メロンダウト

メロンについて考えるよ

便所から眺めるフェミニズム

トイアンナさんのnoteを読んでの散文です

note.com

ラディカルフェミニストについて女性性と連動させて感情優先主義者みたいに語る言説を見ることもあるけれど、先鋭化して狂ってしまうのはフェミニストに限った話ではない。男性だって狂うし、女性だって狂う。右も、左も、中道と呼ばれる人だって例外ではない。心理的なセキュリティの穴をつかれれば誰もが何かに狂う可能性はある。オウム真理教だってKKKだってQアノンだってISISだってその意味では同じもので、人間はいとも簡単に狂うからこそ「律する」ことが必要になってくる。なにかに依存した時にそれはいけないと言ってくれる他者であったり、あるいは自分の記憶だったり、教育、読書など自律的他律的問わず自らのやっていることを相対化し、俯瞰して見る必要性がものすごく大きい時代になっているように思う。

僕自身男性で、男女の対立論みたいな話を見た時に男性の側につきたくなることがあるし、フェミニズムは間違っていると言いたくもなる。実際、ツイフェミと呼ばれている人は間違っていることが多々あるであろう。物事の一側面で世界をカットケーキのように切り分けるその切れ味はまことに恐れ入るが、しかしながら同時に彼ら彼女らだって同じ人間なのである。化け物かのように扱うのは少々気がめいってしまう。僕自身そこに着地する可能性だってあったわけだし、これからもないわけではない。たまたまそういうものに飲み込まれていないだけで、いつしかそういうアビスの呪いみたいなものを受け、引き返すことのできない「成れ果て」となることもあるだろう。その可能性について無視できるほど洗練された人間ではない。今ですらそうだ。目的が手段を凌駕するようなラディカルさにたいし、まったく理解できないわけではないのである。

 

とはいえ現状のフェミニズムは問題だと思っている。全体から見ればツイフェミと呼ばれる人々は極一部であるが、ネットデモのような形をとりつつも現実にたいして影響力を持つにまで至っている。宇崎ちゃんの問題もそうであったし、海女さんのポスターも記憶に残っている。あるいはもっとクリティカルなものとして、フェミニズムという運動の存在があるために企業含め個人が委縮するような空気の問題もある。そういうネットデモは馬鹿馬鹿しいというのが旧来のスタンスで、そんなものは無視すれば良いという向きもある。僕自身そうであった。何か言っている。けれど僕とは関係がないな、というスタンスでスルーする。not for meで処理する。それが正しい判断だった。

しかしながら、もはやそういうフェーズを抜けつつあるのだと思う。僕達はインターネットのあれこれを無視できなくなってしまった。様々な場面でインターネットが社会を塗り替えているその限りにおいて、そういうものに抗する必要が出てきた。そういう七面倒くさい社会になりつつある。旧2ちゃんねるのような場所であれば社会への影響力などほとんどなく、それぞれが閉じた場所で勝手になにか書いてるだけだったので良かったけれど、ネットの声を市民の声と同一視するようになったツイッターなどでは、僕達はそれを無視できなくなってしまったのだ。やっていることは2ちゃんねると変わらないのに、である。

 

「ツイフェミと2ちゃんねらーは似ている」

 

このように書くとものすごい批判が飛んできそうではあるものの、むしろ2ちゃんねらーのほうがマシだというのが僕の見解なのだ。トイアンナさんの記事でも触れられていた「女性を称してマンさんと呼ぶ2ちゃんねらー」は言葉だけ取り上げてみれば最悪ではあるが、しかし彼らはそれをある種のコードとして行っていたふしがある。板特有のノリみたいなもので、言葉そのままの意味としては使っていなかった。言外の領域があった。当然ながら女性をマンさんと呼ぶことは褒められたことではないが、すくなくともそれを「社会の言葉」として発することは決してなかった。2ちゃんねる便所の落書きと呼ばれていたのはまさにそのような意味で、彼らは自分達が便所にいることを自覚していて、ここでならうんこみたいな言葉を吐いても良いだろうというノリが働いていた。実際にそういった発言が是か非か(便所であれば何を言っても良いのか)は別に議論があるにせよ、便所でうんこをしていた限りにおいて彼らの言動が社会性を帯びることはなかったのだ。その意味で2ちゃんねるは非社会的な言語空間ではあった。彼らは「実のところ」は何も言っていなかった。言葉を過度に言葉として捉えらる今のSNSを見ているとそのように思い返すことができる。SNSには言外がないのである。

 

2ちゃんねるにたいしてツイッターにいるフェミニストはどうか。彼ら彼女らは明確にそれを「社会の言葉」として発している。宇崎ちゃんは性的搾取だというような言動も社会の側を帯びて実際にポスターを中止させるにまで至っているし、それを目的として社会運動を展開していたのは明らかである。2ちゃんねらーとはまったく違う。ツイフェミは社会の側にたっている。自分達の言論が社会にたいして影響力を持つべきだという意識は、2ちゃんねると決定的に違う。

実際には男性を相手取り敵対視するラディカルな言論を展開してる時点で、女性をマンさんと呼ぶ2ちゃんねらーと変わらない。にも関わらず、それが社会の側を帯びているかのように偽装されているのである。女性の連帯などのハッシュタグに見られるノリも2ちゃんねるのそれと変わるものではない。むしろそれを言葉そのままの意味で使っている点では2ちゃんねるよりも厄介だと言える。
そのような「疑似2ちゃんねらー」とでも呼ぶべき人々が影響力を持つにまで至った。それがSNSの功罪なのであろう。

自分も2ちゃんねるを使っていたので便所の側にたつ人間として言わせてもらえば、明確な意味で、「うんこは便所でしろ」と言っておく必要がある。さもなければ僕達の社会はクソまみれになる。言葉を便所に流せる言論空間でないのであれば、2ちゃんねるのような使い方をすべきではない。SNSなどまるごと便所に流してしまえばいいのに(便所原理主義者)

反インターネット論者としてのひろゆき

2ちゃんねる創設者のひろゆき(敬称略)がインフルエンサー2位になり、政府に助言したと話題になっている。賠償金云々の問題は脇に置いておくとして、なぜ彼があそこまでウケているのだろうか。

個人的に、ひろゆきは反インターネット論者だと思っている。ひろゆきほどに日本のインターネットを代表する人間はあまりいなく、彼をネット論客として見る向きもあるけれど、むしろ逆なのではないだろうか。

近年、ネット上ではエコーチェンバー(先鋭化)現象が事を欠かず、政治的な議論においては党派性に埋没したものを多く見かけるようになった。ツイッターをはじめとしたネット空間でのそれは多くの人から見ると「近づきたくないもの」に成り果ててしまったのだろう。下手なことを書けば立花や福永や「は」の人に訴えられてめんどくさいことになる。君子危うきに近寄らずではないが、政治や議論が党派性に吸収されるとNoと言うことすらできなくなり、しまいにはどんな批判も誹謗中傷扱いされ「この指とめよう」キャンペーンのようにリベラル友敵理論の肥やしとなる。

 

実際問題、今のインターネットで政治的発言をすることは時に極めて危険であり、それこそネット上のプロトコルを事前に知っていなければ返す刀で全身傷だらけになることがほとんどだ。その意味では民主主義的な言論空間自体がすでに破綻しているわけであるが、それを解体してくれるかもしれない人物がひろゆきなのかもしれない。そのような希望的観測を持つことがある。

ひろゆきの言うことはほとんどが意趣返しというかカウンターであり、なにか意味のある発言をすることはほとんどない。発言に意味を持たせることを意図的に避けているようにも見える。いずれにしろ彼の議論のやりかたは、すでに多くの人が指摘しているように、質問をぶつけその発言の穴をついていく論法である。相手の意見を議論の俎上に載せ続け、自らは意味のある発言をしない。ゆえに無敵の論客としてありつづけられる。

このひろゆきのやり方が上述したようなインターネット空間へのカウンターとして支持されている。単に痛快なのだろう。実際にフェミニズムネトウヨを相手取り、批判を展開しているが、そうした発言を市民レベルですることはもうできなくなっている。ゆえにひろゆきが必要とされている。政治的な言論空間それ自体に反発を持っている人はとても多いけれど、自らが発言することは費用対効果がとても低い。実際に訴訟に発展するケースもあるし、仮に自分の意見が相手に届いたとして「だからなんだ」という問題もある。インターネット上でちゃんと議論が成立して「いたとしても」、それがどうしたのかと思わないでもない。ネット上で議論されるようなどっちつかずな政策を議論したとて、エンタメ以上のものにはならない。

現実に反映されるのは「保育園落ちた日本死ね」「女性の人権」「LGBT」「嫌煙」などバーンと言ってしまえる議論以前のものだけで、議論になるような賛否両論の問題は政府の委員会で決定される。その意味で、インターネット上で議論することが実効的にはほとんど無意味であるし、仮に議論が成り立っていたとしてもいまや数を持ったインフルエンサーの肥やしになるだけである。左を批判すればネトウヨ扱いされ、右を批判すればパヨクと呼ばれる。旧はてな村のような隔離された空間で議論そのものをやりたい人だけでやるのであれば良いが、Hagexさんの件でそれも不可能になった。空間として閉じられているからこそ発言が開かれる。端的に言えばインターネットは開きすぎた。

ツイッターがその代表であり、開かれた空間においては数を持っている人間がポジショントークを繰り返すようになり、彼らの指先三寸でフォロワーが同調するだけなので議論のていをなさない。批判が批判として成立するようなある種のコードを共有している空間の大切さを最近はとみに感じるのだ。

党派性に縛られた勢力、既得権益によって旧態依然とした政治(ハンコ議連等)は間違っている。それでも自分で批判するのは訴訟リスクを抱えるだけだし、クソリプ扱いされるだけなので意味がない。なのでみなが黙っている。

しかし、黙れば黙るほどに政権内部もそれを批判する勢力もエコーチェンバー化していき、ポリコレやフェイクニュースなどの問題が現実に侵食し、ついには顕在化してくる。最近もYoutubeを見た母がネトウヨになったという記事があったけれど、ああいうのを放置しておくと近しい人が深淵に飲み込まれる、抜き差しならない社会で生きるはめになる。実際にそれはすでに起きていることなのだ。

 

それを破壊してくれる可能性を持つ人物がひろゆきなのかもしれない。ひろゆきの質問攻めによって象牙の塔が崩壊する様を僕たちは見たいのである。ようするにひろゆきは代弁者なのであろう。その点においてひろゆきが賠償金を支払っていなかろうが関係がない。むしろそういうコレクトネスから離れたところにいる証左としては賠償金未払いはキャラ付けとしては都合が良いくらいであろう。

もちろん厳密にいえばひろゆきの言うことをそのまま受け取ることは歓迎すべき態度ではないし、ひろゆきが間違っていることも多々あるであろう。それでもなおひろゆきのスタイルは市民オンブズマン的な形をとる限りにおいてのみ、とても痛快なのである。

反出生資本主義批判~平等、人材、あるいはコンドームについて~

反出生主義の論点は多岐に渡っており、下手なことを書くと猛烈な批判が飛んできそうではあるものの、現代を象徴するキーワードとして反出生主義は飛びぬけて重要なものだと考えている。
古来からの実存、経済的格差、アーバナイゼイション、能力主義、もっと言えば世界の手詰まり感など、その論点は多岐に渡る。
 
最も大きな視座で言えば世界の手詰まり感みたいなものが各所で噴き出てきているのが大きい要素なのであろう。グレタ・トゥーンベリが問題視する地球温暖化も喫緊の課題であるにも関わらず、SDGsなどの痛み止めに走るしかない現況下、グリーンニューディールなるエコと経済成長を同時達成しようという政策も批判されており、資本主義そのものが地球を破壊していても僕達はそれをやめる想像すらできなくなっている。地球温暖化の問題は反出生主義とはあまり関係ないようにも思われる。しかしながらそれらは明確に連関している。この世界の蓋然性という部分で言えば資本主義が最も大きなもので、資本主義によって経済格差が生まれ、資本主義によって都市集約型の生活となり、資本主義によって能力主義が肯定され、その結果我々の生に蓋をし、反出生主義が生まれるからだ。それらに連関する地球温暖化という「未来への負債」も関係がないとは言い難いものだろう。
そもそもなぜ我々は子供を産みたくないのだろうか。実存的なレベルでの苦難は昔の人々も同様に持っていたはずであり、闘争や独裁などの悪が現代よりもはびこっていた時代における生きづらさは我々の想像をはるかに超えるものであったはずだ。過去の人々も反出生主義のような考えを持っていたはずであるが、それでも世界各国で人口は増え続けてきた。ここまで全員が反出生的に生きて少子化を加速させている事態には現代特有の何かがあるはずである。それを愚考したい。
 
現代の問題というと上述した通り多岐に渡りすぎており、個別論点を取り上げているとキリがないのであるが、その中でもとりわけ重要な問題として生きる意味がなくなっていることが数えられる。こう書くと反発を招くかもしれないが、ベタに言って幸福や不幸が人生の意味を為さなくなっているような気すらしているのだ。誤解を恐れずに言えば不幸であることは時に最大の武器である。リベラル的な世界線における貧困者及び被害者は最強のポジションを取ることができる。現実の困窮や実際の被害が大問題であることは付言おくとしても、思想的な価値の優劣で見た場合、不幸であることは自らの発言を正当化する力を持つ。どちらが不幸か、どちらがかわいそうかと永遠とやっているインターネットの様相を見ても、そのような被害者の論理はおよそ支配的である。逆に幸福であることは周囲からの羨望や嫉妬感情に晒され、抜き差しならない生を送ることになる側面を持つ。幸福と不幸は社会的な天秤に乗せられることで平均化される。我々は平等主義によって無意識にそれをやっている。幸福であることは勝ちであると言うこと、被害者が不幸だと言うことのどちらもできず、幸福は社会的価値において無化されているのだ。
以上のような価値判断とは別に、一方の生活レベルにおけるポジションは固定されている。富の偏在や貧困の再生産という問題はあまりにも有名であり、資本主義レベルで見た場合、インターネットの価値判断は現実にはほとんど反映されていない。ごく稀にキャンセルカルチャーによって有名人が退場させられていく程度である。個々の生活は再生産の段階ですでに固定化されているため、上流階級の人間は再生産を実現するために子供に充分な教育を施す余裕を持ってしか子供を産まず、一方の貧困層は不幸の再生産を憂い、子供を望まない人々が出てくる。
 
つまるところインターネットで見られるような平等主義は上流階級にとって見ればセキュリティーの対象であり、貧困層にとって見ればルサンチマンをぶつける憂さ晴らし装置にしかなっていないのであろう。思想的なレベルにおける幸福や不幸は平等主義によって無化され、実際の生活は資本主義によって固定化されている。そのため、いま生きている我々自身でさえその変化を望むべくもない状態にある。
希望も絶望もなく、単にこの生活が続いていくだけなのであろうなという絶対の諦観みたいなものが我々の生に蓋をしている。平等主義が価値を無化し、資本主義が生活水準を固定する。そのような状況にあって子孫を残すことに「意味」があるのかと考えなくもない。こののっぴきならない蓋然的な生がただ漫然と続いていくだけであろうと思い、希望も絶望もない社会に子供を産むことは「意味がない」と考える人がいてもおかしくはない。いや、どちらかかと言えば充分に理性的な判断とすら言えるだろう。自らの分身とも言える子供を産んでも自らと同じような人生を歩むことになるだろうという「意味のなさ」が反出生主義を基礎づけているのだ。
 
「自分のような駄目人間の子供は自分と同じように不幸になる」「自分の顔が遺伝したら子供は不幸になる」という反出生主義でよく見られる言説もその背後にこの社会が固定化されていることが潜んでいる。貧窮している人が子供を産んでも貧困が再生産される社会である以上、子供も貧困になる確率が高い。そうした論理一貫性のもとに反出生主義は成り立っている。
現代にはブレイクスルーがない。たとえば独裁があった時代においては単に独裁者を殺してしまえば社会が変わるという未来への変化を期待できた。現実の諸問題とは別に、変化の可能性という点だけで見れば独裁制のほうがマシなのである。資本主義のように全世界規模でシステム化されたものを打倒するなどおよそ不可能な話であり、変化を望むべくもない状態にある。資本主義で勝つにもグローバリズムによって競争が激化した現代においては底辺の競争に巻き込まれる可能性のほうが高い。今ですらそうである。実際にグローバルな環境にあるのは末端労働者のほうであり、権益を受けられるポジションにいる人のほうがローカルな囲いの中を生きている。それらの格差は今後、より加速していく。冷静に比較すればブルーカラー労働者の子供はより困窮することになる可能性のほうが高い。それは自明である。稀に突飛な個人がイレギュラーとしてブレイクスルーを実現することがあるが、それらは例外的であり、市民レベルで見た時にこの世界はどうしようもない蓋然性に支配されている。そのような感じ方のほうが一般的なものであろう。
もちろん以上のような話とは別に、実際に生まれた子供がどう生きるかは偶然に支配されている部分が大きい。しかしながら子供の将来を「偶然に預けるに足る変化の可能性」が予見できない状態にある。
出産子育てのコア層である20代30代の境遇を考えてみても、生まれた時からこの社会はほとんど何も変わってこなかったのだ。小泉政権に端を発した新自由主義的なものは人々をグローバルな競争へと駆り立て、政治についても民主党に変わった時があるとは言え、事実上自民党の一党支配が30年以上続いてきた。変化の予見可能性という点だけで見れば、この社会はここ30年で完全に固着し、将来の変化=希望を見通せるだけの「土壌」が失われてしまったのである。それが平和と言えばその通りであるが、逆説的に言えば平和とは現在という時間軸にしか価値を置かず、未来への意味が失われた状態とも言える。未来を今の地続きとしてしか見れないことが平和主義そのものなのだ。いまの状態をそのまま温存する。それを平和と呼ぶ。みなが現在に生き、未来への意味を失った状態を資本主義や、それに紐づいた政治が固定化する。グランドデザインを提示できない野党、五輪をやめられない政権、空気に迎合する現東京都知事も現在を温存するという点で見れば同じなのである。そのような固着的社会に子供を産むことは富裕層にとっても貧困層にとっても自己の再生産に他ならない。元来出生は他人を産む行為であったはずだが、時間軸が失われ境遇が固定化された今、子供を産むことは自分(の境遇で生きる別人)を産むことになってしまったのであろう。
富裕層は子供も裕福な生活を送れるために再生産の体制のもとに子供を産み、貧困層に関しては再生産自体を拒否する。
反出生主義が資本主義を内面化して現状追認する仕草であるという話も、それが「現実」の認識として正しくなりつつあるからだろう。内面化というのは心理の問題であると同時に、現実の問題でもある。東京などの都市生活モデルにおいてはいまやすべてが資本主義と連関しており、「生の余白」みたいなものを塗りつぶしている。恋愛すらも資本の論理によって駆動され、生活も人間関係も資本主義と連動した能力主義によって判断される。愛する人だけいれば人生は充実しているみたいな昭和的な話もいまや空疎に響く。愛する人を見つけたり、生活することですら充分な教育を受けて収入を確保する必要がある点で、恋愛すらも資本主義と過度な連動をしはじめ、再生産の鎖に縛られている。それが「現実」なのであろう。
それを過度な内面化や現状追認というのはそうであるが、それは心理というよりも、もっと大きな蓋として我々の生を覆っているのだ。そのような現実が「グローバル」に生きる労働者の率直な判断であり、反出生主義はその結果に過ぎない。グローバルな世界に生きる労働者は、底辺への競争においてグローバルに資本主義を内面化することになる。一方のローカルな富裕層とマイルドヤンキーだけが子供を産む。そのような構造になっているのだろう。
 
性欲が結実した結果「動物的に」生まれる子供とは違い、子供を人間として産み育てることは時間軸と連動している。未来への希望が持てる状態、もしくは未来が変わるという予見可能性のもとに子供を産むことがおよそ理性的な判断である。資本主義や平等、能力主義などによって時間軸としての未来が実質的に奪われている状態で子供を産み育てようと思えるはずもない。
反出生主義ほどに理性的な判断はない。おそらく少なくない人々が反出生主義者のことを落伍者などのレッテルを貼って見ているのであろうが、そのような事を言っている人々でさえグローバル労働の地平に飲み込まれ、反出生主義を内面化する日は遠くない。国内経済が縮小し、人口が減れば内需でまかなっているローカルな日本企業も国際競争の地平に晒され、数多くの労働者同様に底辺への競争が始まるはずである。反出生主義は、この社会の状況を鑑みた時、理性的な判断において正しい。
 
付随して言えば資本主義ににおける「入れ替え性」も反出生主義を加速させる側面がある。資本主義は究極的に言えば人間を入れ替え可能なものとして配置するシステムだと言える。メリトクラシーによって人材として錬磨され、労働者として入れ替え可能なものとして扱われる。まだ少子化の波が来ていなかった昭和などでは企業への帰属意識があり、入れ替え可能な存在であることを人間に突き付けてくる趨勢はそれほどなかったのであろう。雇用が流動化するようになり、個人が資本主義の中で最適に配置されるようになると、自らが入れ替え可能な器でしかないと多くの人が自覚するようになった。そのような社会においては、出産すらも自分と自分を入れ替えるだけの行為でしかないと、そう捉えられても不思議ではない。貧窮している自分と子供を入れ替えても「意味がない」のである。その点において反出生主義は静かなるテロ行為であるとすら言えるだろう。
 
この社会の大多数を占める労働者が子供を産みたいと思えない。少子化も反出生主義もおよそそのような文脈で説明がつく。労働者階級の固定、貧困の再生産、富の偏在、教育の機会不均衡、リベラルメリトクラシー、ブルシットジョブ、そしてグローバリズム。これらすべてが労働者にとって子供を産むための障壁となり、コンドームのように「彼の将来に蓋をしている」のであろう。