最終的には取引しか残らなくなってしまったのである。さらに言えば、その取引すらも「取引の正当性」という観点から批判する。お互いがお互いを批判することでありとあらゆる狂気を現前し、その結果残ったものにたいしてどちらが理性的なのか議論しているのが今の状態なのであろう。ようするに永遠のマッチポンプに陥っているのである。理性によって狂気を現前し、それでも残った理性的な感情にたいしてどちらが理性的かということを議論する。お互いの狂気を狂気として発見する限りにおいて、この手の議論が収束することはない。つまるところ「それ」を発見する理性こそが「狂行」なのである。

 

こういった問題の解決策としてはいったんそのような理性や取引を解除するしかないのであるが、それもなかなか難しい。 理性や取引はこの世界のルールであり、善性でもあるので我々はそれを内面化してしまっているし、良いことだとすら思っている。

しかし恋愛とは原理的に狂気の沙汰なので理性や取引に侵食されるとかなりおかしなことになる。冒頭に戻れば、社会の駒として理性を要求される場面では理性的に考えるべきであるが、社会の駒ではなく人間としてあるべき恋愛などの場面においてはいったんそれを(程度問題として)忘れてしまったほうが良いであろう。もちろん理性を忘れると言ってもDVなどをしてはならないのは言うまでもないが、「他者の理性によって眼差され現前した狂気」に関してはそれほど深く考えないほうが良い。さもなければ恋愛をすること自体難しくなる。

それでも恋愛しようとすれば極端に市場に適応した方法を取るようになってしまう。

男性を例にとって見れば、理性に飲み込まれ狂気(純愛等)を忘れた瞬間に性欲を解消するための「メソッドが正しい」という結論に至ってしまうのだ。

恋愛市場がどうしようもなく取引で成立しているならば「よろしい、そのゲームに乗ろうではないか」といった具合に市場が個人を規定しはじめる。そしてそのゲームに乗る個人がたくさん出てくる。恋愛工学にしてもあれは市場が捻出したものなのであろう。もはや狂気を持ってして恋愛することは不可能になった。非モテコミットなどしても何の成果も得られないのであれば、恋愛工学などのメソッドに乗ることはそれほどおかしなことではない。そういう心理は男性の身からすればよくわかる。よくわかるし、同時にそれが間違っていることもわかる。性欲だけを解消すれば幸福だとは決して思わないと同時に性欲は男性の実存に係る問題でもあるので、それを解消するメソッドがあれば使う人はいるであろう。

ようするにこのような市場そのものがすでにしておかしいのである。

冒頭で「語るに落ちる」と書いたのは以上のような理由である。恋愛を理性的に語れば語るほど狂気が狂気としていることは不可能になり、恋愛が理性的なものへと「落ちていく」のである。

 

あまりにも恋愛が取引として考えられてしまっている。適切な契約のもと、理性的な判断を持ってしてのみ恋愛関係が成立すると。よくよく考えてみれば「それ自体がおかしい」のは誰もが同様に感じていることであるはずだ。それでもこのゲームに乗らなければいけない。そのような「理性という虚無」が支配している限り、一定数の人は恋愛などしないであろうし、ましてや少子化など解決するはずがないのである。

 

 ※蛇足

現実的に言えばお金の話などがあるので一概に「人は恋愛に狂うべき。恋愛として恋愛すべき」なんて言えたものではないです。理性こそがその人の欲望であったりもするので。フェミニズムと弱者男性論のどちらがより正当かという議論も現実の再分配の話に関して言えば必要だったりします。ただ、そういう理性的な議論は個人の心中をも侵食しかねないという点においてだけは注意したほうが良い。それだけは間違いない。

政治的立場にグラデーションがあることを許せない人々

前々回の記事が広く読まれたみたいで、ツイッターのフォロワーも100人ぐらい増えたのですが、それとは別に左翼であろう人からDMで白饅頭氏の肩を持つなという長文DMが寄せられてきてかなり困惑しました。晒したりはしないですけど。

こんな泡沫ブロガーにDMするほどの布教活動なんてやってるから左翼は支持されないっていう記事をまさに書いたわけだけど、なぜそこまでして自分達の政治的立場の正しさを喧伝しようと思うのか、そこからしてわからないんですよね。

当たり前すぎる話ですが、政治的立場といっても個々の人間にはグラデーションがあり、ある側面では極端に保守的な考え方をする人もいればその逆もいます。それぞれの人間が考えていることは全然違うし、一人の人間の考えにさえ矛盾や捻じれがあって当たり前なのがまず前提として共有されていなければ「話にならない」だろうというわけですよ。

こういう風に書くと無謬性に依った冷笑系だと言われるのが昨今の風潮なわけなので、私の立場を書いておくと、私は政策レベルではリベラル、理念的には保守の共同体主義者です。もちろんこれにもグラデーションがあり、「是々非々的な思考回路は持ちつつも」というエクスキューズは言っておかなければならないですが。

今はこういう思考そのものが許されていないように見えるんですよね。白饅頭氏と「対話」したからと言って私が彼の政治思想に賛同しているかのように考えられるのは心外です(もちろん賛同している部分もあります。そんなもんでしょう)

彼の行っていることはすこし「危うい」とも同時に思っています。氏の書く文章はとてもエモーショナルな表現で溢れている点で、氏の思惑とは別にポピュリズムや感情的動員を誘発しかねない「可能性」もあると思っています。そういった言説の危険性に関してはこのブログにも散々書いてきたので昔からの読者さんであれば理解していただけると思いますが。

しかしながらそれとは全然別の問題として、それをポピュリズムだと言った瞬間に対話の可能性が消滅している現在の状況のほうがさらに異常だと言ってるのです。

 

あいつはあいつと仲良くしているからあいつと同じ考え方をしているに違いないというのは小学生の発想でしかないのに、そのような考えでDMまで送ってくる人までいるのが驚きなんですよ。当たり前ですが「別人」ですからね。

そのような門切り型の画一性を政治的な思想と絡めて陣営闘争のようにしているからいつまでも対話できず、横にも縦にも分断されているのだという構造的問題を先に解決しなければ何も変わらないだろうということです。

こういった問題を見据えるには別の考え方をしている人の話を聞きに行く必要があって、その過程で耳が痛くなるような考えにも出会う。けれど、それ自体を否定してしまったら右と左、上と下に分断され、あげくの果てには政治が政治という専門性に閉じられてしまう。それが今起きていることだというのは前回の記事で書いた通りです。

政治がムラと化した瞬間に、知的エリートが啓蒙した理念に迎合するお仲間が集うだけのものに政治が「成り下がってしまう」んですよ。

実際の選挙では動員をかけたりすることが政局の問題としては不可分であり、必要になるけれど、政局と政治は違います。いわゆる政治思想という側面において、政治は市民全員のものと考えるべきでしょう。市民がそれぞれに政治を考えてこそ民主主義が民主主義たりえます。であるにも関わらず、考えるという観点及び考えさせるという観点がごっそり抜け落ちているのが今の左翼(だけでなくネトウヨなどもそうですが)に見えてしまうんですよ。

この問題は左翼のムラ化と完全に地続きだと思っています。思考とは一般に「別の可能性」について思いを馳せる行為だと思っていますが、そうするには自分の考えとはまったく別の考えに触れる必要が出てくる。そして、別の考えに触れるためにはムラを出なければいけないうえ、ムラの掟に縛られてもならない。ムラを出て、自分本来の思考とはまったく別の他者の考えをミックスさせ、相対化させることで自らの思考の粗や矛盾を発見でき、そこから思考はスタートするものでしょう。

このような考え方は前回の記事に書いたことにも繋がっています。前回の記事では、男女の軸を自らの中で均衡させてこそジェンダーの問題を昇華させることができると書きました。これは思考のプロセスにも同じことが言えます。男性は男性であり、女性は女性であるといった対立に終始せず、自らの性とは別の性を持つ人がどのような考えを持っているのかを聞き、それをもとに自らの思考を矛盾させることで政治的な考えに至る。そのような矛盾には相応の痛みを伴うこともありますが、そうでなければ自らの思考は個人の欲望の域を出ない点で、政治とはまったく別のものとなってしまいます。そうやって誰かの考えに触れて思考を矛盾させ、相対化させて、「それでも譲れない何か」を持ってして政治的な発言をすべきでしょう。

その先にどこに投票するのがベターかという決断が生じるわけなのですが、そういった個人が思考に至る「プロセスを啓蒙は相手にしない」んですよね。とにかくこれが良いから良いんだ。

男女平等は間違いないんだ、今はこういう時代なんだ、適応しろ、大人になれ。そういった言葉ばかりが言われ、疑義を呈することすら不可能である以上、そこに思考が介入する余地は消え失せてしまいます。

ポピュリズムは敵だ、弱者男性論者はフェミニズムの敵だといった具合にすべてを切り分け、陣営闘争に帰着させるかぎりにおいて、そこに「考えるべき市民」は存在していない。そのような言論の在り方にたいしては「根底からしておかしい」と言うべきでしょう。つまり、ポピュリズムが正しいと言っているわけではなく、ポピュリストと対話できない政治はおかしいというわけです。右と左、および上と下とを架橋する言葉を模索しないかぎり、個人が政治について考えることは不可能になり、政治が政治として成立しなくなってしまう。そのような状況を憂うことは政治に携わる市民としては当然だというまでです。

 

DMをもらってそんなことを考え、対話しようと、一瞬返信しようとしましたが、面倒くさくなってやめました。こんなこと書いている僕自身そんなもんです。実際問題として政治はめんどくさいんですよね。ただ面倒くさいことも考えなきゃとは、一応思っているというだけのことです。仕事して、美味しいごはん食べて、たまにお酒飲んで、できれば愛する人でもいて、たまに羽目を外して遊んで何も考えずに生きていきたいと切に願っているから政権も市民もちゃんと政治を政治として考えてほしいというだけの話なんですよ。

 

 

※以下蛇足です

こういった問題に関して、まっさきに思い浮かぶのがジョン・ロックの「自然権」です。ロックは「人間が自然状態で持つ権利を仮想しない限り、社会を語ることはできない」と考え、人間が生来持っている権利を以下の4つに数えました。

「自由」「生命」「財産」「健康」

これらの自然権を侵害する行為を犯罪だとするものが現在に至るまで法体系の基礎となっていますが、政治にも同様の考えを見ることができます。それがリベラリズムの考え方でもある自由主義なのは広く知られているところでしょう。自由は人間が生来持っている権利なので侵害してはならないというのは今でも強く言われています。

それ自体は問題ないのですが、問題はその自由が自然であるという視座が失われてしまっているところにあるように見えるんですよね。つまり、人間は自由であるべきだという権利に着目するあまり、人間が自然的な存在として居ることを許さないのが今の左翼の問題に見えてしまいます。

すこしわかりにくいので補足すると、今のリベラルは人間は自然であるという前提にたたずに、自由主義を不完全な人間に啓蒙するという点にたっている点で、ロックの言う自由とは違うものとなっている。人間は「生まれつき自由」であることが自然権の考え方ですが、今のリベラルのそれとはズレがあるんですよね。

「人間は自由な『存在』である」と考えるのと「人間は自由であるべきだ」というのはそのニュアンスが違います。

おそらくこういった微妙なズレが本質的には今のリベラルの啓蒙主義、対話の不可能性につながっているのだと思いますが、いかんせん私には手のあまる問題です。

ありていに言ってしまえば、人間が平等に自然である限り、人間の自然性を認めない自由は本来の自由とは言い難いものとなります。

人間を自然的存在として認める。なればこそ、右左を超えた対話の可能性も出てくるのではないかと、そんなことを考えているんですよね。

情報化社会と個人主義が悪魔合体した結果としての男女論

以前に下書きしていたもののですが、話がとっちらかってボツにしていたものを修正したものです(まだとっちらかってるかも)

 

 

以前話題になった増田

anond.hatelabo.jp

anond.hatelabo.jp

 

男女が非対称である以上、この手の話はかみ合わないと思うのでどちらがどうというのを書くつもりはないのだけど

それにしてもこの手の弱者男性女性論みたいなものが出てきたのはなぜなのか、そちらのほうが気になってしょうがない。

結論から言えば個人主義と情報化社会が悪魔合体した結果起きた悲劇のように見える。

僕たちはかつてないほど他人に嫉妬しやすい環境にある。インターネットで情報が開かれ、SNSでは人々の情報がたえず流れてくる。フェイスブックをひらくたびに誰それに彼氏ができた結婚したどうのこうの他人の生活がひっきりなしに情報として飛び込んでくる。友人知人でなくても誰かの生活実態や社会のマクロな推移が必ずはいってくる。そうやって飛び込んでくる情報と自らの生活や境遇を比較することで、幸福か不幸かをある程度定量的に判断できるようになってしまった。その結果、ある人は優越感を得て、ある人は劣等感にさいなまれる。

今更すぎる話であるが、嫉妬こそが情報化社会の弊害だということを思い出すべきではないだろうか。情報に触れ、自己が世界に開かれた瞬間に僕たちは嫉妬するようになる。男性は女性に、女性は男性に、もその一種なのだろう。男性から見れば女性がうらやましく見える。女性から見れば男性がうらやましく見える。男女の非対称性を考慮しないでお互いを「羨望」すれば、嫉妬という沼にはまっていくことになる。「女性のほうが社会的立場が弱いのでつらい」「KKOに比べればたいしたことない」「非モテに女性をあてがえ」「男性の自殺率」等々、口に出すのも憚られるものまで出てくるのが嫉妬感情の恐ろしいところであろう。

こういった嫉妬による負のスパイラルは男女に限った話ではない。経済的な側面、社会的立場など多岐にわたる。しかしながら、どんな対象に嫉妬しようとも、問題は嫉妬している状態そのものにあるはずだ。対象を絞って誰かを敵化しても根本的な解決にはならない。敵がいなくなればまた新たな敵を見つけるだけになってしまう。それでもあえて敵を設定するとしたらそれは男性でも女性でもなく、情報だということをまず念頭に置いたほうがいいのではないだろうか。男女の対立論はあまりにも政治的に語られがちであり、陣営闘争の様相を呈しているが、対立論として語る限り必ず袋小路になる。男女を比較すればどちらがかわいそうかという結論が必ず出てしまうためだ。

そしてその結論にたいして困窮した個人が「そうか、俺の私の困窮はたいしたことはないんだ」と納得するはずがない。このような比較に終始する限り、男女の対立は永遠に終わらない。永遠に「こちら側とあちら側」に分けられてしまう。

つまるところ男女の話やかわいそうランキングについてはその発生源までをも見通さない限り、永遠に解決する種類のものではない。そして、その発生源が何かといえば、そのひとつにSNSがあることはまず間違いないであろう。

SNS社会は原理的に嫉妬を生む構造になっている。情報こそが僕達に嫉妬感情を想起させる。 すなわち、情報といかに対峙するかが最も根本的な議論になるべきなのだろう。

 

そう考えると、そもそも情報に触れることをやめればいいという話になりそうであるが、それは逆に危険だと思っている。もちろん現在は情報過多の時代なので情報をシャットアウトすることは様々な側面で有効たりえるとは思うが、解決策としては愚策であろう。それほど単純に考えるべきではない。

他人と比較して自分がどういう状態なのかを知るのは社会の中で生きている限り避けようがないし、避けるべきでもない。さもなければ、自分が不幸であることもわかりようがない。わからなければカルトに染まっても、マルチにはまっても、奴隷にされようとも自分が不幸だということに気づかないままになってしまう。他人との比較自体はけっして悪いことではない。情報に触れることもその意味ではセキュリティーとして機能する。男性と女性の話に関しても、比較してどうこう話すのは必要なことであろう。

問題はその比較が「個人のうちに閉じられていないかどうか」にある。

個人と個人を比較すると必ずどちらがかわいそうかという解答が出てきてしまう。個人と個人を比較する限り、その嫉妬感情はどちらがかわいそうかという不等号(男性<女性等)により「決してしまう」。それを解除するためには個人が個人以外の評価軸を持つ必要がある。個人でいる限り嫉妬感情からは逃れようがない。

冒頭に「情報化社会と個人主義悪魔合体」と書いたのはそのような理由である。

私達は情報により嫉妬感情を想起し、個人主義により嫉妬感情から逃れられないでいる。ダブルバインドされた檻の中にいる。

 

情報を敵とみなしてシャットアウトすることが不可能である以上、嫉妬感情をなくすには個人の心性を変質させるしかないのであるが、個人主義社会においてそれは難しくなっている。個人主義が蔓延しすぎた結果、僕達はもはや他人を他人としてしか見れなくなってしまい、自己が浮き彫りになってしまっているからだ。 

本来、他者という情報にたいして個人で戦うのは無謀すぎるので徒党を組む必要が出てくる。つまり情報的幸福論を上書きできるような関係性の中に幸福論を埋め込んでしまうのが正しい解決策になる。情報を捨てるのではなく情報を「均衡」させてしまうのだ。かなり抽象的な話に見えるかもしれないけれど、難しい話ではない。

結婚している人が嫉妬感情を持ちにくいことを考えればわかりやすい。結婚すればその人の性はひとつではなくなり、配偶者の性も同時に持つことができる(敵化できなくなる)ため、男女という対立軸が「均衡」し、嫉妬という沼から抜け出すことができる。もちろん結婚していてもお互いに他人だと思っている場合には個人に閉じられたままなので結婚していればいいという話ではない。友人関係でもなんでもかまわないけれど、ようするに自らの性と誰かの性を均衡させうるほどにその誰かを大事に思えるかどうかが重要なのだろう。「容易に対象を敵化できない状態」にしてしまえば自己が浮き彫りにならずに済む。

あるいはトランスジェンダーなど、肉体の性と性自認が違う人は個人のうちにおいて男女の対立軸を同時に持てるので均衡を保つことができる。

このような「均衡をいかに構築するか」が嫉妬及び嫉妬を燃料にしたSNSでの誹謗中傷行為にたいする処方箋として考えられるべきであろう。

 

以上のように考えると、つまるところ分断だけが問題のように思えてしまうのだ。家族や恋愛、人間関係などの共同性がなくなり個人を重視するようになると、個人を「個人以上」へとひらく回路が社会からなくなってしまい、その結果、均衡が崩れているのが今の社会となっている。

ようするに恋愛などをして自分の性以上に相手の性を思えるようになればいいという身も蓋もない話になるのだけど、それもまた個人主義社会では難しくなってしまった。かつてのように共同体が先にあって恋愛が始まっていたような社会ではもはやないからだ。

よくもわるくも恋愛や結婚は共同性の中に埋め込まれていたもので、それを二人だけの愛と言われだしたのはここ最近の出来事となっている。そうなったのは近代個人主義の影響がかなり大きいものであるが、以前はお見合いなどな代表されるように、家族や地縁などの共同性の中に恋愛が埋め込まれていた。その意味で恋愛は「結果的」なものだった。二人が暮らし始め、一緒にいる時間の中で恋慕が生まれ、切っても切り離せない関係になることで愛という結果が生まれる。そういった関係がかなり一般的にあったと見聞きする。というか今でもほとんどがそうであろう。時間の中に愛情が宿るというのは今でもかなり一般的なもののはずだ。昔は共同性がスタートになって関係がはじまり、結果的に恋愛になっていた。

一方で、今は恋愛が個人のなかに閉じられている。その意味で結果的な恋愛は消滅して「運命」としての恋愛しか残らなくなった。あるいは運命に偽装された恋愛しか認められなくなってしまった。運命だと両者が合意し、お互いに見初めあって付き合うようになってから相手方の家族など共同体を巻き込んでいくという順番になっている。

どちらが良いかと言われればそれは運命的な恋愛のほうが良いに決まっているのだが、恋愛が運命的なものである「べきだ」という先入観に社会が染まっていくと、運命として選択されない弱者男性女性が残るという結末になる。そして残された男女は嫉妬感情を持つ。それはとても自然な成り行きでしかない。そうしたメカニズムが個人主義的恋愛市場の弊害であり、その嫉妬感情がインターネットに噴き出し、男女の対立論というテイで議論されているのが今起きていることなのであろう。

少なくない人々はかつての共同的な関係からも見放され、運命からも選ばれず、それでも目の前に情報だけは飛び込んでくるうえに「個人」として生きている。これで他人や男女同士で嫉妬するなというほうが無理な話である。そのような現況下において、インターネットでやりあっているだけとなっているのは充分すぎるほどに理性的とすら言ってもいいのではないか。そう思っている。