メロンダウト

メロンについて考えるよ

メディアギャップを利用するネトウヨYoutuber

ネトウヨ化した母について書かれた記事(記事後半にリンク有)を読んだのけど、高齢者と現役世代とではメディアにたいする態度が全然違うのだろうね。僕たちはインターネットに書かれてることをそのまま鵜呑みにしてはいけないと教わった世代だけど、高齢者にとってはメディアといえば新聞やテレビなど、マスメディアが主なものだった。そこが決定的に違うのでしょう。

マスメディアの問題はいろいろあるにせよ、既存の大手メディアのほうがインターネットよりも情報の確度ははるかに高い。テレビや新聞のようなある程度のファクトチェックが機能しているものをメディアだと思っている高齢者がテレビを見るようにYoutubeを見れば重大な錯誤が起きてもなんら不思議ではないんですよね。高齢者はYoutubeの文字が流れる動画をテレビとして見ている。単にそれだけのことだと思う。あれをテレビとして見たら相当やばいと直感的に僕達は理解できるのだけど、インターネットがなんたるかを知らないテレビ世代はそういうわけにもいかない。Youtubeネトウヨ造成機になってるのは偶然ではないと思う。テレビの報道番組とYoutubeの文字が流れる動画を価値並列的に見ているのだから親族が説得してもあまり効果がないのでしょう。

メディアが誤情報を流すことなどありえないというある種の信頼を持って高齢者は情報に接して生きてきた。高齢者ネトウヨ問題はナショナリズムや右翼みたいな思想的な話ではなく、メディアギャップとでも呼ぶべきズレがその本質なのでしょう。

 

こうしたマスコミへの信頼は逆説的には反マスコミみたいな話にも通じていて、メディアは絶対の客観性を持って情報を発信しなければいけないみたいな価値観を崩されると一気にマスコミはデマばかりだというナイーブな反動を起こすことにもなる。

plagmaticjam.hatenablog.com

僕達はメディアに完璧な客観性を求める。完璧な報道、完璧な倫理にてらした客観的で公平な報道をするのがメディアの当然の役割だと思い込んでしまっている。しかしそんなものははなっから存在しえない。

 

マスメディアが客観的で公平な情報を発信しているというのは神話に近いものであろう。おそらくそれは昔からそうだった。今みたいにインターネットでメディアの欺瞞性が発見されるよりも以前からメディアは完璧ではなかったはずである。単純にそんなことは不可能なのだからメディアのありかたが変わったわけではない。社会的な責任のあるマスメディアがYoutubeの文字動画のような報道をするわけもなく、ある種の信頼性は担保されていたし、今でもそうなのだろう。

しかしそういう信頼性みたいな話はメディアリテラシーから最も遠い場所にある考え方なんですよね。情報は多角的に見たときに確度の高い情報として浮かび上がってくるもので、極端な話をすればなぜ僕達は現政権の総理が菅義偉であると確信しているのかと考えるとわかりやすいかもしれない。

ほとんどの人が菅総理を実際に見たわけでもないのに菅が総理であると確信している。けれどそれは100%たしかな情報とは言い難いはずである。メディアを裏で操作している闇の黒幕みたいなのがいて僕だけにたいして嘘の情報を流しているのかもしれない。そういうありえない話である可能性も0ではない。けれどそんなことを言っても始まらないわけで、テレビも新聞もインターネットも友人も同僚も誰もかれも「菅が総理である」と言っているのでそれを僕は「多角的に」信じている。たとえば新聞だけがそう報じたとしても信じるに足る情報にはならないし、ネットだけで言われていることも確度が低い。ようするに情報は信頼度の話でしかなくて、その信頼度をナチュラルに多角化できるインターネットを僕達は持っているけれど、高齢者の場合ではそうではないんですよね。

今のようにインターネットがない時代において彼らは情報を発信している「媒体の信頼度」に依存して生きてきたのだから、多角化できる術を持っていなくても不思議ではない。普通に考えてYoutubeの文字動画の情報を信じることは危険な行為であるのだが、それが危険であるという意識を持ちえない環境にあったのだろう。

思想の差異はあっても事実としての情報は事実として受け取らなければいけない世界であったことは想像に難くない。そうした人たちにたいして間違ったことを「事実として」伝えるだけで洗脳できるのが高齢者ネトウヨ問題の最もやばいところではないだろうか。ネトウヨの言っていることに関して言えば反日教育慰安婦の問題などいろいろ議論はあるにせよ、問題の是非云々は別にしてそれを都合の良い事実にすり替えるだけで良いのだからこれほど楽なことはないだろう。Youtube上で事実として伝えるだけである種の権威性を持って高齢者に伝わるのだから、投稿しているネトウヨは笑いが止まらないのではないだろうか。

gendai.ismedia.jp

さらに言えばこういう問題はYoutubeのレコメンデーション機能によってどんどんその様相を強固にしていく。間違った事実を間違った事実で埋め尽くすことによってまさに「多角的に」彼らの事実は強化されていくのだかたタチが悪い。

 

「キムチを食べると韓国人みたいになる」と言ったり、中国で水害が起こった際に「中国への天災は天罰」と言ったりするなど、差別的な発言ばかりだった。

そして同時に、いかに日本が正しく素晴らしいかをとうとうと語った。今では僕が日本政府のコロナ対策への不満を口にしようものなら、「パヨクなの?」などと言い出す始末

 

反韓や反中のことをヘイトだとすら思っていないのはまさに彼ら彼女らはそれを「事実」だと刷り込まされているからなのであろう。

正義のありか、主体の消滅、第三者的方法論、あちら側とこちら側

いかにして人は救済されるべきか

いかにして加害者は罰せられるべきか

いかにして被害者は守られるべきか

あらゆる議論に通底しているのがこのような「裁断」となっている。犯罪の被害者になった方、ハラスメントに遭われた方、弱者男性女性、貧困、被災者

悲劇に遭われた方々に供給されるのは救済及び加害者への「応報」であるというのがこの社会における因果律となっている。因果には相応の応報が伴って然るべきであり、それは加害者にも被害者にも同様に与えられる。

そういった因果応報の増幅装置として動いているのがネット世論にもとづくメディアなのであろう。しかしながら、因果応報の原理は必ずしも歓迎するべきものではない。それは随分前から言われていたことであるが、ネットリンチや炎上と呼ばれるものによって特定個人を因果の中に押し込めて裁断するというのは、つまるところ自らの感情を社会に譲ってしまっていることだとも言える。あるいは自らの感情を過度な方法論へと転化させてしまっている。そのような自己の譲渡とでも呼ぶべきものが大きな錯誤を生んでいるのではないだろうか。そんなことを思うようになった。

 

一般に、なにか被害に遭った時に第三者を介入させたり、訴訟を起こして司法に判断を委ねることは正しいことである。さもなければ加害者と被害者のパワーバランスによってのみ利害が決定することになってしまう。方法論としては第三者に介入してもらうのは望ましい解決方法であろう。しかしながら、そうした「方法が正しい」という考えに関する弊害は、あまりにも見過ごされてきたのではないだろうか。

この社会はおよそすべてが方法論として回収されている。社内でのハラスメント問題、DV、監査、第三者委員会、いじめ、炎上、法律などすべて第三者を介入させることによって客観的に判断されることを是としている。そのような方法論自体を否定する人はいない。生活保護の申請に共産党の議員を連れていく。犯罪にあったら警察に通報する。貧窮したらNPOに頼る。リクルートを使って就職活動をする。コンサルタントに相談する。編集者に校正してもらう。あるいは貨幣制度そのものが貨幣という第三者に絶対の権力を置いている状態だと言うこともできる。最も大きな話で言えば三権分立での司法がそれにあたる。善悪や正義、こうあるべきだという判断は第三者によってなされるべきものとして考えられている。しかし僕達はそれによって「正義を手放してしまっている」のではないだろうか?あるいは第三者の権力が大きくなりすぎたのではないだろうか?

 

ベタな話で言えば、僕達はことあるごとにインターネットに投稿してその賛否を問う。記憶に新しいものとしては伊是名さんとJRの件がある。車いす生活者は電車に乗ることも一筋縄ではいかないという困難を社会問題として提起していた。あれも第三者にその判断を委ねる行為だった。僕達はあらゆるイシューを世に問い、答えを求める。それは方法論として肯定される。

正義のありかというと大仰に過ぎる気がしないでもないが、この社会の正義は「第三者」に委ねられている。第三者を召喚する方法が正しいとされる。三権分立における司法のように。利害関係やパワーバランスが存在しない独立性を持った機関によって正義は行われるべきだという司法のありかたに則り、第三者が判断することが正しいという価値基準はおよそ支配的である。

しかしながら、三権分立における司法と、僕達がことあるごとに持ち出す第三者的方法論はその様相がすこし違う。司法は独立性が担保され法の下に運営されているが、僕達がその正義を委譲する第三者は独立性が担保されているわけでもないうえ、利害関係から離れているわけでもない。

伊是名さんの件にしても政争の具と化してしまい、ポジショントークに回収されてしまった側面があった。リベラルが障碍者という属性によってのみ彼女の行為を擁護していたように、第三者にその判断を委ねた時、その正義はポジションに吸収されてしまうのがインターネットの常である。

いずれにしろ物事は第三者によって判断されるべきだという方法論はひどく危うい側面を持っている。にも関わらずそれはあまりにもピュアに肯定されてきたのだ。

 

 

「第三者によって客観的に判断されたことが正義である」という思考の癖はものすごく大きな弊害を生んでいる。三島由紀夫が言っていた空気に迎合する日本人というのも、ようするに第三者にその正義を委託している状態だとも言える。僕達が正義について言いよどむのは正義がこちら側のものではないという考え方に由来しているのだろう。正義はつねにあちら側のものとして扱われてきた。社会や司法や法律が正しさであり、それに否定されたものは駄目だというあちら側の判断によって正しさは規定されている。このような趨勢はインターネットによって情報が開かれた現代においてさらに加速し、支配的になっている。あちら側が正しいという空気に抗うことはとても難しい。司法によって裁かれる悪人のように、すべては第三者の判断によって何が正しいか正しくないかが決定される。何が正しいかという善悪の判断以上にそれは方法論として肯定され、この社会を覆っているのだ。

 

この手の問題は司法が正義を判断するべきだという三権分立を程度問題として否定しなければいけないので、とても難しいことではある。概念的な正義のありかたと司法における正義は本来別物であるはずなのだが、それがいつのまにか同一視されるようになった。司法に正義をあおぐように、僕達は社会にその賛否を問う。自らの怒りが正当であるかどうかさえも社会に還元し、第三者によって判断されることを是としている。そしてそれが当たり前になればなるほど僕達は自らの正義について考えることをやめ、主体的価値基準を手放してしまったのであろう。

あるのは事例や属性、マイノリティーやマジョリティーといった区分であり、社会問題として現れるのは「あちら側の問題として定義しうるものだけ」となっている。こちら側はあちら側の定義に乗ることによって正義の俎上に上ることができる。そのような方法でしかこの社会で正しさを定義することはできなくなった。弱者男性論がフェミニズムというあちら側の定義を引用するように、あちら側の定義によってのみ区分し、正しさを戦わせている。議論においてブーメランという批判が頻繁に使われるのも方法論としての定義づけにみなが終始しているからこそ強烈な皮肉として機能するためであろう。そのような現況において、あらゆることを俎上に載せ続けることであちら側の領域はどんどん拡大している。すべてをあちら側の正義によって区分していく限り、主体としての個人はいなくなり、個人は属性や集団の駒になってしまったのだ。LGBTが政争の具と化してしまったように、こちら側は問題にされなくなる。

 

「正義とはこちら側が考えるべきものではなくあちら側にあるものだ」という考え方、方法論は政治の現場にも色濃く表れている。第三者によって正義が判断される社会に生きる人々には3つの選択が与えられている。

・正義について考えることをやめるか(無党派層

・あちら側の正義に乗っかるか(リべサヨ、ネトウヨ

・それでもなおこちら側の正義を信じるか

 僕達が政治に関心を持てないのはなぜなのか、様々なところで考察されることであるが、そのひとつに「何が正しいことか『こちら側』が考えても意味を為さないから」がある。正義があちら側にある以上、正義にコミットするにはあちら側と同化するしかない。あちら側に正しさの軸を置いている限り、主体的に考えて判断することはとても難しく、意味がない行為だとすら言える。そのような政治状況にあってなお自らが正しさについて考えるべきだと言うことにどれほどの意味があるのだろうかと、僕なんかは思ったりする。

 

 この社会はおよそ主体的な正しさを持てるようにはできていない。あちら側に正しさを委ねる正義の方法論として主体性は否定されている。中庸という概念もそれに寄与しており、三権分立という社会のありかたもそれを基礎づけている。正義について考えないことが正しく、個人が考える正しさなどないという言論はおよそ支配的であるが、だからこそ逆説的にべっとりとあちら側の正しさに張り付くことになる。政治的にはそれがネトウヨであったり、フェミニズムだったりするが、いずれにせよこちら側に正しさを認めない方法論そのものがあちら側の正しさに過度な影響力を持たせ、同時にこちら側の無力感をも生み出すという建付けになっている。

 

さらに言えば、第三者によって肯定された時にのみ主体は主体として存在することを許されるのだから、つまるところ自ら主体を構築する行為とは適応以上のものにはならない。あちら側の世界に行くためにみな成長しようとするし、あちら側の世界の住人として生きていきたいからこそより強く適応しようとする。そうした社会の在り方の根本原因として第三者によって判断されることが正しいという方法論が厳として存在する。

それは現実でもネットでも、あるいはフィクションにおいても変わることはない。あちら側の方法論自体を否定する言説はいまのところあまり見たことがない。もちろん僕も否定したいわけではない。システム、メディア、インターネット、三権分立などの社会構造を否定できるはずもない。ただ自覚的でありたいとは思っているだけだ。善悪を判断する正義よりも以前のこの社会の定義としてあちら側の理論、第三者的方法論が居座っているのではないか。

 

うまく書けてない気がするけれど、この社会の構造や正義のありかたそのものが正しさから人を引き剥がしているのではないかと、そんなことを思うようになった。

なぜ僕達は人殺しの顔ができないのか~神の不在と道徳の恣意性及び加工アプリについて~

もう10年前なのか、この記事・・・

goldhead.hatenablog.com

 

自分が読んだのは3年程前なのでそんなに時間が経っている感じはしないけれど、関連する記事を黄金頭さん本人が書いていた。

「人殺しの顔をしていない、人殺し」が、怖くてならない。 | Books&Apps

 

「人殺しの顔をしろ」はものすごくクリティカルな表現だと思う。アーレントの凡庸な悪として読まれがちなところがあるけれど、もっと広範な領域に刺さる言葉なんじゃないかな。僕達は10年前も今もたいして変わっていやしない。相変わらず人を殺すこと(もちろん抽象的な意味です)に鈍感であるし、ややもすると10年前よりもその自覚が無くなっているきらいすらある。人を殺し続けているにもかかわらず人殺しの意識がどんどん希薄になっている。ましてや人殺しの顔をしている人などどこにもいない。

どちらかといえば人殺しが正しいとすら思いはじめてきているのではないだろうか。自分が先日書いた記事がまさにそのような論旨だったけれど

弁当と数と幽霊とインターネットと津田大介氏 - メロンダウト

自分がしたコメントが誹謗中傷になるなんて微塵も考えていない。さらにはコメントを向ける対象が悪人であればそのコメントは正当なものであるとさえ勘違いしている。こうした構造にたいして僕達はあまりにも無自覚にインターネットを使っている

 

 コメントの属人性が数に埋もれ希釈されているので、個々人が罪悪感を持つことはないと書いた。社会的に正しいことを言う人は自らが善人であり、マジョリティーであるという顔をしている。しかしながら結果としてその言葉は人を殺す言葉になる。ソーシャルジャスティスを振りかざしている人々は人殺しの顔をすべきであるが、おそらくは誰もそのような顔はしていない。みな自分が正しいと思っている。あるいは僕自身もそうである。

理由を考えるに、このような話はニーチェが言うところの「神は死んだ」に起因しているのではないだろうか。元来道徳はキリスト教的な世界線における啓示としてあったものだけど、ニーチェ実証主義哲学の台頭によって神がいなくなってしまったんですよね。本来はキリスト教的な教義が道徳を形作っていたけれど、それがなくなると「人間が考えた道徳という変な道徳」が出てくるようになった。

神が考えた道徳ならわかる。しかしお前は誰だ。おまえが考えた道徳で俺を啓蒙する権利あるのか?と永遠とやっているのが僕達である。

「僕が考えた最強の道徳」という恣意的な道徳によって世界を切り分けるとおかしなことになる。近年問題となっているほとんどの問題は「神の不在及び神の不在による道徳の恣意性」が絡んでいる。そしてそれは人殺しの顔ができなくなったことにも関係している。

前近代的キリスト教の道徳が正しいとは言えないけれど、それが仮に間違っていたとしてもその道徳は思想的な「軸足」として機能していたんですよね。自分が経験的に得てきた思想だったりをキリスト教の道徳と照らし合わせることによって、自分がどのような人間であるのかを相対的に浮かび上がらせる機能が神にはあった。そしてそれは神の権威によって成り立っていた。侵されざる神としてのキリストだからこそ、そこに絶対の比較級を預けることができた。人間が個々に考えた道徳ではそうはいかない。神という権威を挟まないとそれは機能しないのだ。僕も聖書を読んだことがあるけれど、あれは信仰の対象として読む以上に「それを神としてとらえて読む」ことで自らの在り方を投射する機能があるのだと思う。一方で、人間が考えた道徳は恣意的な線引きがされてしまう。利益誘導や詐術によって間違った方向へ持っていかれる危険がある。神という絶対の権威をそこに見出さない限り、道徳は道徳として機能しない。それを信仰するにせよ反発するにせよ、神が権威としてなければそこに絶対も相対も無い。

 

それが神の社会的役割だったのだけど、近代において「社会的機能としての神」はいなくなった。誰もが独自の道徳、神を信仰している。そうなると恣意的な道徳をふりかざす人が出てくるようになった。たとえばそれは資本主義であったり、リベラルであったり、国家であったり、セックスだったりする。

冒頭の黄金頭さんの記事に戻れば、施工業者が欠陥住宅をつくっておきながら人殺しの顔をしないのは資本主義を道徳として信仰しているからと言える。会社を経営し、社員を養っていくことが倫理を凌駕する恣意的な道徳として上書きされているのであろう。彼らの中でそのような理由=資本が道徳であり、神であるのだ。神が人を殺しても良いと言っている。ならば人殺しの顔をする必要などない。というかそんな意識すらない。彼らの中では資本を獲得することがすべてを正当化する道徳であり、神なのである。

資本主義という神の話で言えば、たとえばパチンコ店の従業員が笑顔で接客していることも、よりプロテスタンティズムに近い資本主義的道徳なのであろう。労働者である自分がどのような顔をしていようがそれは資本主義としての神=経営者の指示なので従うべきものとして正当化される。あるいはブルシットジョブと呼ばれる職種も例外ではない。

 

はたまたリベラルが道徳を持ち出すことが多いのも同様の構造となっている。世界ではこうなっているという大きすぎる話を神として引っ張ってきて道徳として使用する。神を世界に置き換えて疑似的に復活させることで啓示として人々に蒙を説いている。神は反論不可能であるもののほうが「神っぽい」ので世界を引用する。それを外部から見ると権威主義的に見える。リベラルが時に上から目線に見えるのは彼らが「彼らの神の代弁者」であることに起因している。

市民感覚としての白饅頭、知性主義の限界、経験の抹殺 - メロンダウト

 

ネトウヨなども国粋主義的な側面において同様であり、ツイフェミと呼ばれている人々も恣意的なジェンダー観や女性性といった道徳によってその善悪は決定される。セクシズムやルッキズムと言われるものも、より動物的なものとしての神をインストールしている。あるいは僕自身も例外ではない。最近だと朝井リョウさんは神だと思っていたりする。

いずれにせよその道徳、神は恣意的に召喚され、そして恣意的に抹消されては移ろっていく。ことあるごとに僕達はそれぞれに都合の良い神を呼び出してはそこに責任を帰依させ、人殺しの意識から逃れつづけている。

そのような恣意的自由に右も左も吸収されてしまったのが昨今の政治的風景なのであろう。僕達は思想的軸足をあえて持たない。ネオリベと言われている思想とはすこし違う。人殺しの意識から逃れるためのセキュリティーとして自由があるのだ。「本来あるべき人殺しとしての自我の戦慄」をアウトソースする機能として自由があるだけなのである。その意味で人殺しの顔をしろという批判はものすごくクリティカルに近代及び日本を表現していると言える。タイムリーな人殺しの話で言えば、五輪の開催で誰も中止を言い出せず責任を回避している状態こそがまさにそれである。

 

道徳が人殺しを正当化する。そしてそれは恣意的に線引きされている。誰を殺しても良い。そのような小児的自由とでも呼ぶべき恣意性が社会を覆っている。僕達は人殺しの顔をしない。できない。僕達の顔を映し出す鏡としての宗教が死んだからである。その代わりにそれぞれが恣意的に選べる「アプリ」によって自分がどんな顔をしているのかを加工することができるようになった。その加工技術のことを今日では道徳と呼んでいるのではないだろうか。